2014年04月12日

「考え方」について考えてみる

「考えるとはどういうことか?」それについて考えることが僕にはよくあります。
「考えるとはどういうことか?」と考えることで、何かを考えるための方法が明らかになることがあるからです。
だから、「考えるとはどういうことか?」を考えるのは、自分自身がうまく考えられていないなと感じるときや、他人がうまく考えられていないなというのを目の当たりにするときだったりします。


▲この記事では、この2冊が登場するよ

うまくいかないから、その理由を自省する。
それって何かを改善するためにはごくごく普通の行為だと思います。

それを踏まえると、考えることがうまくいかない要因の1つが「考えるとはどういうことか?」ということを考えようとしない姿勢にあるということもできるはず。自分自身の考えるという作業のやり方についての自省を常日頃から行っていなければ、考えることがうまくなりにくいのはある意味、当然だと僕には思えます。

僕自身が「考えることとはどういうことか?」を何度も違った方向から考え続けてきたことで、ずいぶんと自分自身の考える力の幅と量を拡張できたという経験があるから、余計にそう思ったりもします。

でも、僕が「考えるとはどういうことか?」をときどき考えるのは、そういう改善云々という理由よりも、そもそも、それを考えるのが好きだから、という理由のほうが大きいんですけどね。まさに前回の記事で書いたとおり、自分の好き=数寄にこだわることをちゃんと僕自身も実践してるわけです。

「「考え方」について考えてみる」の続き
ラベル:思考 読書
posted by HIROKI tanahashi at 12:16| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月03日

発想力を高めるための数寄index化

自分の好みを知ること。
自分がどんなもの、ことにワクワクと心を動かされるかを知っておくこと。
うん。それってとっても大事。


▲1つ1つに特徴がある、類似するものが並ぶ状況に、僕はワクワクします

自分自身の心が外界の刺激に対してどんな動きをするかということについて探求することは、このとてつもないスピードで情報が行き交い、イノベーションの進行で刻々と状況が変化し続ける世界において、意味のあることを成す上では何より大事なことだと最近ものすごく強く感じています。

自分がどんな物事にワクワクするか、自分の心がどんなとき/どんなことに反応するか。
そういうことを知ることが、どうして、いまの社会環境において大事になっているのか。
それは、自分の心と頭で捉える外部からの情報をいかに連動させるかが、いまの世の中において、新しい物事を発想し、実現するために活動するためのリソースの所有と利用可能性の鍵を握っていると考えているからです。

「発想力を高めるための数寄index化」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:19| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月03日

未知を知へと変換する「生きた知識」のための劇場

わからないことって日常的な思考のフレームの外にあります。


▲パトリック・モリエス『奇想の陳列部屋』より

たとえば、身近な同僚や後輩が突如会社をやめるといった場合、いつもいっしょに働いていてよくがんばってるなと感じていたりして、その人のことはそれなりにわかっていたつもりでも、急に辞めると聞くと「なんで?」と理由がわからなくって、急にそれまでわかっていたつもりのことまでわからなくなる、そんなことってあったりします。

また、顧客のことならわかっているとかいう場合でも同じで、わかっていたつもりの顧客たちが突如自社製品から離れ、他社の製品へと移っていくと、突如としてわからない対象に変化するということもあったりします。

いずれも場合もわかることの範囲の外に出ると、途端にまったくわからなさが広がっている。
わからなさの世界はとても不安に感じられ、それまでの価値観からするとまるで筋が通っていないようにも見えたりもします。

つまり、物事をわからなくさせているのって、日常をわかりやすくするための思考のフレームであって、その枠組みに当てはまらないものが不気味でわからないように感じられるように見せてしまう。
目の前にある、わかろうとする対象は同じでも、理解につながる思考のフレームワークの背景となる環境が変化するとわかる/わからないは一瞬にして切り替わるということがあるのです。
わかるためにはわかるためのフレームワークを見つける必要がある。

だから、わからないことを知ろうとすれば、日常に不意に忍び込んでくる不気味なもの、不穏なものに積極的に飛び込んでつまづいてみることから、まだ手中におさめていないフレームワークを探ってみることが必要になります。

「未知を知へと変換する「生きた知識」のための劇場」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 16:22| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月25日

実験の時代

「実験の時代」です。
唐突に何なの?と思われるかもしれませんが、これまでにない新しいものを早急に確立していくことが社会課題の解決という面でも、ビジネス的な面においてもつよく求められる現在において、無数に考えられるアイデアのなかでどれが現実的に有効かを探り当てるためには実験的な姿勢が欠かせなくなってきているように思うんです。


▲ベンジャミン・マーティン「卓上用の新しい電気装置」(バーバラ・M・スタフォード『アートフル・サイエンス』より)

たとえば、ビジネスの領域においては、リーン・スタートアップが、マネジメントを従来のリスク回避指向のものから、できるだけ早く有効な解に到達するために小さなリスクは積極的にとって実験を繰り返す方向へとシフトさせようとしています。

リーン・スタートアップでは、スタートアップが行うことを「戦略を検証する実験」としてとらえなおす。戦略のどの部分が優れていてどの部分が狂っているのかを検証する実験だ。

自分たちの頭のなかの仮説を検証するために、現実空間である市場において自分たちのビジネスに関する重要な実験を行うことで、仮説の「どの部分が優れていてどの部分が狂っているのか」を明らかにすることを繰り返す。そうすることでスタートアップに課せられたミッションである「できるかぎり早く、作るべきモノー顧客が欲しがり、お金を払ってくれるモノ−を突きとめる」活動をマネジメントしようというのがリーン・スタートアップの基本スタンスです。

それゆえ、リーン・スタートアップにおいては「製品の実態は実験」であると捉えられ、「その実験から得られる成果はどうすれば持続可能な事業が構築できるのかという学びである」というように、従来なら嫌っていたはずの「不確実性」をビジネスの条件にしっかりと盛り込んでマネジメントを行います。

不確実性がきわめて高い市場環境においては、リーン(無駄なく)にスピーディーに結果を残そうとすれば、計画と開発に長い時間をかけた上で一発勝負のように商品を市場に投入する従来のような方法ではあまりにリスクが高すぎ(完全に博打ですよね)、実験の速度をはやめて仮説検証を繰り返しながら解を探っていくスタンスが注目されるのも当然な気がします。「実験の時代」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:03| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月14日

近代視覚表現技術とともにあった「想像力」の危機

視覚表現技術をどう進化させるか?という課題が、ひとの想像力をこの時代にあったものに拡張するうえで、重要なポイントの1つだろうという思いを最近より強く感じています。



そんなことをあらためて考えるようになったのは、前回の「反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する」という記事でも紹介した高山宏さんの『魔の王が見る―バロック的想像力』という本のなかでこんな記述を目にしたからでもあります。
前回の記事中でも取り上げた17世紀初めのヴンダーカンマー(驚異博物館)の流行の時代を、高山さんは「想像力」の時代でもあると読み解きながら次のように書いているんです。

事物の集積に未曾有の関心をもった17世紀初めのそうした「エキセントリック・スペース」の流行を背景にしてみてはじめて、人間は自らの身体と精神と頭脳の構造に目を向けることができたのではないかとさえ思われる。自らの内部に生じつつある事態を客観視できないわれわれ人間は、それが外部に投影されスクリーン上に映しだされる文字通りの「像(イメージ)」を見ながら、おそらくは自らの内なる世界を眺めているような気分になったのではなかろうか。

これはなかなか興味深い指摘です。
大胆にいえば、高山さんが言っているのは、外の像が先で、内面の像が後だということです。外に像を投影する表現技術が向上したことで、人間は自分たちの内面の想像力云々について考え、語ることができるようになったというわけです。

スクリーンに投影された像をみながら、そのイメージを自身の内面のイマジネーションと等号でつなぐ。
まさに外に表現された像が内なる像とおなじだと想えるようになったことで、人が想像する=イマジネーションを行うことが可能となり、それが一般の人のあいだにも浸透しはじめた時代が、17世紀初めの「エキセントリック・スペース」の流行の時代のもつ意味だというのです。

「近代視覚表現技術とともにあった「想像力」の危機」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:46| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月02日

反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する

数ヶ月前から気になっていたことの1つは、自分でブログを書く際、どうも昔に比べて何を結論として言いたいのかを意識して書くことが苦手になってるという感じがしていることです。



何も言いたいことがなければそもそも書くこともないわけで、そこはとうぜん書きたいことがあるから書いているのですけど、でも、いまの僕にとって、その「書きたいこと」というのは間違いなく「結論」じゃないというところがちょっと問題なような気がしていたんです。

僕にとってはむしろ、ダラダラと書き連ねているその過程で書いているそれぞれが「言いたいこと」であって、何か1つの結論をいうためにそれらを書き連ねているわけではないんです。
だから、どうしてもいわゆる起承転結のような文章の構成で書かなくてはいけない動機がないし、そんな風に構造化してしまうことで「すべてが結論のために」みたいになってしまって途中の文章が豊かな意味を失うのは嫌だったりします。

そんなわけなので「結局のところ、何を言いたいの?」とか「何について書いているの?」とか言われてしまうと困ってしまうような書き方でそもそも書こうとしていたりするのですが、そうすると、それは何か結論や答えに至るようなものを期待する読者にとっては非常に読みづらい文章が生成されるという結果になるから、決して読者にやさしい文章にはなりにくいなーということが気にはなっていたのです。

というわけでモヤモヤしていたのですが、ひさしぶりに読んだ高山宏さんの本に、こんなことが書かれていてかなり気持ちがすっきりしたんです。

書物が起承転結や序破急を経てある目的/終わり(エンド)に収斂しなければならないとする書物観、知識観を、博物誌は原理的に嗤(わら)う反知の形式なのにちがいない。何をどういう順序で扱おうと少しもかまわない。どこかへ行きつく必要から解放されたとき、人間の想像力がいかに奔放、猥雑に働くものか。博物学的知はそれを見せ、それを愉しむ。

これは澁澤龍彦の「博物誌的」な文章を高山さんが評したものですが、そうそう、僕が好む「知」ってこういう「博物誌的な知」なのだということをあらためて自覚しました。
澁澤龍彦さんの本は、もう20年も前くらいによく好んで読んでいましたが、その頃から僕はそういう博物誌的な知のあり方を好む傾向があったんだろうと思います。

「反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する」の続き
ラベル:高山宏 バロック
posted by HIROKI tanahashi at 20:04| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月22日

コンテンツ単位でライティングを考えるのって、顧客の体験価値全体を視野に入れずに製品つくるのと同じじゃない?

最初に、結論からいうと「コンテンツ単位でライティングを考えるのって、顧客の体験価値全体を視野に入れずに製品つくるのと同じじゃない?」なんてことを思いました。

20121221a.jpg

そんな風に考えたのは、昨日、ロフトワークさんの主催の「ソーシャル時代のWebライティング」というイベントに出席させていただいたからです。

いやいや、そこでお話しされていた内容を否定することを考えたわけではないんです。

Web Professional編集長の中野克平さんとインフォバーンの成田幸久さんのお話はやっぱりプロの人は、ちゃんとオチとか構造とか読まれるための見出しとか、どうしたら読んでもらえるかということを考えて文章を作っているんだなと当たり前のことに感心しました。
翻って、自分が文章を書く際のことを思うと、お2人がお話しされていたことをほとんど意識していないことにも気づかされたんです。うーん、だから、読まれるものと読まれないもののバラツキがすごくあったり、基本的には読むのに覚悟がいる「読みやすさには配慮されていない文章」になるんだろうなと思ったりもしました。

でもね、でもです。
コンテンツとして書かれた内容がおもしろければ、それでいいんでしょうか?と僕なんか考えてしまうわけです。読んでおもしろかった、けど、何? わたしはそれでどうしたらいいの?って読んだ人が思ったりするのは考慮しないの?とかも思うわけです。これは「どうしたらライティングできるか?」という昨日のテーマとはすこし捩じれた位置にある話なんですが、僕なんかはそこが気になって仕方ない。

ということで、冒頭の結論に通じる僕の考えを下手な文章でまとめてみようと思うわけです。

「コンテンツ単位でライティングを考えるのって、顧客の体験価値全体を視野に入れずに製品つくるのと同じじゃない?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:11| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月14日

創造性を資源として価値を生むことを重視する社会にしていくには…

創造性を資源として価値を生むことを重視する社会にしていくにはどうすればよいのでしょうか?
物質的な資源を加工して価値を高めるこれまでの社会における知恵の使い方ではなく、知恵そのものを資源に価値あるものを創造することで経済面でも文化面でも豊かな社会をつくっていくためには自分はこれからどんな活動をしていけばよいだろうか?
最近はそんなことを考えています(そんなことを考えるのは、ここでそんな話をしたいと思っているからですが)。



そして、そんな社会にするために何より必要なことは、知識や情報というものをモノと同じように私有しようとすることをできる限りやめて、知識や情報は社会の共有資産としてオープンにシェアし、人びとが知恵を使って創造性を発揮する活動をどんどんしていけるようなそんな環境をつくることが大事だと思います。
そして、そんな活動自体もオープンにし、いろんな人々が知恵を出して、次々に新しい価値を創造していけるよう、そんなオープンイノベーションやコ・クリエーションを重視した環境がつくっていきたい。
そんな風に考えるのです。

「創造性を資源として価値を生むことを重視する社会にしていくには…」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:51| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする