2008年10月25日

接続詞のない世界

情報考学」の「文章は接続詞で決まる」というエントリーを読んでいて、これを思い出しました。

我々が文章のあたりまえのつなぎ方だと思っている「接続」表現を、列挙の方法は用いない

田中優子さんは「日本には古代末期から様々な列挙の方法が」あり、「それは近世に至るまで、まさにそれぞれの時代特有の機能をもった」ことを述べ、さらに列挙の方法は、時代や、表現ジャンル、表現内容によってさまざまな形式をとったため、ひとくくりにしては言えないがということを前置きした上で、列挙の方法の大きな共通点のひとつとして、上の引用にある列挙という方法の特徴をあげています。

「接続詞のない世界」の続き
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2008年10月15日

毎日の生活に密着した夢の実現

約2週間、総勢50名を対象にしたユーザー調査マラソンもようやく今日が最終日。
ユーザー調査は内容的にはいろんな発見があるので好きですが、新しいことを発見するのにはそれなりの集中力も必要で体力的にはきつい。緊張感も保った状態でいないといけないので自分がインタビュアでなくて裏からモニタリングするだけでも気づかれします。その意味ではやっぱり、やっと終わると思うとほっとしますね。

そんな状態ですので、ブログの内容も自分が考えたことというより、前回の「格差社会とは」と同様に本を読んでおもしろかったことをご紹介することでお茶を濁しておきます。紹介する本も前回同様で田中優子さんの『カムイ伝講義』。

ギークとしての江戸の農民

この『カムイ伝講義』を読んでいると、江戸時代において農民とは現代でいうギークにほかならなかったことがわかります。しかも、以下の引用にあるように、その技術を秘密にするのではなくオープンにしていたあたりがギーク的だなと感じました。

江戸時代は農書が盛んに書かれた時代であった。農民が積極的に農業技術マニュアルを書き、決して閉鎖的にならず、技術を共有しようとしたのである。
田中優子『カムイ伝講義』

もちろん、前回書いたように、江戸時代というのは階級内格差が大きかった時代ですので、ひとことで農民といってもアルファギークのように新田開発や塩田、砂糖絞り、煙草や茶、綿花の栽培、飢饉の際の救援植物としてのサツマイモ栽培、薬としての朝鮮ニンジン栽培、灌漑設備の工夫など、それまで成しえなかった農業技術を飛躍的に向上させた人びともいれば、ごくごく普通の人もいたのでしょう。

『カムイ伝』で取り上げられる綿花栽培やそれを可能にする下肥システムの確立、干鰯による肥料の改善、木綿糸、木綿布の生産技術も、それまでは朝鮮や中国からの輸入に頼っていたものを、江戸期において一気に国内生産に切り替え、世界一人口が多い都市であった江戸の需要を十分に支えられる生産量を可能にしたそうです。
さらにいえば、はじめは太い糸しか紡げず用途も作業着や帆布などに限られていたものを、インドの技術を取り入れることで細い糸も紡げるようにして、都会で暮らす人びとがお洒落着として着こなせるような縞織物も生産できるようになって、都市部の人びとの需要も喚起したというのはすごい。

「毎日の生活に密着した夢の実現」の続き
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2008年10月13日

格差社会とは

ごもっとも。そう言うしかありません。

格差社会とは、自分の生まれ育った環境に拘束され、他の暮らしを想像できないようになる社会だ。
田中優子『カムイ伝講義』

まさにそうなんです。僕がこのブログで口酸っぱく自分の外のオルタナティブを見ないといけない、歴史に学ばないといけないと書いているのも「自分の生まれ育った環境に拘束されずに「他の暮らしを想像でき」るようになるためです。



「格差社会とは」の続き
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2008年09月07日

近代以前の文字はどう読まれ/見られていたのか?

こういう筆で書かれた文字って読めますか? 僕は読めません。



ちなみに右が「君看雙眼色(君看よ双眼の色)」で、左が「不語似無憂(語らざるは憂なきに似たり)」と書かれていて、それぞれ良寛の書。
松岡正剛さんの『外は、良寛。』に載っているものです。

「近代以前の文字はどう読まれ/見られていたのか?」の続き
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2008年02月21日

不確実な世界の変化を受け入れる敏感さ

もしかしたら客観性とは、いまを生きる自分がもつ同時代性を越えて、自分に時代を越えた視点を与えてくれる視点なのかもしれないな・・・。
昨日の「意味を超えたところにある何か」ではそんなことを書きました。

意味に問えば、人は必ず同時代の言説や物事、しくみに縛られざるをえなくなります。
しかし、意識的に知覚することはできない小さな声であっても身体は感知しているのであって、その声に従うなら時代を超えて古(いにしえ)の世界を知ることもできるのではないか。

白洲正子さんの『かくれ里』を読みながら、そんなことを考えます。

自然の景色は、それこそ「つはものどもの夢の跡」で、すべてを呑みこんで黙しているが、その気になって付合えば、ついには口をわってくれるものと、私は信じたいし、信じてもいる。少なくとも、昔の人たちは、そうすることによって、思想をやしない、あのようにしっかりした言葉と形を生んだのであった。
白洲正子『かくれ里』

ここでいう「あのようにしっかりした言葉」は、柿本人麻呂が軽の皇子(文武天皇)の阿騎野での狩りをうたった長歌および反歌(ひむがしの野にかげろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ)であり、「形」のほうはその「阿騎野」だった場所だと考えられている大宇陀にある大蔵寺を指しています。

その大蔵寺をみて、白洲さんは、

昔の寺院は、自然を実にたくみに取入れているというか、まわりの景色の中にすっぽりはまりこんで、人工的な建造物であることを忘れさせる。寺院だけとは限らない。神社も住居も、あたかも自然の一部のごとき感を与える。これは彼らがあらゆる物事に対して、敏感だったために他ならない。現代の生活は、人を神経質にさせるが、決して敏感にはしてくれない。
白洲正子『かくれ里』

とも書いています。

敏感と神経質。いっけん似ているようで大きく異なります。
変化や不確実性に対する許容範囲が大きく違っています。
前者は受け入れ、後者は拒みます。

自然を記号化する科学的表現ではなく、自然とともにある文学・歌謡のような表現に身を委ねることで、「わかる」ということの意味も大きく変わってくるのではないか。
それは自分を固定化した自分にしてしまう近現代の呪詛からみずからを解放し、自然とともにうつろいゆく自分というものをふたたび感じられるようにしてくれるのではないか。
白洲さんがもう40年近く前に書いた『かくれ里』を読んでいると、そんなことを思うのです。「不確実な世界の変化を受け入れる敏感さ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月20日

意味を超えたところにある何か

今日、写真をみる視線をアイトラッキングで調べていて発見したこと。何気なく写真をみる人びとの視線には共通するパターンがあるのだということ。そして、そのパターンは決して意味のあるパターンだとは限らないこと。意味を超えて人びとの目をひきつける何かが写真のうえにはあるのだけれど、それは意味を読む目からはわからないのだということ。

そんなことからも、身体にはきっと僕らの意識が読み取れない意味を超えた意味を読みとる力が備わっているのだと感じます。

生き物と表現の残滓

『デザイン12の扉』という本のなかで養老孟司さんは、「脳というのは、固定した表現をほとんど無限につくり出している器官」であると言っています。

今日のエントリーの話はまずここからはじまります。

養老さんは、ピラミッドやミイラの例も出しつつ、デザインを含む表現という人間(脳)がおこなう行為を、人間(脳)それ自体と比較して「生き物は二度と同じ状態にあることはなく、反対に表現は決して変化しない」と言います。
生物とその表現を、変化するものと固定化されたものという対比でみているわけですね。

この「表現」には人工物としての情報も含まれます。
養老さんは「情報化社会は脳化社会であって、なかなか消えないゴミをたくさんつくりだす社会」と考えているようです。

何かを伝えるための表現は用が終われば存在する必要はないのですが、残念ながら表現するためにはほとんどの場合、人間が知覚可能なモノを生み出さなくてはいけません。口から発せられた言葉のようにあとに残らないものもまれにありますが、紙のうえやWeb上に書かれたテキストをはじめ、絵や書籍、そして、商品や都市、そして、養老さんがいうピラミッドやミイラなどをはじめ、多くのものは、それが生み出される際の表現という用途を越えて存在し続けます。

もちろん、このブログのエントリーも。
表現が済めば用済みで消えてなくなってもいいはずですが、それはWeb上に存在し続けます。
まあ当たり前ですね。そもそもWeblogなんですから。

そういうことを踏まえて、養老さんは「生き物は二度と同じ状態にあることはなく、反対に表現は決して変化しない」と言っています。

もちろん、厳密にいえば、人間によって表現されたものも変化します。その意味では諸行無常です。
しかし、養老さんがいうように「長い目で見れば情報も同じ運命にあるとはいえ、まず消えるのは人間の方」です。
そして、人間が消えても表現の残滓としての情報やモノはこの世に残り続けます。表現という用途が失われたらただのゴミかもしれないのに、です。
「意味を超えたところにある何か」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月19日

「自分探し」より大事なのは「もう一人の自分」をみつけること

上田篤さんの『庭と日本人』という本を読んでいて、世阿弥のこの言葉にひかれました。

見所より見るところの風姿はわが離見なり。わが眼の見るところは我見なり
世阿弥『花鏡』

ここでいう「我見」は舞台で舞う自分の目であり、もうひとつの「離見」とは舞台で舞う自分をみるもう一人の自分を指しています。

世阿弥はそういう二人の自分をもって能は大成するといい、これは「離見の見」といわれるものだそうです。

自分の心をコントロールする

この例を出しつつ、上田さんは<茶の湯もおなじだろう>と言っています。

茶の点前をする自分のほかに「もう一人の自分」がいて、茶の点前をする自分を見ている。そういう視線にたいして過ちのないように茶の点前をしなければならない。いわば主観性と客観性とをあわせもつ芸である。ということは、茶道という芸は自分の心をコントロールすることなのだ。自分の心が芸をコントロールすることではないのである。
上田篤『庭と日本人』

この<自分の心をコントロールする>のであって、<自分の心が芸をコントロールすることではない>という一文にはやられました。

芸をコントロールしようとしてもダメなんですね。
そもそもの自分の心をコントロールしないと芸にならないということです。

ここで大事なのは、<主観性と客観性>というのは、現代的に前者が感覚的・個人的なものであり、後者が科学的・社会的なものであるかのように考えてはいけないということだと思います。この主観性と客観性の区分は、科学的に証明可能だとか、社会的に認められているだとか、そういうこととそうでないものを分ける現代的な見方とは明らかに異なる<主観性と客観性>の区分だと思われます。

いってみれば、主観も客観もいずれもが個人の感覚を抜け出るものではないし、どちらもそれでいて普遍的なものにつながっているものだと思います。
それは内部からみるか外部からみるかであって、いずれも自分の視線であり、異なる<二人の自分>をもつことなのでしょう。
「「自分探し」より大事なのは「もう一人の自分」をみつけること」の続き
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2008年01月28日

縦書き・横書き

さっき気がつきました。

普段、自分が紙などに字を書くときに横書きで書いているってことに。

最近、本は縦書きのほうが読みやすいし、美しいななんてことを思ったり、話したりしていたんですけど、そういう自分が普段、字を書く際に横に文字を書いていることに、いまさら気づいたんです。

気づいたのは、今日、「メモを書く」ことに関する簡易的なユーザー観察調査をやったからで、見ていたときは気づかなかったんですけど、あとで振り返ってみて、あれ、横に書いているって思ったんです。
で、振り返ってみると、自分も横書き。

「縦書き・横書き」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:15| Comment(1) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月27日

どこに「心を配る」のか

確かにこれはおっしゃるとおり。

「忙」というのは、「時間がない」のではない。文字通り「心が亡い」、すなわち配るだけの心がない、ということなのだ。

でも、どこに「心を配る」のかということも、もう1つ問題としていいような気がします。

「どこに「心を配る」のか」の続き
ラベル:忙しい ビジネス
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2008年01月06日

見立てという方法とともにある日本

これは読んで、なるほど、と思いました。

装飾には、教養が必要ですが、現代のデザインには、文化人類学的な発想が非常に少なくなってしまいました。ファンクションが勝ちすぎています。
内田繁『茶室とインテリア』

西林克彦さんが『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』で書いていたように、文脈がわからなければ「わからない」のです。「わかる」ためにはある程度、記憶としての教養の蓄積が前提となります。目の前で見たものが自分の中に蓄積された記憶の文脈とつながってはじめて「わかった」となる。「そこにどのような意味があるのかという視点が加わると、突然、別のものが見えてきます」と内田繁さんも言っているのはそういう意味でしょう。そして、教養がないから現代人には装飾の意味がわからない。そして、現代のデザインからは装飾が消えてしまうのでしょう。シンプルがいいなどといいつつ、単に装飾、飾りのもつ意味を読み解く力が退化しているだけかもしれません。

「見立てという方法とともにある日本」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:33| Comment(2) | TrackBack(1) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月02日

「間」のデザイン

あけましておめでとうございます。

今年の書初めはこんなエントリーから。
「間」についてです。

「間」は日本独特の観念だといわれています。外国人に「間」を説明するのはなかなかむずかしいといわれます。「間」は説明するのはむずかしいけれど、たいていの日本人は「間」を程度の差はあれ、理解しているはずです。

だから、「間」に関する言葉がたくさんあるのでしょう。

  • 間抜け
  • 間延び
  • 間がわるい
  • 間をもたせる
  • 間違う
  • 間に合う
  • 間合い
  • 間際
  • 間怠こしい(まだるこしい)

など。
昨年の流行語に「KY」なんてのがありましたけど、空気は読めなくても、間はわかるのかな。ここに挙げた言葉のリストを見ると、結構、間を読むのも大変だろうなって思います。本当に間違ったりしないようにしたり、まだるっこさを他人に感じさせないようにするには、相当、間合いを読む力が必要そうですよね。真剣勝負で相手の間合いを読むような力が。

「間」は訓読みすれば「あいだ」ですよね。だから、当然、時間や空間という言葉につながってきます。合間、隙間、雨間などの言葉もあります。柱や壁などにはさまれた空間は、客間になったり、居間になったり、応接間、床の間、お茶の間になったりします。襖ももしかすると「伏す間」であり、間を隠すことから生じたのかもしれませんね。

「「間」のデザイン」の続き
ラベル: 松岡正剛
posted by HIROKI tanahashi at 02:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする