イメージと思考を結びつける

イメージと思考との関係について考えることが好きだ。 言葉にならないものをイメージで表現するといったりする。もちろん、イメージを使えば言葉と異なる表現ができるのだけど、だからといって、イメージが表現しているものを言葉で説明することを怠ったりするのは、あまり好きじゃない。イメージを表現に使うにしても、その背後には思考があってほしい。とうぜん、それが言葉による思考である必要はないし、思考をイメージで表現するのではなく、イメージによる表現自体が思考であればいいのだけれど、そもそもの思考がないなら、それは好みではない。 むしろ、言葉にならないものを表現しているからこそ、イメージそのものが表すものについては、言葉で表現されたもの以上に言語化する方向で思考を巡らせたほうが面白いはずだ。 田中純『歴史の地震計』中の図版「ムネモシュネ・アトラス」のパネルの1枚 だから、アビ・ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』という971枚の図版が総数63枚の黒いパネルに配置された作品(?)を言語化する田中純さんの試みには、繰り返し惹かれている。 例えば、『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』という本を読んだのは、2008年の7月だから10年弱経っている。そして、つい最近も『歴史の地震計』を読んで、いろいろ興奮させてもらったばかり。 その本で、ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』はこう紹介されている。 まず、『ムネモシュネ・アトラス』の概要を説明しておこう。 「ムネモシュネ」とはギ…

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バラバラに切り刻みこまれた言説が意味が空っぽの器をつくる

物事を総合的な視点で見ようとせず、ディテールばかりを見て論じてしまうがゆえに、議論が空虚なものになることは少なくない。議論されている全体を理解できないがゆえ、自分で見えている断片だけを取り上げて、そこだけから全体の評価を行おうとしたりする会話が多くなればなるほど、議論は無意味なほうに進む。 複数人の議論だけではなく、個人の思考においても、全体を見ずに、断片的に切り取った部分の集積だけで云々すると、訳のわからない妄想が生まれがちだ。もちろん、それをあえて文脈を外してスペキュラティブな問いを生み出そうとしているなどの意思があれば全然別の話なのであるが。 そんなことをロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』のこんな記述を読みながら思いだした。 文脈から切り離すことは、文脈を消滅させることと同じく、秩序正しい真実あれこれを壊すのに有効である。 ロザリー・L・コリー『シェイクスピアの生ける芸術』 これは、シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』を評した一節で、「トロイラスにとって、クレシダはその両方をなしたのである」と続く。 『トロイラスとクレシダ』はトロイ戦争末期を描いた劇で、トロイの王のトロイラスは自分の恋人だと信じていたクレシダが、敵であるギリシャの将軍ダイオミーディーズの元に走ったことで、恋愛の文脈においても、戦争の文脈においても、その事実を認めることができず「これはクレシダであり、クレシダではない」と口走ったあと、「女の忠節のかえらが、愛情の残飯が、大盤…

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征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する

難解で重苦しく、絶望的な暗さを響かせもする言葉に最近は惹かれたりする。 あまりに明快で、わかりやすく、それゆえに何も告げていない言葉はむしろ不快すぎて目障りだ。 明るく明解で合理的すぎる思考に魅力を感じないのは普段から変わらないが、それにしても、ここ1ヶ月くらいは普段にも増して、ドロドロとした粘着性をもった腐敗したような思考の外に遺棄されたようなものに臭いに引き寄せられる傾向がある。 企図されたもの。明らかすぎる知識。 わかりやすさについては、元よりまったく魅力を感じないし、かねてから社会の毒だと思っている。 それは単に人を惑わし奴隷にする手枷足枷でしかない。そんなものを喜んで自ら引き受けようとする人たちの気が知れない。 「決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ」とバタイユはいう。企てという明るすぎる道のみを安全に進もうとする意思。いったい、それのどこが面白いのか。一度も決断することなく、歩まずともすでにわかっている結末に向かって、なにも考えないまま進んでいく。心をドキドキさせる不安はそこにはただの1ミリもない。 バタイユは、そんな企てに、内的体験なるものを対置する。 「内的体験は行為の反対物であって、それ以上のものでもないのだ。「行為」は完全に企ての支配下にある」と。 私はどのようにしても逃げることはできず、限りない全面的衰弱のなかに投げ込まれ、私自身へと投げ捨てられ、いや、もっと悪い、私…

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集団を動かすもの - システム、コンセプト、非知的なもの

人を動かすのにシステム以上に強力なもの、それは人が信じている概念(=コンセプト)であり、それを指し示す言葉なのだと思う。 だから、システムに沿って受動的に動いてもらうより、何らかの概念を理解してもらい、その概念の存在を信じて受け入れてもらったほうが人は主体的に動くようになる。その概念があまりに当たり前になって普段は意識することもないくらいに自然なものになれば、その概念に関連した行動はもはや自動的なものにすらなるだろう。 例えば、喫煙は他人の迷惑のかからない喫煙エリアで行うとか、性的指向は多様なのだから性的少数者の権利も認めるのは当然であるとか、それらはルールやシステムの問題である以上に、考え方、どのようなコンセプトをどう信じて行動する上での判断基準として用いているかという問題である。もちろん、人が信じる判断基準と現実のルールやシステムに乖離があれば、現行のルールやシステムを改編する必要があるが、その逆にルールやシステムの側から変えようとすると、一部の人には心理的な違和感が生じてしまうこともあるはずだ。 いくつか前の記事「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」で、シェイクスピアの戯曲『オセロー』の主人公が恋愛に対して初心すぎて恋愛については紋切り型の瑣末な知識しか持たなかったがゆえに、自分を憎む部下に欺かれて、愛する妻の浮気を疑い、怒りのあまり殺してしまうという痛ましい結末に至る際の、言葉=知識のもつ力の怖さについて触れ…

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知っていることより大事なこと。それは新しいことを知ることができるということ。

常々、思う。 たくさん知識をもっていることより、もっと大事なことがあるって。 もっと大事なこと。 それは新しい知識をどんどん手に入れ、自分でそれを扱えるようになる能力をもつことだ。 知らないことでも聞けば瞬く間に知っている状態に移っていける。 その力さえあれば、いま、どれだけ知識を持ってるかはそんなに関係ない。 だって、必要なときに必要なだけ一気に手に入れ、扱えるようになればいいのだから。 そう。その意味ではどんどん手に入れ、それを扱えるようになる力にはスピードがともなっている必要がある。 だったら、常日頃から知識を徐々に手入れておけばいいじゃないかって? いつ何の知識が必要かもわからず、闇雲に知識をたくわえておくというのはあまり意味がある気がしない。 もちろん、興味がある知識を常日頃から手に入れるのはもちろん意味がある。 だって、興味があって知りたいのだから、その欲望を満たせばいい。 でも、いつ役に立つかわからない知識を勉強だからといって、詰め込むのは、義務教育の頃だけで十分ではないだろうか。 すくなくとも大人にそんな知識がいらない気がする。 そんないらない知識を学ぶ暇があったら、いますぐ必要な知識を得ることと、何より知識を必要なときに必要なだけ手に入れ、使えるようになるための土台となる理解術や思考法を身につけておいたほうがいい。 だって、いまの時代、必要な知識など、次々と変わるんだからストックしておくことなんて、ほとんど無意味だから…

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どこまで愛されているのかその限界を知りたいの

誇張するなら、限界を超えて、いまだないものを創造するほどに誇張するべきなのかもしれない。 クレオパトラ どこまで愛されているのかその限界を知りたいの。 アントニー それならば新しい天、新しい地を見つけなければなるまい。 シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』1幕1場14-17行 シーザーなきあとのローマ帝国、三頭政治をしく3人の執政官のひとりアントニーこと、マルクス・アントニウスと、エジプト・プトレマイオス朝の女王クレオパトラが、ともに恋に身を滅していく様を描いたシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』。 その戯曲は、『シェイクスピアの生ける芸術』のロザリー・L・コリーに言わせると「身の程知らずの張喩」が目につく作品だという。 張喩、つまり、誇張表現。 それは先の引用でもみたとおりで、2人の間でも互いに交わされるし、2人を取り巻く人々も良い意味でも、悪い意味でも、2人のことを誇張した調子で表現する。 それゆえ、「アントニーは何をしても、「尺度を超えてしまう」かのように見える」し、クレオパトラを「我々は、彼女が礼儀に背いても、悪ふざけがすぎても、愚かな中年女でも、それでもなお魅力的であると感じさせられる」。 まこと、アントニーとクレオパトラは己れ自身について、また互いについて、誤った印象を抱いていたり創り出していたりしていたかもしれない。だが、彼らは何か別のこと、何かきわめて尊く、きわめて詩的なことを試みていたのである。等身大よりも大きいという己れの自身…

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知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも

嗚呼、オセロー。何故、あなたはそんなに初心(うぶ)なのか? シェイクスピアの『オセロー』で、主人公であるオセローは愛する妻を、悪人イアーゴーに吹き込まれた妻の姦通というデマを信じて、愛するが故に殺害してしまう。 その後、妻の姦通がまったくの嘘であったことに知って、みずからも自害するという悲劇なのだが、そもそも、主人公オセローに妻であるデズデモーナを愛を語らせ、姦通の疑いから激昂させ、そして殺人にまで至らせるのが、軍人であるオセローの恋愛に対する初心さであり、それゆえにソネットなどの恋愛詩、恋愛文学の定型そのままに行動させてしまうことだというから悲劇以外の何物でもない。 無知であること。にもかかわらず、誠実でいようとする場合、オセローのような定型=ステレオタイプの罠にはまってしまい、現実とのギャップに空回りをきたし、悲劇的な結末を誘ってしまうことは少なくない。 もちろん、それは恋愛の場合に限らない。 知識が少なければ少ないほど、自分の知識が少ないことに気付きながらそれを補う努力を怠る人ほど、ステレオタイプの型に自らの判断を預けてしまい、さも自分で考え行動しているつもりながら、ほとんどを型に委ねてしまう。そして、多くの型がそれそのものだけでは機能するようできてはいないので、結局、何事もうまくいかず、より面倒な状況に追いやられる。この流れから抜け出すためには、自ら知識をつけ、「知識を元に自ら考える」という編集行為にのりだす必要がある。だが、これをやらない人は多くて、それ…

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分かっていることを新たに分かり直す

デザインリサーチ。デザイン思考などのアプローチで用いられる、フィールドワークやデプスインタビュー、デスクトップリサーチなどの様々な調査方法を組み合わせて、デザインの課題を定義するために用いる思考の方法。 そのデザインリサーチをしていると往々にして起こる問題がある。 それはリサーチに関わっていない外部から、リサーチの結果をみて「それはリサーチをしなくてもわかった普通のことでないか」という反応があがるということである。 問題の要因は2つあると思う。 デザインリサーチをしたことがない人には、デザインリサーチによって何が変わったかがそもそもわかりにくいデザインリサーチをした側が、そうした前提に立って、やってない人に自分たちが得たものを伝える努力を怠ってしまう(もしくは、その前提自体の認識がない) 「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」 量子力学の研究で知られる理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの言葉だ。 デザインリサーチがリサーチを行う際の立場もこれと似ている。 デザインリサーチの対象となるのは「誰もが見ている」日常的なものであることが多い。それをわざわざリサーチの対象にしようというのだから、「まだ誰も見ていないものを見る」の目的であるはずがなく、「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」ことのほうが目的になるのは当然である。

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わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ

ちょっとびっくりしている。 びっくりして戸惑っている。 実際には何も変わっていなくても、見方が違うだけで現実がこんなに違って見えるということに。 「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」 ノヴァーリスの未完の小説『青い花』で、主人公の青年ハインリヒにせがまれて父親が母親と結婚しようと決断するにいたった夢の話をする中で、夢の中で出会った老人の語る話を聞いて、父親が感じたことを述べたセリフだが、まさに、今日僕自身が感じたこともこれに近い感じのものだ。 きっかけは、最近、会社での役割が変わったことだ。変わったとはいえ、正直、今日まではあまり実感を感じていなかった気がする。 それでも、役割が変われば、やることもすこしずつは変化していくもので、そうした変化をあらためて、今日は休みだということもあり、もろもろの作業をしつつ、頭のなかの整理をしはじめたら「まるで新しい世界に上陸するような気が」するくらい、まだ何も変わっていない状況がまるで違って見えはじめたことにびっくりし、戸惑ったわけだ。

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学びの解放

言葉が錯綜して解読困難だからといって、それをあなどり投げ捨ててしまうような無思慮な人間にはなりたくない、と思う。 芸術家の技芸とは、自分の道具をあらゆるものにあてがい、世界を自分流に写しとる能力にほかならない。だから、芸術家の世界の原理は実践となり、かれの世界はかれの芸術となるのだ。ここでもまた、自然は、新たな壮麗さを帯びて眼に見える姿をとるが、ただ無思慮な人間だけは、この解読困難な奇妙に錯綜した言葉をあなどって投げ捨ててしまう。 ノヴァーリス『サイスの弟子たち』 研究=リサーチ精神に欠けた人には、自然および自分自身の秘密の発見をともなう創造としての芸術家の技芸が宿るはずもない。 前回、紹介した、『オルフェウスの声』のなかでエリザベス・シューエルはフランシス・ベーコンを参照しながら、こう書いている。 「技芸は自然の一部であり、受身のアナロジーでなく能動的な操作の場、まさしく自然が言葉を語り出ることができる場、ということになるだろう」と。

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自然研究者が蒐集し、まとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や…

集めるという行為、そして、集めたものを眺めみるという行為のうちに、頭のなかにひらめき、ざわめくアイデアをちゃんと言葉なり形になりにするという手間をとるかどうかというのは、何かを創造する力があるかないかという観点からみた場合、とても大きな差なのだろうと感じる。 そして、同時に、その言葉なり形なりにすることを愉しむことができるかどうか、言葉なり形なりにする際に、安易にありきたりの言葉や形なりに無理やり押し込んでしまうのではなく、自ら得たはずの細かな感じ方そのものをきれいに繊細に織り上げるように言葉を紡ぎ、形を得られるかも、また、そこから創造が生じるかの分かれ道になる。 創造するということと、情報と頭の使い方について、あらためて気づくことが多かった1週間だった。

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編集的思考でみずから解釈する、詩人のように

編集的に思考できる力がいま必要だ。 世の中にはあまりに多様な情報がありあまりすぎているから。 ありあまる情報を相手にする場合、単に情報を取捨選択すればよいわけではない。 単純に取捨選択などしようとすれば、一見、魅力的に感じることばの響きに騙され、考えもなく、それに引き寄せられてしまう。前回の記事(「倫理が現実を茶番にする」)で、何が許され、何が批難されるべきなのかを判断する倫理自体がきわめて恣意的であることを指摘したばかりだ。倫理がそれほど危うい状態なのに、誰かが放った情報をただ勘にまかせて、選びとってしまうのはあまりにきびしい。 レンヌ美術館の「驚異の部屋」の展示棚。無数の奇異な品々は奇異さというキーで編集的に集められたもの いま必要なのは、多様な情報をいったん自分自身で編集しなおしてみて、自分なりの理解を組み立てるスキルであり、センスだろう。 逆にいえば、状況を自分でしっかり考えとらえられないセンスの欠如は、自らの思考と編集的な作業をうまく絡ませて、言語化する作業を怠ることに起因する。 そんな考えが浮かんだのは、ロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』の、こんな一説にふれたときだ。コリーはシェイクスピアの『ソネット集』からソネット21番の一部を引きながら、こう語る。 "ああ、愛において真実であるわたしは、詩作においても真実でありたい、 これが本当のこと、私の恋人は人の子の誰にも負けず美しいが 天空に据えられたあの黄金の蝋燭ほど輝いてはいない。 …

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倫理が現実を茶番にする

倫理などというものは時代によって大きく変わる。 人間社会で生活をおくる上で、何が許され、何が批難されるべきなのか。そんなものに正解などない。 なのに、正解がある前提で話をしたりするから、どちらが正しいといった無駄な争い、衝突がおこる。 ジャンヌ・ダルクが処刑されたフランス・ノルマンディーの都市ルーアンのヴュー・マルシェ広場 いまは聖ジャンヌ・ダルク教会が建つ 正解がないのはもちろんのこと、歴史的にみれば、その振れ幅というのは、今の僕らには考えられないくらいの大きさをもっていることに驚かされたりもする。 例えば、前回の記事でも紹介したホイジンガの『中世の秋』に描き出された中世ヨーロッパ社会では、人びとはどんな倫理観で動いていたのか?と疑念を抱くような驚くべき事柄が次々と紹介される。 そのひとつが処刑。中世ヨーロッパ社会においては、処刑が見世物としての性格をもっていたというのだ。 処刑台は残忍な感情を刺激し、同時に、粗野な心の動きではあるにせよ、憐れみの感情をよびおこす。処刑は、民衆の心に糧を与えた。それは、お説教付き見世物だったのだ。 ホイジンガ『中世の秋』 ジャンヌ・ダルクの火あぶり、魔女狩りなど、僕らが思い起こすことができる中世の処刑の風景はたしかに町の広場で行われているイメージがある。 罪人だけでなく、大貴族もまたこの見世物の犠牲になった。 人びとは「きびしい正義の執行をまのあたりにして満足」したという。当局は、この見世物の効果を損なわないように…

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思考も感情も個々人の自由などではなく、社会・文化的な様式あってのこと

本を読むなら一度に1冊ずつ読むよりも、複数冊の本を同時に読み進めることが良いと思う。 その方が本に書かれたことから、気づきを得たり、自分の思考に落とし込むことがスムーズになりやすいからだ。 本を読むというのは、決して、そこに文章として書かれた内容をただ読むという行為ではない。それは書かれたことと自身の体験や既存の知識とを折り合わせながら、自分自身の思考を紡いでいく作業なのだと思う。書かれたことを純粋に読んでいるつもりでも、そこには読む人自身の経験や持っている知識の影響が織り込まれないということはない。だから、書かれたことの解釈は異なるのだし、そもそも解釈なるものが自身のもつ経験や知と切り離せない。 だとしたら、そのことをむしろ積極的に利用して、読書というものをより意識的に知の創造的行為に仕立て上げた方がよいと僕は思う。 その視点に立つ際、複数冊の本を同時に読むという方法は有効だ。 1冊の本が相手だと、本と自分の1対1の関係になって解釈の膨らむきっかけが限定されてしまう状況に陥りがちだが、それが複数冊同時の読書だと、本と自分という1対1の関係から、本と本との関係が加わり、本同士の共鳴が1冊の本との間では生まれ得なかった気づきをあたえてくれることがよくあるからだ。 もちろん、いま読んでる本と過去の本の記憶でもそういうことは起こりえるが、やはり長い空白期間のある過去の記憶をたよるよりはより身近な記憶のほうが共鳴が起こりやすい。 僕自身、ソファーで読む本、寝るときに布団の…

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わかっていることから逃げろ

みんな気づいているだろうか。 わかってしまっていることほど、わかることを妨げるものはない、ということに。 カオスを前にして、ただただ混乱してパニックになるだけか、それともカオスをなんとか制御する手立てを発見しようとカオスのディテール、全体の動向を共にみて思考を巡らせるか。基本的には知的に考えるということは、後者のような態度をいうはずだ。 その後者の態度をむずかしくさせるものこそ、すでにわかりきって整理された状態である。 それはもはや制御されすぎていて、どう制御すればよいかを問う余地がないのだから。 その意味ではカオス(混沌)の逆はコスモス(秩序)ではない。真にカオスの反対に位置するのは、操作された状態だろう。 外にあるプログラムを疑うことなく、それに操られて日々スムーズに動き続ける状態。何にも悩まないし、何にも躓くことはない。すべては苦もなく手に入る。 もちろん、そこまで完璧に夢のような生活を送れている人はいないだろう。 現実はもうすこしだけカオスに近い。 けれど、その現実をカオスと見るか、夢のような世界と自らに暗示をかけて、すべてをわかっているものと信じこみたいのか。わからないものは自分に近づかないよう、既知のイメージや記号でできた夢のような世界に閉じこもるのか。 僕がカオスが好きなのは、そんな夢のような世界が退屈すぎると思うからだ。 わからないものがあるから、新しくおかしなことを考える自由な余地がある。わかりきったことばかりで答えも決まってたら…

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知力とは、わからないことをどれだけ考えられるかという度合い

前に、友人のフランス人女性が言っていた「日本語には美味しいを示す言葉のバリエーションが少ない」という言葉が記憶に残っている(正確には、その女性がそう言っていると彼女のパートナーの日本人男性が教えてくれた)。 Ca a l'air tres bon. 一方、フランス語には、美味しいを表すたくさんの表現があって、例えば、 C'est bon !C'est délicieux !C’est succulent !C’est excellent ! のような表現がある(日本語にしようとしても、どれも「美味しい」になってしまいそう)。 もちろん、これに très をつけて、C'est très bon !(とても美味しいです)と言ってみたりもするから、確かに日本語にはない「美味しい」の言い分けのバリエーションができる。 「美味しい」という言い方にバリエーションなんてなくてもいいじゃないかと思うかもしれない。けれど、そうじゃない。 フランスで食事をしてると店の人がほぼ必ずといっていいくらい、食中、食後によらず「美味しいか?」「美味しかったか?」と訊いてくるから、こんな風に表現のバリエーションがあるのは役に立つ。 その意味では、日本人がフランス人に比べて味の違いがわからないという話ではなく、こんな風に食べた感想を言う場面が日常的に多くないというのも、表現数の違いには関係しているのだろうと思う。 区別する価値があるからこそ、区別をするのだ。 さて、ここで思うのは、「1.…

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メタモルフォーゼする僕ら

定形をデフォルトとみるか、はたまた変形のほうを常ととらえるか。 後者だとしたら、その変形は変形するものの自律的な要因ととらえるか、よりインタラクティブな他者との関係性によるものと考えるか。 そんな観点に立ってみた場合、いま読んでいるオウィディウスの『変身物語』はなかなか面白い。 起源8年に全15巻が完成したというのだから、2000年以上に書かれたものだが、僕ら自身を含む生物というものを考える際にこれが思いの外、興味深く感じられている。 エリザベス・シューエルは『オルフェウスの声』のなかで、この物語について「『変身譚』はそれ自体、巨大なポストロジックなのである」と述べている。 ポストロジックとは、前々回の「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という記事でも紹介したように、人間が自然を扱う際の「詩的で神話的な思考の発見、涵養、展開」をする思考のスタイルを指すシューエルの用語である。 つまり、生物がそれを満たす自然という対象をみる視点として、詩的で神話的な見方を導入するのだが、そこからみると、世界は変形がデフォルトで、かつ、その変形を促すものがとてもインタラクティブなものだということが自然に思えてくるのだ。 そう。僕らは常に何者(ら)かよって変形され続けている(ステキなことだ)。

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わかることよりも感じることを

文脈がわからなければ「わからない」。 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』の著者・西林克彦さんはそう言っている。 言い方を変えれば、「わかる」とは、既知の文脈に、その直前までわかっていなかったことがピタッとあてはまることで起こる心の動きだということができる。 いや、わかっていなかったことじゃなくてもいい。 すでにわかってたことでも、それが今までの理解とは別の文脈にあてはまり、別の意味がそこから見えてきたときも人は「わかった」となるはずである。 西林さんもこんなことを書いている。 文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。 西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』 既知の事柄でも、それを理解していたのとは別の文脈からみてみると、まったく異なる別の意味が見えてくることもある。それは「わかる」ということの土台には既知の文脈があり、その文脈との結びつきが何かをわからせることにもなるし、逆に、それ以外の理解の仕方の可能性を閉ざすことにもなるというわけだ。 知ることは同時に、知らなくさせるでもあるということだ。 このことが基本的にわかっていない、と、1つ前で書いたような「不可解とは、要するに、理解力のなさがもた…

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不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない

「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」 そう。わかりにくいのは対象そのものに宿る問題ではない。むしろ、対象に向かう側の姿勢の問題である。 わかる力がないことが、何かがわからないという際の根本的な問題なのだ。 では、どう、問題なのか? 「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」 そう。わかっているものしかわからない。 つまり、わかるということ自体、最初から最後まで対象の問題ではなく、わかる側自身の問題なのだ。 対象についてわからない場合だけでなく、対象についてよくわかっている場合でも、わかるということはわかる側のものなのだ。 「だから」と、『サイスの弟子たち』という未完の小説のなかの一連のセリフの最後をノヴァーリスは締めにかかる。 「それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。 発見のなさとは自分自身の殻にとじこもり、知的冒険に赴こうとしない、不可解さを嫌う精神を示すものだということをノヴァーリスは述べているのだ。

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どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?

ぼんやり過ごしすぎてはいないだろうか。 自分がどんな状況にいて、その状況が自分にどう見え、感じられているかをちゃんと自覚しているだろうか。 自分の行動や感情がそれら状況にどう影響され、あるいは、逆に自分の存在、言動、感情が周囲の状況にどう影響を与えているのか。そういうことをどれだけ自分自身で認識しており、その制御が可能な状態になっているだろうか。 パリ・グランパレの前に置かれた馬のようであり、同時に木のようでもある、王女の姿をした謎の存在。 こうした存在こそ、これからの科学的な視点において大事なものではないかと感じている。 認識すること、そして、その認識を言葉をはじめ、なんらかの技術を用いて表現できるようにすること。 それが世界とうまくやっていくための基本である。 対人関係であろうと、仕事一般のことであろうと、自然を相手にした科学であろうと同様である。 対象の観察からそれを自分にどう見え、感じられているかを理解し、それを自分の言葉なり、その相当物に移し変えること。それが理解であり、その理解のバリエーションによって、対象となる世界をどの程度、自分の側で制御できたり、それになんらかの影響を与えられるかが変わってくる。 とうぜん、どのように見えているか、そして、自分の見え方にどの程度自覚的で、それを自分の言葉なりにすぐさま変換できるかという度合いや種類は人によって異なる。 冒頭書いたように「ぼんやり過ごしすぎている」状態だと、自分が見ているものは何かということ…

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