2017年11月19日

征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する

難解で重苦しく、絶望的な暗さを響かせもする言葉に最近は惹かれたりする。
あまりに明快で、わかりやすく、それゆえに何も告げていない言葉はむしろ不快すぎて目障りだ。



明るく明解で合理的すぎる思考に魅力を感じないのは普段から変わらないが、それにしても、ここ1ヶ月くらいは普段にも増して、ドロドロとした粘着性をもった腐敗したような思考の外に遺棄されたようなものに臭いに引き寄せられる傾向がある。

企図されたもの。明らかすぎる知識。
わかりやすさについては、元よりまったく魅力を感じないし、かねてから社会の毒だと思っている。
それは単に人を惑わし奴隷にする手枷足枷でしかない。そんなものを喜んで自ら引き受けようとする人たちの気が知れない。

「決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ」とバタイユはいう。企てという明るすぎる道のみを安全に進もうとする意思。いったい、それのどこが面白いのか。一度も決断することなく、歩まずともすでにわかっている結末に向かって、なにも考えないまま進んでいく。心をドキドキさせる不安はそこにはただの1ミリもない。
バタイユは、そんな企てに、内的体験なるものを対置する。
「内的体験は行為の反対物であって、それ以上のものでもないのだ。「行為」は完全に企ての支配下にある」と。
私はどのようにしても逃げることはできず、限りない全面的衰弱のなかに投げ込まれ、私自身へと投げ捨てられ、いや、もっと悪い、私は空虚で、無関心であるだろう。だが内的体験は征服行為であり、そして、征服行為として、他者のためのものなのだ! この体験においては主体は錯乱し、客体のなかにおのれを滅ぼす。そして客体自体もまた消滅するのである。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』

逃げることのできない征服行為。征服行為である内的体験のなかで私は錯乱し、征服してくるドロドロとした腐敗的な得体の知れない他者のなかに崩れ、融解する。それが最初から決まったゴールに何の危険も犯さずに進む企てとは正反対なのは明らかだ。
けれど、この腐敗に征服され、自らを投げ捨てる勇気をもった内的体験への衰弱した意思こそが、実のところ、生きた心地を感じさせる唯一のもののような気がしている。

「征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する」の続き
ラベル:バタイユ
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2017年11月04日

集団を動かすもの - システム、コンセプト、非知的なもの

人を動かすのにシステム以上に強力なもの、それは人が信じている概念(=コンセプト)であり、それを指し示す言葉なのだと思う。

だから、システムに沿って受動的に動いてもらうより、何らかの概念を理解してもらい、その概念の存在を信じて受け入れてもらったほうが人は主体的に動くようになる。その概念があまりに当たり前になって普段は意識することもないくらいに自然なものになれば、その概念に関連した行動はもはや自動的なものにすらなるだろう。



例えば、喫煙は他人の迷惑のかからない喫煙エリアで行うとか、性的指向は多様なのだから性的少数者の権利も認めるのは当然であるとか、それらはルールやシステムの問題である以上に、考え方、どのようなコンセプトをどう信じて行動する上での判断基準として用いているかという問題である。もちろん、人が信じる判断基準と現実のルールやシステムに乖離があれば、現行のルールやシステムを改編する必要があるが、その逆にルールやシステムの側から変えようとすると、一部の人には心理的な違和感が生じてしまうこともあるはずだ。

いくつか前の記事「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」で、シェイクスピアの戯曲『オセロー』の主人公が恋愛に対して初心すぎて恋愛については紋切り型の瑣末な知識しか持たなかったがゆえに、自分を憎む部下に欺かれて、愛する妻の浮気を疑い、怒りのあまり殺してしまうという痛ましい結末に至る際の、言葉=知識のもつ力の怖さについて触れていたが、それも同じことだ。浮気は裏切りであるという考えと、悪どい部下の吹きこむ偽りの言葉があまりに安易に結びついてしまい、ありもしない浮気を疑い、愛する妻の殺害へというどう考えても高いエネルギーを必要とする行動へと主人公の思考を動かしてしまう。

そういう観点からみれば、組織やコミュニティにおいても、単にルールやシステム、やり方などだけを共有しているものよりも、価値観だとか文化とかを共有しているもののほうが、組織や集団としての行動力は強くなるはずである。
強烈に価値観が共有できていれば、その組織やコミュニティがもつ力は強力なものになるだろう。
「集団を動かすもの - システム、コンセプト、非知的なもの」の続き
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2017年10月27日

知っていることより大事なこと。それは新しいことを知ることができるということ。

常々、思う。
たくさん知識をもっていることより、もっと大事なことがあるって。

もっと大事なこと。
それは新しい知識をどんどん手に入れ、自分でそれを扱えるようになる能力をもつことだ。



知らないことでも聞けば瞬く間に知っている状態に移っていける。
その力さえあれば、いま、どれだけ知識を持ってるかはそんなに関係ない。
だって、必要なときに必要なだけ一気に手に入れ、扱えるようになればいいのだから。

そう。その意味ではどんどん手に入れ、それを扱えるようになる力にはスピードがともなっている必要がある。

だったら、常日頃から知識を徐々に手入れておけばいいじゃないかって?
いつ何の知識が必要かもわからず、闇雲に知識をたくわえておくというのはあまり意味がある気がしない。

もちろん、興味がある知識を常日頃から手に入れるのはもちろん意味がある。
だって、興味があって知りたいのだから、その欲望を満たせばいい。

でも、いつ役に立つかわからない知識を勉強だからといって、詰め込むのは、義務教育の頃だけで十分ではないだろうか。
すくなくとも大人にそんな知識がいらない気がする。
そんないらない知識を学ぶ暇があったら、いますぐ必要な知識を得ることと、何より知識を必要なときに必要なだけ手に入れ、使えるようになるための土台となる理解術や思考法を身につけておいたほうがいい。
だって、いまの時代、必要な知識など、次々と変わるんだからストックしておくことなんて、ほとんど無意味だから。

「知っていることより大事なこと。それは新しいことを知ることができるということ。」の続き
ラベル:わかる 認識
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2017年10月23日

どこまで愛されているのかその限界を知りたいの

誇張するなら、限界を超えて、いまだないものを創造するほどに誇張するべきなのかもしれない。
クレオパトラ どこまで愛されているのかその限界を知りたいの。
アントニー それならば新しい天、新しい地を見つけなければなるまい。
シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』1幕1場14-17行

シーザーなきあとのローマ帝国、三頭政治をしく3人の執政官のひとりアントニーこと、マルクス・アントニウスと、エジプト・プトレマイオス朝の女王クレオパトラが、ともに恋に身を滅していく様を描いたシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』
その戯曲は、『シェイクスピアの生ける芸術』のロザリー・L・コリーに言わせると「身の程知らずの張喩」が目につく作品だという。



張喩、つまり、誇張表現。

それは先の引用でもみたとおりで、2人の間でも互いに交わされるし、2人を取り巻く人々も良い意味でも、悪い意味でも、2人のことを誇張した調子で表現する。

それゆえ、「アントニーは何をしても、「尺度を超えてしまう」かのように見える」し、クレオパトラを「我々は、彼女が礼儀に背いても、悪ふざけがすぎても、愚かな中年女でも、それでもなお魅力的であると感じさせられる」。
まこと、アントニーとクレオパトラは己れ自身について、また互いについて、誤った印象を抱いていたり創り出していたりしていたかもしれない。だが、彼らは何か別のこと、何かきわめて尊く、きわめて詩的なことを試みていたのである。等身大よりも大きいという己れの自身の確信と感覚を言葉にしようと試みること−するとそこには、ありきたりの人間が用いる表現様式よりもさらに広大な様式が求められる。

「誤った印象を抱いていたり」「創り出していたり」、つまり、ありもしないものをでっちあげているといえるのかもしれない。だが、しかし、それを一つ前の記事「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」でみた恋愛に初心なオセローがステレオタイプのありきたりの言葉に動かされ、彼の大事な恋を失う悲しみに落ちていく様を思い出すと、はるかに、このアントニーとクレオパトラは羨ましく感じられものではないだろうか。
二人はそんな並外れた幸福を得るために、「ありきたりの人間が用いる表現様式よりもさらに広大な様式」によって自らを語り、互いを語り、そして、まわりの人たちからもその誇張表現によって語られる。

誇張表現、それはある意味、ありきたりの日常という幻想を突き抜けて、真なるものに至るひとつの方法なのではないかと思えてくる。

「」の続き
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2017年10月22日

知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも

嗚呼、オセロー。何故、あなたはそんなに初心(うぶ)なのか?

シェイクスピアの『オセロー』で、主人公であるオセローは愛する妻を、悪人イアーゴーに吹き込まれた妻の姦通というデマを信じて、愛するが故に殺害してしまう。
その後、妻の姦通がまったくの嘘であったことに知って、みずからも自害するという悲劇なのだが、そもそも、主人公オセローに妻であるデズデモーナを愛を語らせ、姦通の疑いから激昂させ、そして殺人にまで至らせるのが、軍人であるオセローの恋愛に対する初心さであり、それゆえにソネットなどの恋愛詩、恋愛文学の定型そのままに行動させてしまうことだというから悲劇以外の何物でもない。



無知であること。にもかかわらず、誠実でいようとする場合、オセローのような定型=ステレオタイプの罠にはまってしまい、現実とのギャップに空回りをきたし、悲劇的な結末を誘ってしまうことは少なくない。

もちろん、それは恋愛の場合に限らない。

知識が少なければ少ないほど、自分の知識が少ないことに気付きながらそれを補う努力を怠る人ほど、ステレオタイプの型に自らの判断を預けてしまい、さも自分で考え行動しているつもりながら、ほとんどを型に委ねてしまう。そして、多くの型がそれそのものだけでは機能するようできてはいないので、結局、何事もうまくいかず、より面倒な状況に追いやられる。この流れから抜け出すためには、自ら知識をつけ、「知識を元に自ら考える」という編集行為にのりだす必要がある。だが、これをやらない人は多くて、それで不幸な状況から抜け出せずに不満を並べつづけるしかなくなってしまう。

無知であること、定型を迂闊にも信じきってしまうことはその意味で実はおそろしいことなのだが、多くの人はそれに気づかない。
まさに定型っぽい筋書きを書けば、こんな流れが生じる。
  • はじめてのことに動揺する
  • どうしていいかわからないから、型に自分を当てはめようとする
  • 型は必ずしも現実の問題にうまく機能しないから、そのギャップにますます自分を見失う
  • ギャップがあるゆえに周囲の反応は自分の思ったものとは異なり、それゆえに誠実に接してくれる周りのことが信じられなくなる
  • 周囲への不信が状況を必要以上に悪いものだという判断をこれまた定型に従って信じてしまい、悲劇へと進む選択をしはじめる
  • どんどん苦しくなって、何かの拍子にうまくそのループから抜け出せない場合、悲劇的な結果が待ち受ける

妻デズデモーナを前にしたオセローの心の動きもまさにこんな流れとして定型化できる。

「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:14| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月08日

分かっていることを新たに分かり直す

デザインリサーチ。デザイン思考などのアプローチで用いられる、フィールドワークやデプスインタビュー、デスクトップリサーチなどの様々な調査方法を組み合わせて、デザインの課題を定義するために用いる思考の方法。

そのデザインリサーチをしていると往々にして起こる問題がある。
それはリサーチに関わっていない外部から、リサーチの結果をみて「それはリサーチをしなくてもわかった普通のことでないか」という反応があがるということである。



問題の要因は2つあると思う。
  1. デザインリサーチをしたことがない人には、デザインリサーチによって何が変わったかがそもそもわかりにくい
  2. デザインリサーチをした側が、そうした前提に立って、やってない人に自分たちが得たものを伝える努力を怠ってしまう(もしくは、その前提自体の認識がない)

「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」
量子力学の研究で知られる理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの言葉だ。

デザインリサーチがリサーチを行う際の立場もこれと似ている。
デザインリサーチの対象となるのは「誰もが見ている」日常的なものであることが多い。それをわざわざリサーチの対象にしようというのだから、「まだ誰も見ていないものを見る」の目的であるはずがなく、「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」ことのほうが目的になるのは当然である。

「分かっていることを新たに分かり直す」の続き
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2017年10月07日

わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ

ちょっとびっくりしている。
びっくりして戸惑っている。
実際には何も変わっていなくても、見方が違うだけで現実がこんなに違って見えるということに。



「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」

ノヴァーリスの未完の小説『青い花』で、主人公の青年ハインリヒにせがまれて父親が母親と結婚しようと決断するにいたった夢の話をする中で、夢の中で出会った老人の語る話を聞いて、父親が感じたことを述べたセリフだが、まさに、今日僕自身が感じたこともこれに近い感じのものだ。

きっかけは、最近、会社での役割が変わったことだ。変わったとはいえ、正直、今日まではあまり実感を感じていなかった気がする。
それでも、役割が変われば、やることもすこしずつは変化していくもので、そうした変化をあらためて、今日は休みだということもあり、もろもろの作業をしつつ、頭のなかの整理をしはじめたら「まるで新しい世界に上陸するような気が」するくらい、まだ何も変わっていない状況がまるで違って見えはじめたことにびっくりし、戸惑ったわけだ。

「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」の続き
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2017年10月06日

学びの解放

言葉が錯綜して解読困難だからといって、それをあなどり投げ捨ててしまうような無思慮な人間にはなりたくない、と思う。
芸術家の技芸とは、自分の道具をあらゆるものにあてがい、世界を自分流に写しとる能力にほかならない。だから、芸術家の世界の原理は実践となり、かれの世界はかれの芸術となるのだ。ここでもまた、自然は、新たな壮麗さを帯びて眼に見える姿をとるが、ただ無思慮な人間だけは、この解読困難な奇妙に錯綜した言葉をあなどって投げ捨ててしまう。

研究=リサーチ精神に欠けた人には、自然および自分自身の秘密の発見をともなう創造としての芸術家の技芸が宿るはずもない。



前回、紹介した『オルフェウスの声』のなかでエリザベス・シューエルはフランシス・ベーコンを参照しながら、こう書いている。
「技芸は自然の一部であり、受身のアナロジーでなく能動的な操作の場、まさしく自然が言葉を語り出ることができる場、ということになるだろう」と。

「学びの解放」の続き
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2017年09月29日

自然研究者が蒐集し、まとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品として小さな自然を形作る

集めるという行為、そして、集めたものを眺めみるという行為のうちに、頭のなかにひらめき、ざわめくアイデアをちゃんと言葉なり形になりにするという手間をとるかどうかというのは、何かを創造する力があるかないかという観点からみた場合、とても大きな差なのだろうと感じる。

そして、同時に、その言葉なり形なりにすることを愉しむことができるかどうか、言葉なり形なりにする際に、安易にありきたりの言葉や形なりに無理やり押し込んでしまうのではなく、自ら得たはずの細かな感じ方そのものをきれいに繊細に織り上げるように言葉を紡ぎ、形を得られるかも、また、そこから創造が生じるかの分かれ道になる。



創造するということと、情報と頭の使い方について、あらためて気づくことが多かった1週間だった。

「自然研究者が蒐集し、まとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品として小さな自然を形作る」の続き
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2017年09月25日

編集的思考でみずから解釈する、詩人のように

編集的に思考できる力がいま必要だ。
世の中にはあまりに多様な情報がありあまりすぎているから。
ありあまる情報を相手にする場合、単に情報を取捨選択すればよいわけではない。
単純に取捨選択などしようとすれば、一見、魅力的に感じることばの響きに騙され、考えもなく、それに引き寄せられてしまう。前回の記事(「倫理が現実を茶番にする」)で、何が許され、何が批難されるべきなのかを判断する倫理自体がきわめて恣意的であることを指摘したばかりだ。倫理がそれほど危うい状態なのに、誰かが放った情報をただ勘にまかせて、選びとってしまうのはあまりにきびしい。


レンヌ美術館の「驚異の部屋」の展示棚。無数の奇異な品々は奇異さというキーで編集的に集められたもの


いま必要なのは、多様な情報をいったん自分自身で編集しなおしてみて、自分なりの理解を組み立てるスキルであり、センスだろう。
逆にいえば、状況を自分でしっかり考えとらえられないセンスの欠如は、自らの思考と編集的な作業をうまく絡ませて、言語化する作業を怠ることに起因する。

そんな考えが浮かんだのは、ロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』の、こんな一説にふれたときだ。コリーはシェイクスピアの『ソネット集』からソネット21番の一部を引きながら、こう語る。
"ああ、愛において真実であるわたしは、詩作においても真実でありたい、
これが本当のこと、私の恋人は人の子の誰にも負けず美しいが
天空に据えられたあの黄金の蝋燭ほど輝いてはいない。
だから空っぽの美辞麗句が好きな者はなんとでも言えばよい。
私は売る気がないのだから褒めそやしたりしないのだ。"

もちろん、シドニー的な仕掛けは明らかだ。詩人は、己れがここで否定している、まさにその言語を用いて友人を讃美してきた。だが、我々は、そうした慣習的な美辞麗句がいかに空疎になりうるかを詩人が承知していたことがわかると、「これが本当のこと」というほうに軍配をあげたくなる。

通常、ソネットが愛する人を美辞麗句で包みこむところを、シェイクスピアはあえてその形式を逆手にとって、美辞麗句で飾り立てることを拒む。これは「真実でありたい」がゆえに本当に真実を語っているということではない。ソネットとは恋人を美辞麗句で飾るものであるという形式をあらためて前景化すること自体が、真実そのものを宙づりにしている。

量子力学の基本方程式を明らかにしたことで知られる理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの言葉を思いだす。
大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ。

この「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」ためには、科学者の視点というよりも、実は、編集的な視点が必要だ。特に、詩人的な視点での編集が。

「編集的思考でみずから解釈する、詩人のように」の続き
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2017年09月24日

倫理が現実を茶番にする

倫理などというものは時代によって大きく変わる。
人間社会で生活をおくる上で、何が許され、何が批難されるべきなのか。そんなものに正解などない。
なのに、正解がある前提で話をしたりするから、どちらが正しいといった無駄な争い、衝突がおこる。


ジャンヌ・ダルクが処刑されたフランス・ノルマンディーの都市ルーアンのヴュー・マルシェ広場
いまは聖ジャンヌ・ダルク教会が建つ


正解がないのはもちろんのこと、歴史的にみれば、その振れ幅というのは、今の僕らには考えられないくらいの大きさをもっていることに驚かされたりもする。

例えば、前回の記事でも紹介したホイジンガの『中世の秋』に描き出された中世ヨーロッパ社会では、人びとはどんな倫理観で動いていたのか?と疑念を抱くような驚くべき事柄が次々と紹介される。

そのひとつが処刑。中世ヨーロッパ社会においては、処刑が見世物としての性格をもっていたというのだ。
処刑台は残忍な感情を刺激し、同時に、粗野な心の動きではあるにせよ、憐れみの感情をよびおこす。処刑は、民衆の心に糧を与えた。それは、お説教付き見世物だったのだ。
ホイジンガ『中世の秋』

ジャンヌ・ダルクの火あぶり、魔女狩りなど、僕らが思い起こすことができる中世の処刑の風景はたしかに町の広場で行われているイメージがある。

罪人だけでなく、大貴族もまたこの見世物の犠牲になった。
人びとは「きびしい正義の執行をまのあたりにして満足」したという。当局は、この見世物の効果を損なわないようにするため、その地位にふさわしい服装を犠牲者にさせ、大貴族らしい身なりのまま処刑された。

人びとは、高い身分のものも罪を犯せば処刑されるという正義の執行に満足しただけでなく、処刑という見世物を通じて、別の形でも心を動かされた。
ブリュッセルでのこと、放火犯で殺人犯のある若者は、燃えさかる粗朶にかこまれて、付け根の環が杭にはまってぐるぐるまわるしかけになっている鎖につながれた。かれは、心をえぐるような言葉で、自分をみせしめとみるようにと、人びとにうったえた。「かれの言葉に、人びとの心はおおいになごみ、憐れみの涙にくれぬものとてなかった」。「かくて、かれの最期は、かつてみられなかったほど美しいものだったと賞揚されたのである」と、これはシャトランの言である。
ホイジンガ『中世の秋』

人びとはこうした見世物としての処刑を見ながら、ふだんはぴくりとも動かぬ心を大きくふるわせたのだという。

「倫理が現実を茶番にする」の続き
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2017年09月12日

思考も感情も個々人の自由などではなく、社会・文化的な様式あってのこと

本を読むなら一度に1冊ずつ読むよりも、複数冊の本を同時に読み進めることが良いと思う。
その方が本に書かれたことから、気づきを得たり、自分の思考に落とし込むことがスムーズになりやすいからだ。

本を読むというのは、決して、そこに文章として書かれた内容をただ読むという行為ではない。それは書かれたことと自身の体験や既存の知識とを折り合わせながら、自分自身の思考を紡いでいく作業なのだと思う。書かれたことを純粋に読んでいるつもりでも、そこには読む人自身の経験や持っている知識の影響が織り込まれないということはない。だから、書かれたことの解釈は異なるのだし、そもそも解釈なるものが自身のもつ経験や知と切り離せない。
だとしたら、そのことをむしろ積極的に利用して、読書というものをより意識的に知の創造的行為に仕立て上げた方がよいと僕は思う。



その視点に立つ際、複数冊の本を同時に読むという方法は有効だ。
1冊の本が相手だと、本と自分の1対1の関係になって解釈の膨らむきっかけが限定されてしまう状況に陥りがちだが、それが複数冊同時の読書だと、本と自分という1対1の関係から、本と本との関係が加わり、本同士の共鳴が1冊の本との間では生まれ得なかった気づきをあたえてくれることがよくあるからだ。
もちろん、いま読んでる本と過去の本の記憶でもそういうことは起こりえるが、やはり長い空白期間のある過去の記憶をたよるよりはより身近な記憶のほうが共鳴が起こりやすい。

僕自身、ソファーで読む本、寝るときに布団のなかで読む本と場所ごとに読む本を変えるということをよくやる。
そうすると、さっきまでソファーで読んでいた本に書かれていたことが、寝る前に読みだした本の内容に共鳴して、「なるほど、だからこういことが起こるのか」と、どちらの本にも直接は書かれていない解釈を自分自身のなかで見いだすことがよくある。

まあ、こういう解釈力というものは、当然ながら読書体験に限ったことではなく、何かを考えるという行為自体、この手の情報編集的な頭の使い方にどれだけ長けているかに関わっている。
複数の異なる人の言ってる異なる意見のなかで妥協ではない、双方が納得する新たな解を見つけだす場合だって、結局、異なる人の会話を理解しつつ、そこに自身の経験のうちに蓄積されてある様々な情報から、うまく使えそうなものを探りつつ、それらの組み合わせから「これだ!」という納得解を見つける編集作業以外の何物でもない。

そういう頭の使い方を日頃から訓練しようとする方法として、複数冊の本を同時に読み進めるという方法はぜひお勧めしたいやり方だったりする。

「思考も感情も個々人の自由などではなく、社会・文化的な様式あってのこと」の続き
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2017年06月30日

わかっていることから逃げろ

みんな気づいているだろうか。
わかってしまっていることほど、わかることを妨げるものはない、ということに。



カオスを前にして、ただただ混乱してパニックになるだけか、それともカオスをなんとか制御する手立てを発見しようとカオスのディテール、全体の動向を共にみて思考を巡らせるか。基本的には知的に考えるということは、後者のような態度をいうはずだ。

その後者の態度をむずかしくさせるものこそ、すでにわかりきって整理された状態である。
それはもはや制御されすぎていて、どう制御すればよいかを問う余地がないのだから。

その意味ではカオス(混沌)の逆はコスモス(秩序)ではない。真にカオスの反対に位置するのは、操作された状態だろう。
外にあるプログラムを疑うことなく、それに操られて日々スムーズに動き続ける状態。何にも悩まないし、何にも躓くことはない。すべては苦もなく手に入る。

もちろん、そこまで完璧に夢のような生活を送れている人はいないだろう。
現実はもうすこしだけカオスに近い。
けれど、その現実をカオスと見るか、夢のような世界と自らに暗示をかけて、すべてをわかっているものと信じこみたいのか。わからないものは自分に近づかないよう、既知のイメージや記号でできた夢のような世界に閉じこもるのか。

僕がカオスが好きなのは、そんな夢のような世界が退屈すぎると思うからだ。
わからないものがあるから、新しくおかしなことを考える自由な余地がある。わかりきったことばかりで答えも決まってたら、息苦しくて、きっと気が狂うだろう。

幸運にも現実世界はそんな風にはできてなくて、よく見ればカオスだらけで、一見、スムーズに動いている日常の道具も言葉も仕組みもほころびだらけだから、いくらでも知的なハックは可能だ。
だから、飽きずにいろいろ考え続けられる。
わかっていることばかりの退屈な状態から逃げ続けることができる。

「わかっていることから逃げろ」の続き
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2017年06月25日

知力とは、わからないことをどれだけ考えられるかという度合い

前に、友人のフランス人女性が言っていた「日本語には美味しいを示す言葉のバリエーションが少ない」という言葉が記憶に残っている(正確には、その女性がそう言っていると彼女のパートナーの日本人男性が教えてくれた)。


Ca a l'air tres bon.


一方、フランス語には、美味しいを表すたくさんの表現があって、例えば、
  • C'est bon !
  • C'est délicieux !
  • C’est succulent !
  • C’est excellent !

のような表現がある(日本語にしようとしても、どれも「美味しい」になってしまいそう)。
もちろん、これに très をつけて、C'est très bon !(とても美味しいです)と言ってみたりもするから、確かに日本語にはない「美味しい」の言い分けのバリエーションができる。

「美味しい」という言い方にバリエーションなんてなくてもいいじゃないかと思うかもしれない。けれど、そうじゃない。
フランスで食事をしてると店の人がほぼ必ずといっていいくらい、食中、食後によらず「美味しいか?」「美味しかったか?」と訊いてくるから、こんな風に表現のバリエーションがあるのは役に立つ。

その意味では、日本人がフランス人に比べて味の違いがわからないという話ではなく、こんな風に食べた感想を言う場面が日常的に多くないというのも、表現数の違いには関係しているのだろうと思う。
区別する価値があるからこそ、区別をするのだ。

さて、ここで思うのは、「1.違いを感じとれる」ことと、「2.感じた違いを表現する」ことという2つの能力が物事を捉えるためには必要になっていそうだということである。

そもそも味の違いが感じとれなければ、違いが存在するということすら、わからないんだろうけど、問題なのは、なんとなく違うかもと感じかけたのにその違いにちゃんと向き合わず、スルーしてしまうことだ。
もちろん、ここで言ってるのは、味の違いがわかるようになろうという話ではなく、より一般的な意味で「わかるようになるには?」ということを考えているのだ。

さあ、ということで、「わからない」という状態をいかに「わかる」に変えるかということについて考えてみたい。

「知力とは、わからないことをどれだけ考えられるかという度合い」の続き
ラベル:未知 好奇心
posted by HIROKI tanahashi at 19:26| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月21日

メタモルフォーゼする僕ら

定形をデフォルトとみるか、はたまた変形のほうを常ととらえるか。
後者だとしたら、その変形は変形するものの自律的な要因ととらえるか、よりインタラクティブな他者との関係性によるものと考えるか。

そんな観点に立ってみた場合、いま読んでいるオウィディウスの『変身物語』はなかなか面白い。
起源8年に全15巻が完成したというのだから、2000年以上に書かれたものだが、僕ら自身を含む生物というものを考える際にこれが思いの外、興味深く感じられている。



エリザベス・シューエルは『オルフェウスの声』のなかで、この物語について「『変身譚』はそれ自体、巨大なポストロジックなのである」と述べている。

ポストロジックとは、前々回の「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という記事でも紹介したように、人間が自然を扱う際の「詩的で神話的な思考の発見、涵養、展開」をする思考のスタイルを指すシューエルの用語である。
つまり、生物がそれを満たす自然という対象をみる視点として、詩的で神話的な見方を導入するのだが、そこからみると、世界は変形がデフォルトで、かつ、その変形を促すものがとてもインタラクティブなものだということが自然に思えてくるのだ。

そう。僕らは常に何者(ら)かよって変形され続けている(ステキなことだ)。

「メタモルフォーゼする僕ら」の続き
ラベル:変形 生物
posted by HIROKI tanahashi at 00:06| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月08日

わかることよりも感じることを

文脈がわからなければ「わからない」。

『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』の著者・西林克彦さんはそう言っている。
言い方を変えれば、「わかる」とは、既知の文脈に、その直前までわかっていなかったことがピタッとあてはまることで起こる心の動きだということができる。



いや、わかっていなかったことじゃなくてもいい。
すでにわかってたことでも、それが今までの理解とは別の文脈にあてはまり、別の意味がそこから見えてきたときも人は「わかった」となるはずである。

西林さんもこんなことを書いている。
文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。
西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』

既知の事柄でも、それを理解していたのとは別の文脈からみてみると、まったく異なる別の意味が見えてくることもある。それは「わかる」ということの土台には既知の文脈があり、その文脈との結びつきが何かをわからせることにもなるし、逆に、それ以外の理解の仕方の可能性を閉ざすことにもなるというわけだ。
知ることは同時に、知らなくさせるでもあるということだ。

このことが基本的にわかっていない、と、1つ前で書いたような「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という状況にはまりやすくなる。
この言葉(ノヴァーリスの小説『サイスの弟子たち』のなかの言葉だ)のあとには「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」という文が続くのだが、まさに自分がすでに持っている文脈に囚われると、それ以外の「わかった!」に出会えなくなるという具合である。「だから、それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。

「わかることよりも感じることを」の続き
ラベル: ロジック 神話
posted by HIROKI tanahashi at 23:25| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月07日

不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない

「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」

そう。わかりにくいのは対象そのものに宿る問題ではない。むしろ、対象に向かう側の姿勢の問題である。
わかる力がないことが、何かがわからないという際の根本的な問題なのだ。



では、どう、問題なのか?

「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」

そう。わかっているものしかわからない。
つまり、わかるということ自体、最初から最後まで対象の問題ではなく、わかる側自身の問題なのだ。
対象についてわからない場合だけでなく、対象についてよくわかっている場合でも、わかるということはわかる側のものなのだ。

「だから」と、『サイスの弟子たち』という未完の小説のなかの一連のセリフの最後をノヴァーリスは締めにかかる。
「それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。
発見のなさとは自分自身の殻にとじこもり、知的冒険に赴こうとしない、不可解さを嫌う精神を示すものだということをノヴァーリスは述べているのだ。

「」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:31| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月30日

どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?

ぼんやり過ごしすぎてはいないだろうか。

自分がどんな状況にいて、その状況が自分にどう見え、感じられているかをちゃんと自覚しているだろうか。
自分の行動や感情がそれら状況にどう影響され、あるいは、逆に自分の存在、言動、感情が周囲の状況にどう影響を与えているのか。そういうことをどれだけ自分自身で認識しており、その制御が可能な状態になっているだろうか。


パリ・グランパレの前に置かれた馬のようであり、同時に木のようでもある、王女の姿をした謎の存在。
こうした存在こそ、これからの科学的な視点において大事なものではないかと感じている。


認識すること、そして、その認識を言葉をはじめ、なんらかの技術を用いて表現できるようにすること。
それが世界とうまくやっていくための基本である。

対人関係であろうと、仕事一般のことであろうと、自然を相手にした科学であろうと同様である。
対象の観察からそれを自分にどう見え、感じられているかを理解し、それを自分の言葉なり、その相当物に移し変えること。それが理解であり、その理解のバリエーションによって、対象となる世界をどの程度、自分の側で制御できたり、それになんらかの影響を与えられるかが変わってくる。

とうぜん、どのように見えているか、そして、自分の見え方にどの程度自覚的で、それを自分の言葉なりにすぐさま変換できるかという度合いや種類は人によって異なる。
冒頭書いたように「ぼんやり過ごしすぎている」状態だと、自分が見ているものは何かということを自分で言葉にして説明できないだろうし、その意味で、自分がなぜそこにいて、どんな影響をそこから受け、どんな影響(場合によっては仕打ち)を外に向けて与えてしまっているかということも無自覚ということになる。

ようするに、できる/できないの差は、この状況認識の差から生まれてくるものであるはずだ。
結局、同じ場にいる者同士でも、この状況認識の差がある限り、別の状況の世界に生きているといっても過言ではない。

「どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:08| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月27日

アーツアンドサイエンスをふたたび混ぜあわせる

前回、リサーチをテーマに書いていてみた

リサーチだとか研究だとかというと、何かとっつきにくい特別なことのように感じられるかもしれない。
だけど、何かを知りたい、理解したいと思い、そのことについて調べることや、調べてわかったことを元に自分で納得できるような解釈を見つけだすことは、人生において決して特別なことではないはずだ。
自分がわからないと思ったことに立ち向かい、わかるための様々な具体的な行動をすること。
そういうことが本来、リサーチという活動の根本的な動機としてあるのだろうと感じる。


ゴッホが「夜のカフェテラス」を描いたフランス・アルルの街。
この街には数多くのローマの遺跡が残る。アートと科学が分離していなかった古代ローマを感じる街のひとつ。


そんな風に自分の好奇心に従って、自分自身の頭やからだを動かしてみること。
人生において、そういう時間の割合をどのくらい、作ることができるかどうか。そんなことがこれからますます問われてくるんじゃないかという気がする。

リサーチの意味合いって今後、そんな風にいろんな人にとってより身近な存在へと変わってくる。
それはこれからのリベラルアーツの基本に据えられるのではないだろうか。

「アーツアンドサイエンスをふたたび混ぜあわせる」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:00| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月19日

流動的で複雑な系が前提となった時代にリサーチすることとは?

最近、「リサーチ」について考えている。
どちらかというと「研究」という意味でのリサーチ。でも、もうすこし曖昧に「知りたいことを知ろうとする活動」という意味でリサーチというものを捉えている。それは学術的な意味でのリサーチであっても、産業分野でのリサーチ、デザインリサーチでもいい。あるいは個人的な趣味の範囲でのリサーチも含めて、とにかく「知りたいことを知る」ための活動としてのリサーチがこれから、どう変化していくのか(あるいは、すでに変化しはじめているか)ということに興味がある。
まさに、「これからのリサーチ」についてのリサーチをしたいという思いである。



そんなことをあらためて考えはじめるようになったきっかけの1つは、"我々人類は変わりつつある。人類は自分の創り出したものとあまりに絡み合うようになったので、もはやそれを区別はできない”といった書き出しではじまる、MIT Media Labの“Journal of Design and Science”というメディアに掲載されたダニー・ヒリスの「啓蒙は死んだ、もつれに栄えあれ」という記事だ。

その記事で、ダニー・ヒリスは、自然と人工物の区別はもはや曖昧でしかなく、それらは複雑に絡み合っているのだという。自然物の性質をシミュレートするような人工物をヒリスは「もつれ人工物」と呼んで、次のように書く。
もつれ人工物は、人工的でもあり自然でもある。それは作られたものでもあり、生まれたものでもある。もつれの時代には、両者の差にほとんど意味はない。

人間自体と人工物、自然物と人工物、それらの区別が難しくなった今の状況をヒリスは「もつれの時代」と呼んでいる。
僕が興味があるのは、この「もつれの時代におけるリサーチはどう変化するのか」だ。
「流動的で複雑な系が前提となった時代にリサーチすることとは?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:25| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする