最近のワークショップなどの講義では「誰のせい?」という話をすることが多いです。その話の最後には「誰のせい?」かを問う姿勢とは別に、「仕方がない」という受け止め方があることを指摘しています(例えば、突然雨が降って来て濡れてしまうのは「誰のせい?」ではなく「仕方がない」)。
ただ、それ以前に問題を自分自身が関わる問題として受け止められるかということがあるのかもしれません。
問題を他人事として受け止めることができない。自分自身の問題として受け止められない。他人のよくないところを見つけることはできるのに、自分のよいところを見つけられない。いや、そもそも自分自身に向き合うことができず、自分が何を言っているのかを考えようともしない。考えることから逃げてしまう。
そういう姿勢に自分自身が陥っていないかどうか。
「誰のせい?」と責任の所在を外にばかり求めるのではなく、逆に他人の問題をも自分の問題として受け止めることからはじめるべきかもしれません。
何らかの対象に対して「それは違う」とか「これは問題だ」とか感じたら、それは単にその対象が一方的に悪いわけではなく、あくまでそう感じとった自分自身の価値観との共犯関係において悪いわけですから。
対象とともに共犯関係にある自身の解釈という心の動きの正体にこだわってみることができるか/できないか。そこに何かをつくりだしていく人と、傍からただ文句ばかり言い続けていく人の分岐点があるのかもしれません。