自分にも他人にも容赦をせずに自分の考えを言葉にすることを心がけないと

遠慮とか、他人に気を遣うこととか、人目を気にすることとか。 いりませんね。必要ない。いやいや、それどころか、自分が思考し行動する上では邪魔でしかありません。 本当は上手に気をつかえたり、他人への配慮ができるチカラがあれば、それらも悪くないもののはずなんですけど、いまを生きてる世代で、そんなことが上手にできる人なんていません。 何をどう配慮すれば相手も自分も上手くいくかなんてインタラクティブな文化的解答を僕らの世代はとっくに失ってしまっているし、その喪失にさえ気づいていない有様です。気を遣って相手も自分もいいようになるよう希望しても結果は真反対。このシュリンクする経済状況を見るだけでも明らかです。 そんな縮小という結果に向かわせるだけの人の和なんてものはもはや美徳でもなんでもありません。単なる相互甘やかしの悪循環を生むだけです。

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科学的思考/オカルト的思考

思考の仕方には、科学的な方法(分析的で反省的な思考)とオカルト的な方法(盲信的で慣習的な思考)の2つがあるように思います。 ただ、ややこしいのは、思考の対象=内容にも科学的なものとオカルト的なものがあるということです。 それゆえ、「思考の仕方=方法」と、「思考の対象=内容」の組み合わせで以下の4つができます。 1.科学的な対象を科学的な方法で語る 2.オカルト的な対象をオカルト的な方法で語る3.科学的な対象をオカルト的な方法で語る4.オカルト的な対象を科学的な方法で語る このなかで厄介だなと思うのは、3.のパターンです。 他のパターンはいずれも語り手が自分がどんな方法で何を語っているかが自覚できているケースが多いと思うのですが、3.のケースだけはどうもそういう自覚が欠けがちになるのではないかと思うからです。 つまり、3.のパターンで語っているとき、人は語っている内容が科学的であるというだけで語り方や語るための自分の思考自体も科学的であると勘違いしがちだと思うのです。 そう。科学的な方法で語ることとオカルト的な方法で語ることのどっちがよいというのではなく、自身か用いる方法に無自覚であることが問題だと思うのです。 3.のパターンでは、実際は科学的な語彙やテーマを素材に、無反省に民間療法的に自分の単なる思い込みを口にしているだけの場合でも、内容が科学的なものを扱っているだけで方法自体も科学的であるかのように感じてしまうことが多いのではないでしょうか? 繰り返し…

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イノベーションは何より自分自身のリストラである

未知の事柄、不馴れな状況に遭遇した時に、それ以上、前に考え進めることができなくなる人がいます。 いわゆる思考停止というやつですが、これには二種類あると感じてます。 ひとつは本当に新しい考えが出なくなって考察を前に展開できなくなってしまう人。もうひとつは、僕自身と同年代以上のおっさんに多いのですが、単に前に進めなくなるのではなく、自分が知っている領域に逃げ込もうとするタイプです。

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弱くていい

弱くていい。頭なんて悪くていい。努力なんかほどほどで、途中でくじけてもいい。 人に認められようとはりきらなくていい。愚痴や泣き言を我慢することなんてない。人に頼って生きればいい。だらしなくてもいいし、言われたことなんてできなくてもいい。 弱くていいし、自分の弱さを受け止め、曝け出したほうがいいし、また、まわりの弱さにも目を向け耳を傾けなくてはいけないだろう。 いままで強いことがいいことだと信じ込みすぎていたのだ。学校でも家でもそう教わったし、会社でも社会でもそう強いられた。 でも、これからはそんなことはどんどんなくなっていくはずだ。 僕は最近ようやくそのことに気づいた。 もちろん、古い頭の人が過去を引きずって、相変わらず強さを崇拝し、それを強いることはあるだろう。 だが、間違いなく、そうした機会は減っていく。強いことはむしろ恥ずかしいことになっていく。強い人、強さに憧れる傾向は徐々にではあるが、減っていくはずだ。むしろ、その社会の変化のベクトルを僕らは積極的に認めていくべきだろう。

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あきらめる

なかなか自分自身でも実行がままならなくて、まだまだだなと思っているが、あきらめることが何より大事なのではないかと薄々気がついてはいる。

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自分自身を見つめ直さないとできない話がある

先日からはじめたライフスタイル研究会(仮)準備室。 現在20名を越える方に参加していただき、活発にコミュニケーションさせてもらっています。 参加いただいた方から、さまざまなお話を聞かせてもらえて、ただ感謝するばかり。 僕も参加者のその気持ちに応えようと、こまめに返事を書かせてもらってます。正直大変ですが、まあ大変じゃないわけがないと腰を据えて臨んでいるので苦にはなっていません。 ただ自分でもびっくりしているのは、そうやって自分の生活や暮らしのなかのいろんな話を聞かせてもらい、それに返事をしようとすると僕のほうも自分の生活やこれまでの人生を見つめ返すことになり、すっかり忘れていた子供のときの記憶が思い出されたりする。 このブログでは書いたことがないような僕自身がそこにいて、とても新鮮。 この経験を通じて、いま学んでいることは、自分自身を見つめ直さないとできない話があるんだなということ。 他人の大切なものや残したいと感じていりものについて話を聞くとき、一般論や理屈で理解しようとしても仕方がない。そうではなく自分の生きてきた人生や日々の暮らしの感情をともなう記憶を見つめ直しながら話を聞かないと、相手が大事にしている感覚を感じとれないんですね。 これは普段たがいに知った者同士なら意識しなくても自然にできていたりするケースもある。それが自然にできるのは現に生活や仕事をともに体験しているからだったりする。 それをたがいに生活基盤や生きてきた人生も、過ごした時間も空間も異なる2…

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疑う理由

「信じる力」の続編として。 なぜ、疑うのか。 その理由は実ははっきりしている。 簡単な話だ。 それは他人やモノに頼ろうとするからだ。自分で責任をとるつもりがないからだ。

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信じる力

疑うよりも信じること。信じることによってしか人は何事も為すことはできない。 能力のなさとは何より信じる力のなさではないだろうか。疑ってばかりでは何もはじまらない。はじめないからこそ、余計に不安になり、信じられなくなる。そのことは「不安はなぜ起こるのか」でも書いたとおりだ。

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メタ認知や抽象的思考ができない人が心がけ実践すべき3つの事柄

自分で物事を考えて答えを出すということができない人というのがいる。「思考停止」なんて言葉もあるけど、そういう人たちにとって「停止」は動いていた状態からの変化を示す"stop"ではなく、そもそものはじめから思考がスタートしていない場合が多く、最初から思考が働いていない。 そうした人たちに共通するのは、メタ認知ができないこと、抽象的な思考を苦手とすることだとだと思います。見たまんまのことしか考えられない。だから、手法を扱えないし、戦略的な話ができない。 そうした人びとは、抽象的な記述や理論的な話題に対する想像力が著しく欠けていて、それが世界の記述であることをイメージできずに、すぐに「具体的な事例がないとわからない」という。それが自分のメタ認知や抽象的思考力の欠如からくる想像力のなさに由来することを考えもせずに、話者や論者の語り方・記述の仕方に問題があるかのように非難しがちです。もちろん、そんな風に相手のせいにばかりしているから、いつまでたってもメタ認知や抽象的思考力は育ってきません。 つまり、図式化して表現すれば、下図のようになります。 ある事象A、B、Cがあった時に、とりあえず、それぞれの事象に対する思考A'、B'、C'くらいなら生み出せる。これはほとんど反射神経的なものですから、これができないという人はいない。 ところが、その思考A'、B'、C'を比較して、思考A'とB'の共通点から抽象的思考としての思考Dを取り出したり、思考A'とC'の相違点から思考Eを取り…

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コンセプトワークにおける編集力

昨日、紹介した『地域ブランド・マネジメント』という本のなかで、コンセプトづくりに関して、非常に納得のいく箇所があったので紹介しておきたい。なぜ、ここだけピックアップしてあらためて紹介しておくかというと、コンセプトづくりの過程において、まさにこうしたことができずにろくでもないコンセプトしか生み出せていない現場が多々あるように感じるからです。 「地域ブランド・マネジメント/和田充夫ほか」で書いたように、地域ブランドのコンセプトをつくるためには、その地域の歴史や文化、産業、自然、生活インフラ、人びとのコミュニティなどの資産を収集・整理し、それが現在どの程度認知、評価されているかの現状を把握することからはじめます。つまり、これはブランドのコンセプトをつくるための素材を集める作業ですが、その集めた素材を使ってコンセプトを立ち上げる作業には素材をどう料理するかという編集力が問われます。 そのために、どんな資産に光を当てるのか。また複数の資産をどのように組み合わせていくのか。また資産を活性化するために新たにどのような要素を加えていくか、ついて検討していかなければならない。あたかも雑誌の編集者のような高度な編集力や展開力が求められる。そのようなプロセスを経て、コンセプトをもとにさまざまな資産が組み合わされていくことで、訪れる人々に対する体験がデザインされていく。 『地域ブランド・マネジメント』 ここで素材としての資産をいかに組み合わせるかという点で編集力の重要さをあげている点に非常に好感をもちまし…

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遊ぶように仕事をする

ワークショップという仕事の形式が流行っているのだろうか? あちこちでワークショップという言葉を耳にするようになった。 ただ、なんでもかんでもワークショップにすればいいというものでもない。 仕掛けのないワークショップほど、時間の無駄になるものはない。 また、ワークショップの仕掛けそのものにロジック的な破綻があると参加者の作業・思考は混乱するので、これまた無意味だ。 ここで無駄だとか、無意味だとかいっているのは、ワークショップが仕事にならない、学びの場にならないという意味だ。

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自分(の目)を見つめ直す

他人の良くないところというのはいくらでも目につく。それに対して文句をいうことも簡単だ。 良くないことというのは、自分でも簡単に再現することができるから、自分がやらずに我慢しているかもしれないことを他人がしているのを見ると文句をいいたくなるのだろう。いや、それ以前に単に自分のことは棚に上げて文句をいっているだけの人のほうが多いのかもしれない。 逆に他人の良いところを褒めるというのはむずかしい。褒める以前に他人の良さをみつけだせない場合が多いのではないか。 それはひとえに見る目がない証拠だ。自分で良いことをする努力をしたことがないと、他人が良いことをするためにどれだけ裏でがんばっているかがわからない。自分のなかで経験がないから他人の良さがみえないのだ。 良さを見抜く目が養われていないと、他人の良さをみつけることができない。 もちろん、それでは他人から学ぶということもできない。結局、自分の殻に閉じこもったまま、他人を、外の世界を見つめることができない。いや、自分自身を見つめることができないから、何も変わらず何も学べないのだ。

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楽しむための工夫

数日前に「おもしろいこと」というエントリーを書いた。 僕は基本的に、結果はおもしろく、過程は楽しく、ということが仕事をするうえで大事なことだと思っている。 結果は自分だけでなく赤の他人がみてもおもしろく、それを為す過程は自分とおなじ仕事をともにする仲間が楽しくあるとよい。そう思っている。 もちろん、仕事なので辛いこともあれば、いやなこともある。 ただ、辛くても楽しい、いやなこともあれば楽しいこともあるという状態になるよう、自分で工夫しないといけない。辛いことやいやなことばかりであれば、仕事のモチベーションもあがらないだろうから、そこは自分で工夫して仕事が楽しくなるよう心掛けないといけない。

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応用力

応用力が足りない。教科書通りにしか物事を進められない人が多いように思う。 対処すべきケースが教科書通りならなんとかできるが、教科書には書かれたのとは異なるケースに出くわすと途端に立ち往生もしくは出鱈目なアクションとなる。 世の中、教科書通りには事が運ばないケースの方が多いから、なかなか仕事が進まない。あるいは出鱈目なアクションで、それ、本当に仕事したことになるの?と疑問に思うことも。 基本を応用して、パーツとなる手法を組み合わせながら、問題を解くという創造力が書けている。そういう頭の使い方に慣れていないのかな、と。

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おもしろいこと

おもしろいことやりてぇな。 オフィスの外の通路の片隅に設けられた喫煙スペースで、ニコニコしながら煙草をふかし、そう口癖のようにひとり言をつぶやいていたのは、前に勤めていた会社の社長でした。 僕は、その言葉をきくと、なんだか安心できたものです。 その言葉は何度も耳にしましたが、もちろん「おもしろいことってなんですか?」なんて野暮なことは訊ねたことはありません。訊いて答えの返ってくるようなことは、たぶん、耳にしてもおもしろくない気もしたからです。それよりも、その社長がおもしろいと思うことに協力できれば、と思えて、それが自分自身の仕事に対する安心につながったのだろうと思います。 おもしろいことをやりたい。 そのおなじ言葉をいまの会社の直属の上司の口からも耳にします。前の社長とおなじで、別段僕に対して同意を求めるようにいうわけではありません。ただ僕がいるところで、僕に聞こえるように、ひとり言のように言う。年齢もちょうど前の会社の社長とおなじくらい。どことなく似たところをもっているなとも感じます。 それを聞くと、僕自身もやっぱり前とおなじように、そのおもしろいことができるよう貢献しようと思えてくる。そうすると、仕事をする意味もみえて安心します。

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人里離れた世界で感受性を養う

他人とのコミュニケーションに悩むくらいなら、いっそのこと、人間関係のことなど忘れて、いったんは誰もいない自分ひとりの世界に向き合ってみるのがよいだろうと思います。 そう思うのは、昨日の「やっぱり感受性が学ぶための基礎なんだろうな」でも書いたとおり、他人とのコミュニケーションに悩んでいる人の多くが、コミュニケーションそのものの能力以前に、人との関係性以前に、非人間的なもの、非生物的なものを含む世界との交感の基礎となる感受性のほうに問題があるだろうからです。 感受性というOSに問題があるのだから、いくらコミュニケーション力という個別のアプリケーションを機能させようとがんばっても自ずと限界が生じてしまいます。 その場合、やはり基本に立ち返って、OSである感受性の改善を優先したほうがよいだろうと思うのです。コミュニケーション力の向上という個別のアプリケーションの改善はそのあとでも遅くないし、むしろ、その順番で改善を行った方が効率的でもあるでしょう。 教育の現場でも、ビジネスの場の教育の場面でも、なかなか感受性の向上について考えられたり、具体的な改善活動に力をいれることはあまりないように思われますが、個々人にとってあらゆる知的活動の基礎となるOSである感受性を磨くにはどうすればよいかを真剣に考え、議論していく必要があるのではないかと考えはじめています。

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やっぱり感受性が学ぶための基礎なんだろうな

物事からなにかを感じとる力。 自分が感じていることを意識のうえでも受け止める力。 客観的な知識ではなく、自分で感じたことを信じる力としての感受性。 この感受性がいろんなことを学んだり勉強したり理解したりする上での基礎となるものなんだろうなと思います。

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好奇心=「わからない」をつくること

本を読めない人がいます。他人の話の字面だけをおって相手が何故その話をしているかを感じとることができない人がいます。また、間違いをおかさないよう怯えることにせいいっぱいでチャレンジできない人がいます。 そうした人に共通するのは未知への感受性の希薄さです。わからないものを避け、未知なるものを嫌悪する。自分が安心してみられる世界に閉じこもり、新しい世界に目を向けようとはしない。外部に対してはもちろん、自分自身の内にある未知や答えのはっきりしないものからも目をそらしたがる傾向がある。 そういう人もいろいろ教えてもらいたがったりするのだけど、残念ながら、そういう人に教えるのはむずかしい。何故なら教えてもらいたがってる割には未知なるものを嫌うから。教える側は相手がすでに知ってることしか教えられなくなります。 もし、あなたにそういう傾向があるのなら未知から逃げたがる自分自身の傾向を見直す必要があるでしょう。

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「ひらめき」のためにはいったん思考を保留して、機を熟すのを待つことも必要

わからないからといって焦ってわかろうとする必要もなければ、その逆にすぐにあきらめてしまうのも違うだろうということを「わからないことへの耐性」と「「わからない」を自分で引き受ければ他人の目を気にして焦る必要はない。」の連作で書いてきました。 未知のものに出くわし「わからない」と感じたら、焦るのでも、あきらめるのでも、思考停止状態に陥ってしまうのでもなく、とにかく自分のペースで「わかる」まで付き合ってみようとする保留の状態をつくることが大切なことがあると思っています。あきらめずにゆっくりと「わからない」ものにとことん付き合ってみることで「わかった」と感じるときが来ると思っています。 そんなことを書いてきたわけですが、ちょうどいま読んでいる岡潔さんの『春宵十話』のなかに、まさにそうした体験が書かれていたのでびっくり。 岡潔さんといえば、文化勲章などももらっている有名な数学者ですが、その岡さんが数学の問題を解く際にも、まさに「わからない」にゆっくり付き合うことで未解決の難問を解くための発見に出くわすという体験を何度もしたことがエピソードとして描かれているのです。

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「わからない」を自分で引き受ければ他人の目を気にして焦る必要はない。

うーん。わからなかったら、わからないでいいじゃんと思うんだけどなー。 すくなくとも焦ってすぐにわかろうとしなくてもいいと思うんですよ。 わかるとかわからないとか所詮は個人の問題だと思っています。 いや、全部がそうじゃなくて、人間社会の仕組みとしての決めごと―たとえば試験の答えだとか、法律で決められてるやっちゃいけないこととか、待ち合わせの場所と時間とか―そういうのは、決まっていることをわかる必要があって、決めたことが1つなら答えは1つです。 でも、そういう決めごとの外にあるもの―たとえば他人の気持ちとか、誰かによって主張された内容とか、自然や日常の出来事をどう解釈するかとか―を、どう見るか、わかるかは所詮は、わかる側の個人的な問題でしかない。たとえ相手に「なんで、私の気持ちわかってくれないの?」と非難されたとしても、それは相手がわかってほしいことをわかってあげることができないという問題とはまったく別の次元で、相手の気持ちをわかる/わからないはわかる側の問題として存在するはずなのだと思うのです。 決めごとの理解や、他人とのコミュニケーションにおける意思の疎通という話とはまったく別の次元で、個々人が自分の文脈=個人的な価値の体系のなかで、未知の対象を意味ある形で解釈できるかどうかという問題がある。それは社会的な意味での正解だとか、相手との意思の共有とかいった場合のように外から正解/不正解を決めてもらえるような基準はなく、自分で「わかった」と思えるかどうかということにしか基準は…

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