古代研究―2.祝詞の発生/折口信夫

折口信夫さんの本がおもしろくてたまりません。 先日、このブログ上でも紹介した『古代研究―1.祭りの発生』に続けて、『古代研究―2.祝詞の発生』を読み終わりました。いまはさらに続けて、『古代研究―3.国文学の発生』を読んでいます。 折口さん自身が、この本に所収の「神道に現れた民族論理」に「日本人の物の考へ方が、永久性を持つ様になつたのは、勿論、文章が出来てからであるが、今日の処で、最も古い文章だ、と思はれるのは、祝詞の型をつくった、呪詞であつて、其が、日本人の思考の法則を、種々に展開させて来てゐるのである。私は此意味で、凡日本民族の古代生活を知らうと思ふ者は、文芸家でも、宗教家でも、又倫理学者・歴史家でも皆、呪詞の研究から出発せねばならぬ、と思ふ」書かれていますが、僕も折口さんの本を読み進めながら、まさにそのとおりだと感じます。日本人の思考というものについて考えようとすれば、呪詞に立ち還ってみる努力が求められるだろうという考えが強くなってきています。 さらに範囲を広げていうなら、日本人の思考のみならず、先日の「なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか」でも書いたように、ことばと信念・希望といったものの関係、あるいは、それにともなうい行為としてのコミュニケーションを考えていくうえでも、呪詞や祝詞に目を向けることは非常に大切なことだと思えるのです。それはいわゆる脳科学や認知科学では手の届かない人間の思考や認知、ことばとの関係を考える方法を与えてくれるものだと思うからです。 …

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うつわの裏の多様性

以前、「模様を生む力の衰え」でも紹介しましたが、日本の器のソロエは、ウェッジウッドの食器のようにセットで文様すべてが揃うようにはできていません。一見揃っているように見えても文様も形もバラバラだったりする。松岡正剛さんは「不揃いなのにソロイになっている」という言い方をしています。そして、それが「日本の方法の秘密」だともいっています。 ところが、それに続けて松岡さんはこうも言います。 「現在の日本はこれがうまくできなくなっている。世界のスタンダードに合わせて、何もかも同型・同質に揃えようとしすぎているし、ミニマルなシンプル・デザインが流行して、文様の扱い方が超ヘタクソです」(『神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く』)と。

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在り続けてほしいもののために、僕ができること

1ヶ月近く前のエントリーですが、なぜか運よく僕の眼の中(RSSリーダー)に飛び込んできました。 きっと眼にするタイミングってあるんでしょうね。エントリーの冒頭の部分の清水エスパルスの話は前にも読んだ記憶があるので、そのときは残念ながら読み飛ばしてしまっていたのでしょう。でも、あらためて今日眼にしてみて、この最後の部分に共感しました。 伝統工芸の職人を取材する「職人の哲学」というシリーズをやっていた時、一緒に取材に行ったカメラマンさんが、こんなことを言っていた。 「ぼくが以前、一緒に仕事をしていた編集長は、職人のところに取材に行くと必ずなにかものを買っていた。そのことが、その伝統工芸を守ることにつながるとわかっていたからなんですよね」 わたしに向けて、ではなく、職人さんに対して語った言葉で、いつも取材に行くだけのわたしは、「こういうものに在り続けてほしい」と言いながら、どこか距離を置いて買い物をするわけじゃない自分を恥ずかしく思った。高価で手が出ないことも多い。でも、その言葉を心に刻もうと思った。 在り続けてほしいもののために、自分ができること - 雪景色 僕の民藝好きはいまさらいうまでもありませんが、民藝の品を買うときの気持ちは、ここに書かれている気持ちに重なるものがあります。ものづくりをする職人だけでなく、そうしたものづくりを僕らに紹介する活動を続けていらっしゃる鎌倉・もやい工藝さんのような方々に対しても、「在り続けてほしい」と思ってお金を払っています。 なので…

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日本における生成の概念と「型と形」

大量生産の複製品でもなく、かといって、手描きの絵のようにこの世で唯一の作品でもない、手作業による複製品である、芹沢銈介さんの型絵染(or 型染)作品をみて、僕はこの文章のことを思い出していました。 グノーシス派のとくにエジプトの人々は、物質に対して鋭敏な感覚を持ち、物質の内部に潜む諸力の混淆をよく把握していた。それに対し、近代人は物質を形で捉える。近代人にとって物質とは第一に物体の問題であって、近代人は物体の外形を視覚で捉え、それを理性で処理していく。分類したり比較しながら、より大きな物体の生産に利用していく。近代人は、それゆえ、物体相互の底に流れる物質の内的諸力に対しては鈍感だ。 酒井健『バタイユ』 物質を外形で視覚的に捉える近代人と、形を超えて存在する物質内部の諸力に眼を向けるグノーシス派のエジプト人という対比。 僕は、ここに母型としての型と個別の作品としての形の関係性のうちにある作品としての型絵染(or 型染)の作品制作にこだわった芹沢銈介さんの感性との関連性を感じたのです。 そして、それはさまざまな芸能や武術において、型というものを重視してきた日本人の感性との関連性でもあるだろうと思ったのです。

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内藤商店の棕櫚箒

先週、京都に行った際、念願の内藤商店の棕櫚(しゅろ)箒を手に入れました。 箒なのに、どうこの美しさw。 内藤商店は、京都三条大橋の近くにある1818年創業の棕櫚製品専門店。 京都の専門の職人さんの手作りの箒やタワシを扱っています。 http://www.joho-kyoto.or.jp/~sankoba/omiseyasan/naito/naito.html 棕櫚の箒は、棕櫚の樹脂が床を磨く効果があるといわれています。使えば使うほどに毛先が柔軟になって使いやすくなり、床や畳にもツヤが生まれるそうです。 普通に使っても20年はもち、長い人は30年~40年も使う人がいるそうです。以前、「どうせ持つなら長く使えるものを」なんてエントリーも書きましたが、この箒も文句なしに「長く使えるもの」の仲間入りです。 使い始めは棕櫚の粉が出るそうなので、畳に使うのはNGとのこと。 いまのところはフローリングのみで使用中です。   関連エントリー 河井寛次郎記念館下鴨神社&銀閣寺どうせ持つなら長く使えるものを

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日本の食糧事情のほうが「残念」

イソムラさんのブログより。 日本の食糧自給率は40%です。 食料を自給しえている国は外国の干渉を排除することができるすこし前に「民俗学の旅/宮本常一」でも『民俗学の旅』のなかの次の一文を紹介しました。 一人一人がそれぞれの立場で平和のためのなさねばならぬことをなし、お互いがどこへいっても自分の是とすることを主張し、話しあえる自主性を持つことであり、周囲の国々の駆け引きに下手にまきこまれないようにすることであろう。そしてそれを農民の立場から主張していくには、食料の自給をはかることではないかと考えた。食料を自給しえている国は外国の干渉を排除することができる。それは今日までの歴史を見ればおのずから肯定できる。 宮本常一『民俗学の旅』 こう書く宮本さんは戦中から、敗戦後の日本の食糧事情を考えて、各地の農家の協力を得ようと各地を奔走するわけです。 宮本さんは別の本でもこう書いています(「塩の道/宮本常一」)。 戦国時代というのは約100年ほど戦争が続くのですが、100年も戦争が続いた中でみんなが餓死したかというと、そういうことはほとんどありません。ということは、ちゃんと穀物を作る人たちがいたということです。ずいぶん食べ物の質も悪くなっていますが、それでもとにかく食いつなぐことができた。そして戦争する者は戦争をしていた。戦争する者と、それから耕作する者と、それが別々であった。つまり、農村社会というものと武家社会とは別々の世界であったということがわかるわけです。 宮本常一…

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日本語ということばを使う日本人

あまりに多忙すぎて最近はブログを書くヒマがありません。 寝不足です。 各駅停車どころか遅延が発生しています。やっぱり計画が大事です。 というわけで、6/18発売予定の『デザイン思考の仕事術』のために書いた原稿から、文字数の関係でボツにしたものをエントリーの代わりに・・・。 川喜田二郎さんも書いていることですが、日本人というのは頭の中だけで処理できる量の情報を相手にして、勘をはたらかせて雑然とした情報を統合的に処理するというのは得意です。だからこそ俳句や盆栽などの小さな世界に情報を圧縮してみせる文化も生まれ発達してきました。 ただ、頭の中での圧縮作業が得意だからこそ、逆に手間をかけて情報を圧縮するということが苦手だったりします。パッと見ただけでは処理しきれない量や複雑さをもった情報群を前にすると、途端になす術をなくしてしまうという欠点もあります。KJ法のような作業をめんどうと感じるのも、そうした苦手意識が影響しているのだろうなと思います。

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万葉仮名生活 辺能 誘

「平仮名生活 辺能 誘」我 安留 奈羅、「万葉仮名生活 辺能 誘」毛 有手 良 斗 思宇。 祖子手、僕 和 平仮名生活 似 素留 位 奈羅、万葉仮名生活 之 方我 良 斗 思手以留。 以下、通常通り、漢字仮名交じり文でお伝えします。

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イザナギとイザナミ

イザナギとイザナミって、こんなに、おもろカップルだったんだw 「わたしのからだはよくできていますが、足りないところが一ヶ所あります」 と伊耶那美は答えました。伊耶那岐はそれを聞いて、 「わたしのからだもよくできているけれど、余ったところが一ヶ所ある。この余ったところをお前の足りないところに差し入れてふさいで、国を生もうと思うのだがどうだろう」 と聞きました。「それはいいわ」と伊耶那美はうなずきました。 鎌田東二『神様に出会える 聖地めぐりガイド』 これはもともとは『古事記』の文章です。 伊耶那美「わが身はなりなりて成り合はざる処一処あり」 伊耶那岐「わが身はなりなりて成り余れる処一処あり。故(かれ)このわが身の成り余れる処を以て、汝が身の成り合はざる処を刺し塞ぎて、国土(くに)を生み成さんと以為(おも)ふ。生むこといかん」 国産み - Wikipedia それをこんな風に現代語訳するとは、鎌田東二さん、good job!です。

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喜びも悲しみも大家に集まる

宮本常一さんの『日本人の住まい―生きる場のかたちとその変遷』を読んでいます。 宮本常一さんの本はこれまで読んだ『忘れられた日本人』も『日本文化の形成/宮本常一』もおもしろかったんですが、これがまた、住まいのかたちから日本人のかつての暮らしや社会がわかって、非常におもしろく感じます。 日本人の暮らしというと畳の生活を思い浮かべたりしますが、実は明治の初め頃までは土間にもみ殻や藁を敷き、その上にむしろを敷いて暮らしていた家が多かったとか、主人は納戸に寝ていて、窓のない納戸は寝床も敷いたままの万年床だったとか。意外と僕らがイメージしている日本人の昔の生活というのは、根拠のない想像であることがわかります。

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もやい工藝

午前中の雨もやみ、午後からは急に天気もよくなったので、ふと思いついて、鎌倉のもやい工藝に行ってきました。 もやい工藝:http://moyaikogei.jp/ 民藝のお店では、若松河田・備後屋も好きですが、ここも好きなお店です。 備後屋は器以外にも、織物・染物・竹製品・木工と幅広く扱っていますが、もやい工藝はどちらかというと器の占める割合が高い。ただ、器を選ぶのはこちらのほうが良い品が揃っている気がします。 ちょっと遠くて気軽に行けないのが残念。 なので、こちらのお店がやってるネットショップ「シルタ」はメルマガが来ると、ついつい見ちゃうんですよね。

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梅の花 2009.03.08

ひさしぶりに盆栽ネタを。 今年はだいぶ開花が遅くて心配しておりました梅の盆栽ですが、昨日あたりからようやくつぼみが開いてきました。

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遊びに関するメモ。

遊びとグループワークの関係が気になっている。 特に、ひとつの組織のなかで仕事として行うワークショップと、自由に応募してきた所属もバラバラの参加者がワークショップでのグループワークでの仕事の仕上がりが違う点が気になっている。 どちらができがよいと思いますか? 実は後者のほうなんです。 特に、2回開催させてもらった「ユーザー中心のユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ」のグループワークはうまくいっている。 これは何故か? ひとつには単なる共同作業とコラボレーションの違いを考えていく必要があるだろうな、と。違う眼で同じものを見るから創発が生じる可能性があるのであって、何人集まろうと同じような眼でみてたら、ひとりで作業するのとあまり変わらないか、それ以下になるんだと思う。 そして、もうひとつに、僕はこの点で「遊び」と複数の人びとが集まって行う仕事との関係性を感じているのです。 しかも、以下に引用するような意味での「遊び」として。

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備後屋

また備後屋に行って買い物をしてしまった。 備後屋:http://www.quasar.nu/bingoya/ 備後屋は全国各地の民藝品を扱うお店。 場所は大江戸線・若松河田駅の河田口を出てすぐ。ローソンの横の白い建物。 扱う品は、陶磁器、染物、織物、竹工品、木工品、漆器、藁工品、金工品、紙工品、ガラス器、郷土玩具、民藝家具などです。どんなものかは備後屋さんのホームページの「売場案内」に写真がありますので参考に。 店内でも海外のお客さん向けの提案などがありますが、実際、海外の方への贈答品として使えば、きっと喜ばれるのではないかと感じる品物もたくさんあります。 いや、この品物の品格の良さであれば、日本人でもある程度、物の良さを知った大人の方なら贈られれば嬉しいんじゃないでしょうか。僕だったらここの物なら大抵何をもらっても嬉しくて飛びあがりますね。

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自然の力にあやかる

梅の季節です。 うちの梅はまだ咲きません。咲くまでにはもうすこし時間がかかりそうです。 梅の盆栽をいただいてから1年経ちました。それをきっかけに、うちにもこの1年でいろんな植物が増えました。 日々、水をやったり世話しながら見ていると、植物の変化ってほんとに面白い。冬を越してこの季節になると梅のつぼみは膨らんでくるし、初夏にはきれいな色の若葉が芽吹きます。5月から夏くらいまではどんどん枝葉を伸ばして成長する。山もみじは秋になれば色づきます。小さな鉢でもちゃんと季節を感じさせてくれます。 そんな植物の面白さと人間はどう付き合うか。付き合ってきたのか。

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旧白洲邸 武相荘

前から一度行ってみようと思っていた、白洲次郎・正子夫妻が生前暮らしていたという、旧白洲邸「武相荘」に行ってきました。 父・白洲次郎は、昭和18年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名付けたようです。 牧山桂子「旧白洲邸 武相荘オープンにあたって」『白洲正子"ほんもの"の生活』

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空から女の子が降ってくる

さっき、こんなのを見つけました。 【降臨賞】空から女の子が降ってくるオリジナルの創作小説・漫画を募集します。 条件は「空から女の子が降ってくること」です。要約すると「空から女の子が降ってくる」としか言いようのない話であれば、それ以外の点は自由です。 「空から女の子が降ってくる」というと、僕は田中優子さんの『江戸の想像力』の表紙にも使われている、浮世絵師・鈴木春信の「清水の舞台から飛ぶ美人」を思い出します。

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富と文化

クリスマスイブの夜に、なんとなく引用。 国民とか民族とかいうものが世界に存在する目的は、単に富を作るにあるか、それとも世界の人類を向上せしむべき文化を作るにあるかということは、今さら問題にするほどのことではない。 内藤湖南『東洋文化史』 すこし前に『日本文化史研究』という刺激的な本を紹介した内藤湖南さんのことば。

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いまなぜ白川静なのか

最近、白川静さんの本を読んで紹介しているのですが、どうも人気がないようです。 僕の紹介の仕方がつまらなそうに思わせてしまうのか、自分とは関係のない分野の話と決め込んでしまっている人が多いからなのか、あるいは、すでに皆さん読まれているからかわかりませんが、理由はどうあれ、まだ白川静さんに触れたことがない人はぜひどれでもいいので一冊読んでみることをおすすめします。 どれがいいか迷う人は『漢字―生い立ちとその背景』から読まれることをおすすめします。 この本に関しては、いま半分ほど読んだ『白川静 漢字の世界観』で、松岡正剛さんがこんな風に書いています。 文字のひとつずつを解明するだけでなく、文字がそのような形や音という根拠をもたざるをえなかった古代社会の祈りや恐怖や欲望や期待を解明することと、文字それぞれがことごとく不即不離になっているのです。その連携的な解読の中核に漢字マザーの発見がいくつもあったのです。そこが白川学のすごいところであり、私が1970年の『漢字』に衝撃をうけたところでした。 松岡正剛『白川静 漢字の世界観』 そう。白川学は「すごい」んです。僕など、まだ3冊しか読んでないので、すでに書いた書評以上のことはいまの時点ではいえませんが、漢字の研究を通じて古代の中国および日本の祭祀、習俗、歌謡などの世界を浮かび上がらせてくれるのを読んでいると、その知の世界にどんどんのめりこんでいきます。 白川静という巨知を語ること先の本の冒頭近くで松岡さんは「うまく話せるかどう…

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質の劣化と文脈からの逸脱

以前から感じていることがあります。ある程度、時代をまたいだ美術展を見にいって感じることです。最近だと「対決-巨匠たちの日本美術」や「大琳派展 ~継承と変奏~」で感じました。 どうして時代が下ると、作品の出来は劣化していくのだろう、と。

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