ひらめく発想のマネジメント力

年明け早々、ブログの更新をさぼり気味です。さぼって何を考えていたかというと、発想法とかアブダクションとかアナロジーについて。パッと突然ひらめく発想というものを何かしらの形でマネジメントする方法というものを明示することはできないか。そんなことを考えてました。 アキッレ・カスティリオーニのヴンダーカンマー アブダクションについては、今日のところはこんな引用を。 帰納は経験を重ねる過程の中で規則(習慣)を形成し、アブダクションはたとえば種々の楽器の音からそれらの音そのものとはまったく違う調和的な音楽的情態を生み出すように、経験の諸要素を結合統一し、まったく新しい概念を生み出すのです。 米盛裕二『アブダクション―仮説と発見の論理』 アブダクションは「まったく新しい概念を生み出す」。つまり、発想法に使えるよねー、と。

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わかること。それはガイドブックも道案内もない冒険の旅

なんなんでしょうね。自分の頭で考えて答えを出すということが身についていない人が多い、この状況は。あるいは、自分でやってみて理解しようという基本姿勢のなさは。いったい、なんなんでしょうね? 前に「本を読んだり、他人の話を聞いただけで、何をわかろうというのですか?」というエントリーで、「どこがスタート地点で、なんとなくどっちの方向に、どんな風に進めばいいかの見当だけつけたら、あとは自分の足で崖から飛び降りてみない限りは、わかるはずもない」と書きましたが、そういうこと自体、よくわからない人が結構いるみたいです。どうも正しい答えがないことがあるというのが想像できないようなのです(困ったことに正しい答えを想定する人に限って、何が正しいのか、その基準を定義できていないんですよね)。

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大事なことはわかることじゃない

今月はぜんぜんブログが書けてないですね。まぁ、この忙しさじゃ仕方ない面がありますけど。 そんな忙しさのなかでも最近思ったことをすこし。 自分の能力を高めるためには、本を読んだり、誰かに聞いたりして、すぐにわかってしまうより、わからないことに自分でこだわってみることのほうが大切なことなんだなーと思います。 わからないことにこだわり、自分でいろいろ試して経験するなかですこしずつわかることが増えてくる。そういうわかり方を大切にしたいな、と。

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疑うためにはまずは信じないと

いったんは信じてみないと疑うこともできませんよ。 白川静本人のスゴさは認めるけど、その業績すべてを妄信するのは危険。今から業績再評価が始まるんじゃない? 「いまなぜ白川静なのか」へのコメント わからなくはないですが、でも、本当に業績再評価がはじまると思うなら、まず自分が率先してはじめなきゃいけないと思うんです。業績再評価を他人任せにしていても、いつまで経っても埒はあかないと思います(それはあとで説明)。 自分で再評価をはじめるには、最初から疑ってかかるよりはとりあえずその人が言っていることをまずはそのまま理解して、信じてみて、その上で自分でどこがおかしいかを考えていくのが正解なんじゃないかと僕は思います。 なので、最近の白川静さん関連エントリーは僕なりの「業績再評価」でもある。基本、僕のスタンスはとりあえずその人の言うことに従う。そして、それを信じていろいろ展開するなかで、矛盾が出はじめたら、それがその人の論の限界かどうかをあらためて問う。そうやって検証したほうが自分に納得がいく評価になると思うからです。

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言いがたいところの智慧

技術や手法の伝達ではなく、言葉として語って伝えることができない「智慧」の伝授ということを最近よく考えます。 まったく一介の隠居のおじいさんが語る昔話にすぎないのであるが、そこに長年の経験から得た、人間の真の「智慧」とも言いたいものがうかがわれた。能楽という一つの道に対するその盲目的な信仰は、思想的にも生活上にも、近代文明のもたらした不安な世の中には、何かしら羨ましいものにさえ思われてくる。 白洲正子「梅若実聞書」『お能・老木の花』 「梅若実聞書」は、白洲正子さんが自身の能における師でもあった二代目梅若実(五十四代梅若六郎)さんへの芸談に関するインタビューの記録として記したものです。その「はしがき」にあるのが上の言葉です。 この言葉に続いて、白洲正子さんはこんなエピソードを紹介しています。 私としては、曰く言いがたし、というその言いがたいところの「名言」が聞きたいばかりに、きっと読まれた事はないだろうと思って、世阿弥の『花伝書』をたずさえて行った。 「先生、この本お読みになったことがありますか。これこそほんとの芸術論というものです」 今から思えば心ないしわざであったが、・・・・・その時実さんはこう答えられた。 「いえ、そういうけっこうな書物がある事は聞いておりましたが、未だ拝見したことはござんせん。芸が出来上がるまで、決して見てはならないと父にかたく止められておりましたので。・・・・・しかし、(ちょっと考えて)もういいかと思います。が、私なぞが拝見して解りますでしょうか」…

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知識受容力

いいから、とやかくいわずに一思いに飲み込んでしまえ。 そう感じてイライラさせられることがあります。ある知識を前に「これは○○向けだから、普通の人がやる とどうたらこうたら」などと言い訳がましいことをいう人を前にしたときに。 普通の人ってなに? じゃあ、その○○向けの○○の人は普通じゃないの? 自分では受け入れる力がないから他人に押し付けてるの? そんなことするくらいなら単に僕はいらないとはっきり拒否すればいいのに。

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書くスピード、理解のスピード

以前に書いた「間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?」、「スピードを上げたいなら速度を上げるんじゃなくてスタートを早めること」に続く思考・アウトプットのスピードに関するエントリーの第3弾として。 ブログを書いていてよく訊かれるのは、ひとつ書くのにどのくらい時間がかかるの?ということです。 答えは30分から1時間。 そう答えると、自分とそう変わらないことに安心する人もいれば、無反応の人もいます。 前者は自分でもブログを書いてる人、後者は書いてないか頻度が低い人です。

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小さな音に耳を澄ます

人は何を見て何を聞いているのか? 人それぞれで物事を見る目や、話を聞きとる耳にはだいぶ差があるなと感じています。 写真を撮るのでもあらかじめ自分でこう写したいというイメージがあって撮る人と、なんとなくシャッターを切ってできた写真をみて「きれいだ」「うまく撮れた」と判断する人では、そもそもの被写体がどのくらい見えているかに差があります。 あるいは、他人の話を聞くのにも、ちゃんと相手の話の構造を聞き取りながら、相手が何を言おうとしていて、実際に話す内容のなかに相手が口にしていないことを自分の側から質問して答えてもらうくらいの聞き方ができる人と、単に相手の口からでた言葉を追っていて、相手が何を言ってるかは理解できない聞き方ではまったく違います。 物を見るのでも話を聞くのでも、あるいは情報を収集し取捨選択をするにしても、その個人差というのは実はとてつもない格差があることをはっきりと感じるようになりました。

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温故知新:possibilityとactuality

「故(ふる)きを温め新しきを知れば、以て師為(な)るべし」。 『論語』にいう温故知新です。 「温め」というのは単に温めて保っておくということではなく、ただ知っているだけというのでもないそうです。熟知し、理解し、心得ていることを指すのです。 古典を学び、歴史を学び、深く理解していることだと、田中優子さんは『江戸を歩く』に書いています。 「しかしそれだけでは人を指導することはできない」とも田中さんはいいます。「以て師為るべし」となるためには「故きを温め」るだけでは足りないのです。 今のことをアクチュアルに骨身にしみてわかっていることが必要なのだ。これは学問の神髄である。「学びて思はざれば即ち罔(くら)し、思ひて学ばざれば即ち殆(あやう)し」-これも神髄である。知識をため込んでいても思想がなければ何にもならない、といっているのだ。しかし逆に、義憤にかられようと世の矛盾に苦しもうとどんなに多感でものをよく感じ考えようと、知識がなければ危ない、といっている。両方なければ知性とはいえないのである。 田中優子(写真・石山貴美子)『江戸を歩く』 温故知新の「両方なければ知性とはいえない」のです。ごもっとも。

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いつでも準備しておくこと

「質問ができる人/できない人」に対する反響のなかに「その場ですぐに質問を組み立てることができない」という旨のものがありました。 あのエントリーそのものは「自分が興味をもって聞いた他者の話に適切な問いを立てることができるか/できないか」であって、即時性やスピードは求めていないので主旨からは外れますが、そもそも、その場で質問を組み立てられるかどうかは、スピードの問題じゃないと思うんですよね。

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質問ができる人/できない人

セミナーなどの質疑応答の時間って、ほんと質問ってあんまりでないですよね。 ああいうシーンで質問できるか、できないかって結構重要なことだと思うんです。 質問するということの意味をもうすこしちゃんと考えた方がいいはずです。 (P.S. 論の立て方がわるかったようですね。主旨が伝わってないので補足。 まず「質疑応答」の例を出したのがイメージを固定してしまったようですね。実際に質疑応答で質問が出るかなんてどうでもいいんです。そんなの聞き手ではなく、話し手が下手な場合もありますから。今回問題にしてるのは、セミナーの質疑応答という特定のシーンで質問できるかどうかじゃない。 そうじゃなくて、ようは「自分が興味をもって聞いた他者の話に適切な問いを立てることができるか/できないか」がテーマ。なので、質問を組み立てられるなら、質疑応答ではなく個別質問でもいいし、「質問をつくる」ことができる/できないがこのエントリーの問題なので、実際に質問するか/しないかも無関係。「大勢の前でははずかしくてできない」、「大勢の文脈での質問にはならない」というのも、「質問を組み立てられる」のなら「質問できる」に入ります。そういう条件の上で「質問できない」ことを考えて読んでいただければ。) 質問ができる人とできない人がいると思うんですけど、それってたぶん、前者が学ぶ姿勢の人であるのに対して、後者は教えてもらう姿勢の人なんですね。知識や技能の習得に際して、前者は行為がともない、後者は頭であれこれ思うだけです。

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信頼した人の推挙に従う

信頼した人の推挙に従う。このあり方って正しいなと思うんです。 もともと私には誰が何を推挙したかということを、とても重視するところがあります。学校の先生が推挙するものに関心をもち、著者が書物のなかで何かを推挙しているなら、まずはその推挙に従ってみる。そういうところがあるんです。ただし、信頼したい人の推挙じゃなければダメです。 松岡正剛の千夜千冊『玄語』三浦梅園 実際、僕自身、新しい本やそれまで(よく)知らなかった人に興味をもつのは、信頼した人の推挙だったりします。 最近では、松岡正剛さんや高山宏さんの推挙に従って、バーバラ・M・スタフォード、タイモン・スクリーチ、田中優子、マリオ・プラーツ、フランセス・イェーツ、アビ・ヴァールブルクなどに出会うことができました。 最近はそのおかげで、図像学(イコノロジー)、ニュー・アート・ヒストリー、新人文学など、さまざまな呼ばれ方をする分野のイメージの見方に夢中です。

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みずから限界をつくってないで、天井知らずの世間に目を向けなきゃ

みなさん、自分で根拠のない限界を設定して、みずから目指すべき目標を低く見積もったりしていませんか? 目標って自分(たち)を磨くために有効な役割を果たすべきものだと思うのですが、自分(たち)や自分(たち)が利用する道具の能力に、何の根拠もない限界を想定してしまうがために、大事な目標設定を低く設定しすぎてしまうということがあると思います。 (ほぼ)天井知らずのWebというツール特にそれを感じることが多いのはWebの効果なんですよね。 Webほど、その使い方によって効果に差が出るツールはあんまり見当たりません。 人気ブロガーの人気は留まることを知らずに伸びていくし、人気ブロガーほど、その伸びが早い。富めるものほど富むツールがWebで、効果の限界ってそう簡単にはあらわれなかったりします。まさに天井知らず。 だけど、中にはWebサイトを運用している人でも、Webには限界があると勘違いしてしまう場合があるんですね。でも、それはWebの限界じゃなくて中身のコンテンツの限界ですよ、と言いたい。中身がショボイ(ターゲットに刺さってない)から頭打ちになっちゃうわけで、Webそのものの限界じゃない。 じゃあ、その場合、何を考えればいいかっていうと、Webそのものについてじゃなくて、Webに載せてるコンテンツそのものとターゲットとするユーザーのニーズ・ウォンツとの関係を徹底的に考えるべき。そこがまた、そういう風にならずにいま使えるコンテンツを限界に設定してしまって、その狭い範囲だけで考えようと…

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クリエイティブになるための1つの視点

「どうなったらクリエイティブになれるのか」。 couldの長谷川さんが「クリエイティブになるための4つの視点」というエントリーを書いていますが、僕は心がけるのはたった1つでいいと思う。 それは 外部と能動的に関わることで変化を生み出そうと心がけること です。

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機会がないとか経験がないとかいうけれど

「機会がないからできない」「経験がないからわからない」 まぁ、間違ってはないですね。 でも、そう思うなら機会を作るため、経験を積むため、行動してるの?っていうと、そうじゃない人が多い。何それ? 「できない」「わからない」って言うために「機会」とか「経験」のなさを口実にしてるだけなのかなって不審に思ってしまいます。 毎度のことですけど、行動力がないな、臆病すぎるよなって感じます。

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メグミ・大場 写真展「八百万への回帰・自然の中で静かに生きる」

昨日の「組織は人材が育つことができる場を提供できているか?」というエントリーの最後に、「僕自身、振り返ってみると、大学時代や一部の企業ではそうやって自分で自分を育てる環境を用意してもらえていたし、育つためのサポートとしての「□+□=10」という問題もちゃんと提供してもらっていたなと思う」と書きました。 今日は、大学時代に「自分で自分を育てる環境」として用意してもらったことのなかで、何より一番、いまの自分にとって重要だったと思える経験について書いてみたいと思います。 僕のチャレンジの起源としてのメグミ・大場5月30日に『ペルソナ作って、それからどうするの?』が発売される数日前から、しばらく忙しい日が続いていたのですが、今日はようやく忙しさの谷間で代休をとることができ、新横浜のテュフ ラインランド フォーラムで行われている<メグミ・大場 写真展「八百万への回帰・自然の中で静かに生きる」>という写真展に行ってきました。 メグミ・大場さんという舞踊家の活動を日独5人の写真家がとらえた写真で紹介する展覧会。メグミ・大場さんという方は、日本の現代舞踊の創始者・石井漠の姪にあたる石井綾子のもとで3才より踊り始め、ドイツ国立音楽大学に留学、ドイツオペラ座付属バレエ学校でクラシックバレエ・民族舞踊・ジャズダンスなどを学んで帰国。新潟県長岡を中心に創作活動を積極的に展開している方です。2000年の“ドイツにおける日本年”の一環として、国際交流基金主催フランクルフト市シルン美術ホール「現代日本…

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とりあえず絵を描きながら話そうよ

会議である課題について議論するときって、参加者それぞれで異なる思いがあるから、よほど司会者=モデレータがしっかりしてないと話はあちこちにブレがちです。 せめて参加者の発言の要点をホワイトボードやプロジェクターにつながったパソコンなりで、みんなに見えるように記録をしていけばいいのですけど、それをしない会議が意外と多いんですね。でも、それだと会議が絶対に非効率になります。 その場で全員に見える形で発言の要点の記録をやらないと、やっぱりいまの文字文化の人には前に別の人が言ったことを忘れてしまったりします。それだと、話がどんどん拡散していくのは避けられません。 目に見える形で書いて整理すれば、簡単にまとまる話ですら、まとまるまでに時間がかかって非効率になります。ましてや、議題がちょっと複雑だったり、いろいろ考えなきゃ答えが出ないようなものだと手に負えない状況にもなります。 長い時間かけて会議をして、個々にはそれなりに良い発言があっても、それらがすべて雲散霧消してしまい、結局、何の結論にもいたらず、この数時間はいったい何だったんだろうという不幸な結果にもなりかねません。これはいけません。その内容がコスト削減のための業務効率化だったりしたら本当に目も当てられませんよ。だったら、この会議からまずどうにかしようよって話です。 会議の記録も情報デザインとはいえ、参加者の話を方向づける司会者=モデレーターと、記録係を兼ねるのはよほど他人の話の要点をつかむのがうまい人じゃないとむずかしい。やっ…

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危機感・問題意識創出のためのプラクティス その5つの軸

物事を深く考え整理したり、積極的に新しい活動をはじめたりするためには、危機感や問題意識というものがあったほうがいい。それがないと、考えたり行動したりするモチベーションが生まれないだろうし、思考や行動の方向性が見いだせずに動きが鈍ります。 考えることをしない人、自ら積極的に行動するということができない人は結局、危機感や問題意識をもてていないという場合が多いのでしょう。 と、ここまではどこでも言われていそうなことですね。ロクにもの考えてない人でもここまでは言えますよ。だって、あちこちで言われてきていることですから。 で、ここからが意外と多くの人が勘違いしがちなポイント。

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隠れた繋がりを見つけることも・・・

僕もそう思います。 色々と繋げる、その中で、今まで聞いた事、見た事のあるものではなく、ないものを繋げる事。 創造力というのは、実はこの事じゃないかなと思ったりします。もちろん、この力以外にも必要なモノはあるのではと思いますが、主にこの力が使われているのかなーと。 貴方に贈りたい。ずっと色褪せない、たった一つのスキル。 - Exchange Cups Of Sake あるものと別のあるものを繋げて、新たなものを創り出す。僕もそれが創造力の1つの形だと思います。 まぁ、その前に自分とは無関係だと思えるものにも興味を示せる好奇心が必要なんですけどね。未知のものの文脈に足を踏み込んでいけるかどうか。だって、それが問題を見つける力であり、創造性には問題が不可欠ですから(「好奇心とは独創的な問いを発見する情熱である」参照)。 それがクリアできてはじめて、一見無関係と思えるものに繋がりを見出すことっていうお題に入れるのかもしれません。 前に「一見縁遠きものたちの間に脈絡を付ける」でも紹介しましたが、松岡正剛と茂木健一郎が対談集『脳と日本人』のなかで、こんな掛け合いをしている部分があります。 松岡遠くを感じることが近さを強化していくんです。ニュートンのリンゴと星の関係のようにね。 茂木 一見縁遠きものたちの間に脈絡を付けるということですね。 松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』 内側で考えるのではなく、外側を見て、境界線上で考えることが大切なんだと思います。松岡さん風に…

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時間と仲良くやっていくには?

結局、いかに時間を制するかというのが、仕事をする上でも、人生を生きる上でも大事なことだろうなというのは否めないですね。 ただ「時間という限られたリソースを有効に活用する」なんて言い方は間違っていて、時間なんて決して固定的に限定されたリソースなんかじゃないと思います。 時間なんて複数あると思った方がいいと思います。 時計の時間もあれば、体感的な時間もある。何かが向こうからやってくることではじまる=開かれる時間もあります。「二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑/佐治晴夫、松岡正剛」で紹介したことですね。それ以外でも、正月などの儀礼の時間・ハレの時間は本来、普段のケの時間とは決して均質なものではないはずです。 その意味で時間は過去から未来に均質に流れているわけではなくて(時計の時間ではない)、過去の時間と未来の時間を現在において、どう認識してネットワークを生み出す方向にもっていけるかという視点もあります。それが時間と付き合うということであって、時計という物差しだけを頼りにしてその目盛りにあわせて行動したって、それは時間を有効活用したことにならない。むしろ、就業時間なんかにあわせる意識が高すぎると、仕事の効率はよけいに低くなる。この時間で何ができるかという発想じゃ、生産性なんて上がるわけないんですよ。 ようは、その無数に存在する時間をいかに使い分けるかということだと思うんですよね。もちろん、それには複数存在する時間ごとの違いが認識できないといけません。

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