2017年04月27日

アーツアンドサイエンスをふたたび混ぜあわせる

前回、リサーチをテーマに書いていてみた

リサーチだとか研究だとかというと、何かとっつきにくい特別なことのように感じられるかもしれない。
だけど、何かを知りたい、理解したいと思い、そのことについて調べることや、調べてわかったことを元に自分で納得できるような解釈を見つけだすことは、人生において決して特別なことではないはずだ。
自分がわからないと思ったことに立ち向かい、わかるための様々な具体的な行動をすること。
そういうことが本来、リサーチという活動の根本的な動機としてあるのだろうと感じる。


ゴッホが「夜のカフェテラス」を描いたフランス・アルルの街。
この街には数多くのローマの遺跡が残る。アートと科学が分離していなかった古代ローマを感じる街のひとつ。


そんな風に自分の好奇心に従って、自分自身の頭やからだを動かしてみること。
人生において、そういう時間の割合をどのくらい、作ることができるかどうか。そんなことがこれからますます問われてくるんじゃないかという気がする。

リサーチの意味合いって今後、そんな風にいろんな人にとってより身近な存在へと変わってくる。
それはこれからのリベラルアーツの基本に据えられるのではないだろうか。

「アーツアンドサイエンスをふたたび混ぜあわせる」の続き
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2017年04月19日

流動的で複雑な系が前提となった時代にリサーチすることとは?

最近、「リサーチ」について考えている。
どちらかというと「研究」という意味でのリサーチ。でも、もうすこし曖昧に「知りたいことを知ろうとする活動」という意味でリサーチというものを捉えている。それは学術的な意味でのリサーチであっても、産業分野でのリサーチ、デザインリサーチでもいい。あるいは個人的な趣味の範囲でのリサーチも含めて、とにかく「知りたいことを知る」ための活動としてのリサーチがこれから、どう変化していくのか(あるいは、すでに変化しはじめているか)ということに興味がある。
まさに、「これからのリサーチ」についてのリサーチをしたいという思いである。



そんなことをあらためて考えはじめるようになったきっかけの1つは、"我々人類は変わりつつある。人類は自分の創り出したものとあまりに絡み合うようになったので、もはやそれを区別はできない”といった書き出しではじまる、MIT Media Labの“Journal of Design and Science”というメディアに掲載されたダニー・ヒリスの「啓蒙は死んだ、もつれに栄えあれ」という記事だ。

その記事で、ダニー・ヒリスは、自然と人工物の区別はもはや曖昧でしかなく、それらは複雑に絡み合っているのだという。自然物の性質をシミュレートするような人工物をヒリスは「もつれ人工物」と呼んで、次のように書く。
もつれ人工物は、人工的でもあり自然でもある。それは作られたものでもあり、生まれたものでもある。もつれの時代には、両者の差にほとんど意味はない。

人間自体と人工物、自然物と人工物、それらの区別が難しくなった今の状況をヒリスは「もつれの時代」と呼んでいる。
僕が興味があるのは、この「もつれの時代におけるリサーチはどう変化するのか」だ。
「流動的で複雑な系が前提となった時代にリサーチすることとは?」の続き
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2017年03月29日

笑いの創造力

笑い。その創造的な力。

前々回の記事で紹介したヤン・コットの『シェイクスピア・カーニヴァル』を読んで以来、中世からルネサンスへと続くカーニヴァル的な笑いの文化に興味をもっている。
笑うということのもつ創造的な力に惹かれたからだ。
笑いは、日常のありふれた枠組みを切り裂く力をもっている。



なので、すぐあとにポール・バロルスキーの『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』を読み、それが読み終わると、これらの研究のきっかけを作ったともいえるミハイル・バフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』を読みはじめた。

思った通り、中世・ルネサンス期の「笑い」には、いま学ぶべきことがある。
特に、既存の枠組みを超えて、新たなものを考えだすという観点では大いに。

今回は、そのあたりについて触れてみたい。
「」の続き
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2017年02月20日

既存の枠組みを冒涜して嗤え、危機感にあふれた時代に

どうやって本を選んでるですか?と聞かれることが、よくある。
その質問の意図は、ここでも紹介しているような、あまり人が読まないような本をどうやって見つけているか?ということだろう。

答えは単純。
ある本を読んでいると、その中にいろんな本が紹介、引用されているから、その中で興味をもったものを買っているだけ。僕自身からすれば、本同士が勝手につながっていく印象なので、選んでいるという感覚はあんまりない。

ただし、買ってもすぐに読むわけではなく、買って置いてある本の中から、次はこれを読もうと選んでいるのだから、やはり何かしらの基準で選んではいるのだろう。
ただ、そのときの基準は「なんとなく」でしかないので、これは答えようがない。

そんな本の連鎖がすごくうまくいく場合がある。最近もあった。

ここ数回続けて「理解する」ことに関する記事を書いた。この3つ。これが本との連鎖を生むきっかけとなった。

この3つの記事で書いてきたのは「理解する」ことと発見することの関係。そして、その発見という、未知のものが既知へと変化する際には、メタファ的な置き換え、あるいは変身ということが起こるといった話。
だいたいそのあたりが3つの記事を貫くテーマだったけど、今回運良く出会ったのもそのあたりに深く関連する本だ。それも2冊。ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』と伊藤博明『綺想の表象学―エンブレムへの招待』がそれ。



コットの『シェイクスピア・カーニヴァル』のほうは、底が頂へと一瞬にして変容するカーニヴァル的な意味転換を論じ、『綺想の表象学』ではルネサンス期におけるヒエログリフ解読、インプレーサとエンブレムの流行の背後にある自然界の表象から隠れた意味を読み解こうとする際の図像と解釈の関係づけが論じられる。
ようは、いずれも何事か理解する際には、特定の表象が無意から有意へ、ある意味から別の意味へと転義あるいは変容されるのだといった、ここ数回論じてきた話しが語られている。

だから、僕の興味を惹かないわけがないし、また違った角度から、新しい理解を発見するということと、機知(ウィット)やユーモア、あるいはグロテスクや不安といったものとの関係をあらたな面から考えるヒントにもなっている。
「既存の枠組みを冒涜して嗤え、危機感にあふれた時代に」の続き
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2017年02月15日

謎めいたものを理解しようと輪郭をつかもうとしても、不定形なそれはするりと逃げていく

未知を既知に変換すること。理解できないものを理解できるものへと移行させること。
その際には、発見あるいは変身あるいはメタファー的なジャンプが必要であると、前回の記事「発見、メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致」では書いた。

未知を既知へと変換すること、それは謎めく不定形な状態に、明らかなる形象を与える行為でもある。世界が謎めいているからこそ、僕らはそれを理解せんと務めるのだろう。
だから、謎に立ち向かうつもりのない人に、まだ見ぬ未来はその姿を開示しようとはしない。形のない闇のような謎のなかに手をつっこむことでしか、人は新しい世界を切り拓くことなど、できない。それはいまにはじまったことではない。

Bruegel,_Pieter_de_Oude_-_De_val_van_icarus_-_hi_res.jpg
ピーテル・ブリューゲルの模写「イカロスの墜落のある風景」(1560年代)
イカロスの墜落を描いたブリューゲルの作品は、オリジナルは失われ、模写のみが残る
ここで面白いのは、イカロスの墜落が牧歌的な農村の風景に埋没している点だ
これこそ後半で書くデュオニュソスとダイダロスの結合による悲喜劇的なものだろう


未来は予測するものではなく、作るものだという時、その制作の際の素材はこの闇のように形のないドロドロとした謎なのである。
その謎めく不定形さと、人意的に与えられる明らかなる形象の関係を、ギリシア神話の世界のデュオニュソスとダイダロスの関係として解いたのが『文学におけるマニエリスム』におけるグスタフ・ルネ・ホッケである(本の紹介記事はこちら)。

今回は、ホッケがマニエリスム的態度の根底におくデュオニュソスとダイダロスの関係について読み解きながら、どのような態度が「未知の既知への変換」には必要なのか?ということを考えてみたい。
「謎めいたものを理解しようと輪郭をつかもうとしても、不定形なそれはするりと逃げていく」の続き
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2017年02月11日

発見、メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致

新たな理解が生まれるのを育むのは、すでに理解していることの背景にある枠組みである。
そんなことを前回の「理解を妨げるもの」という記事では書いた。
そして、それは新しい価値を創出するという意味でのイノベーションが生まれるのを阻害する要因でもあると。


フランス・アルルにあるレアチュー美術館での展示。
新古典主義の画家ジャック・レアチューのコレクションを元にしたレアチュー美術館のこの展示は、
レアチュー自身が古典的な均整のとれた人体像を描くのに、古代の彫刻の断片などを収集したことを示すものだが、
この展示に続けて、現代的な医学で扱われる人体をモティーフにした現代アート作品が置かれた瞬間、
科学的な身体の扱いと芸術家による人の体への関心がまったくひとつながりにつながる衝撃を感じる。
この日常的にはつながっていないモノ同士をつなぐ発見が今回の記事の主題である


実際、新たな価値の創出をめざして活動する企業内の取り組みでも、その目的とは真反対のことが起こりがちだ。
イノベーション創出のお作法に則って、エスノグラフィーなどのデザインリサーチでいろいろ情報を集めたり、オープンに多様な人を集めてのアイデアソンなどで数多くのアイデアを集めても、その後の統合作業がまったく新たな価値の種を見つけだそうとする発見の姿勢とは真逆のことが行われる。

どういうことが起こりがちかといえば、とにかく集めた情報、アイデアをすべて後生大事に積み上げ式でそこから何かを生みだそうとしてしまうのだ。
KJ法とは名ばかりの、ただの情報整理で出てきたアイデアを既存の枠組みのなかに押し込めるようなカテゴライズをしてしまう。当たり前だが、その作業により、本来、個々の情報やアイデアがもっていたかもしれない、個性的で未知のものであるような価値の種はすべて既存の枠組みによる理解で削ぎ落とされ、その後はそのまったく新しさを書いたカテゴリーの見出し語により、せっかく集めた情報もアイデアも扱われることになるのだから、そこから新しい価値が生まれてくる可能性は完全に絶たれてしまう。
そうなれば、どれも本質的な魅力を失ってしまっているから、議論はつまらぬ些細なディテールについてのダメ出しばかりのものとなり、そこにクリエイティブな思考は働かなくなってしまう。

“〈発見〉は〈証明〉に先行する”。

そう、書くのは前に「考えるための道具の修辞学」という記事でも紹介した『形象の力』の著者エルネスト・グラッシである。
なのに、発見こそが求められるであろう、新しい価値の創造の活動において、正しいものをひとつひとつ丁寧に検証しつつ積み上げていけば新たなものを作り出せるといった一昔前の証明的な思考態度がいまなおはびこってしまっている。

そんな思いもあり、今回は自分でも最近「発見とはどうやって起こるのだろうか?」と気になっている〈発見〉をテーマにすこし書いてみようと思う。

「発見、メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致」の続き
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2017年02月08日

理解を妨げるもの

何かを新しく理解するというのはむずかしい。
目の前に理解すべき新しいものが提示されたり、新しい情報を耳にしたりすれば、新たな理解を獲得できるというものではない。見たことがないものはそれが何かを理解できないことが多いし、聞いたことのない話は理解がむずかしくて、理解していないものに関する情報はいくら提供されても理解につながるわけではない。

それは何も僕らのような人に限ったことではない。
歴史に名を残しているような科学者であっても、例外ではない。


パリの国立自然史博物館の「進化の大ギャラリー」
ルネサンス期にはじまる博物学の分野での蒐集文化は18世紀には現在のような博物館へと発展する


例えば、16世紀のイタリア・ボローニャで活躍したウリッセ・アルドロヴァンディという著名な博物学者もそうだ。
アルドロヴァンディについては「秘密の動物誌/ジョアン・フォンクベルタ&ペレ・フォルミゲーラ」という記事でも紹介したが、イタリア各地に植物を中心とした採集旅行を行い、4000を超える植物標本を残したり、それを16巻からなるカタログ化して残したり、医学・薬学の実験のための植物園などを開設したりといった博物学の歴史に大きな貢献を残したことで知られる。

そんな人でも、その功績により理解の深まりという結果を得られたかというと、そうではなかったりする。
アルドロヴァンディを主人公の一人として16世紀、17世紀のイタリア博物学の歴史を研究した『自然の占有』の著者であるポーラ・フィンドレンはこう書いている。
実際に博物学の形成に多大な貢献をしたにもかかわらず、アルドロヴァンディは結局のところ、新たなアリストテレス的カテゴリーの中に世界の全被造物を包摂することはできなかったし、プリニウスの『博物誌』を完成させようとして計画された事象-蒐集のプロセスを最後まで成し遂げることもできなかった。自然の事物の量はたしかに増大したが、理解の質はより深まったであろうか。
ポーラ・フィンドレン『自然の占有』

数多くの採集活動、それを元にした分類、行った数々の実験により、認識している情報の量は確かに増えた。けれど、それがアリストテレスやプリニウスなどの古代ギリシアやローマの博物学の系譜に新たな理解を付け加えることになったか?という観点からみると、疑問であることを指摘するのがフィンドレンである。

では、なぜ、アルドロヴァンディはそれほどまでに数多くの蒐集、実験を行いながらも、新たな理解の獲得に至らなかったのか?
そこに「なぜ理解はむずかしいのか?」を考えるヒントがあるように思う。

「理解を妨げるもの」の続き
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2017年01月28日

考えるための道具の修辞学

どのように考えるかは、どんなツールを使って考えるか?に大きく依存する。

たとえば、普段の仕事で、何らかの提案資料やプレゼンテーション資料をまとめる際も、いきなりパワーポイントやキーノートのようなプレゼンテーションツールを使ってその内容を考えるのか、そうではなく、最初はテキストエディターで伝える内容を文章で書きだす作業をしたあと、プレゼンテーションに落とし込んでいくかで、単に作業効率だけでなく、考えることの内容自体が実は大きく異なるということに気づいているだろうか。
見映えという面までいっしょに作りこむことになるプレゼンテーションツールだと見映えのフォーマットにどうしても思考は制限されるが、文章のみで考える場合、そのフォーマットの制約を受けずに思考が可能になる。

紙の上などで何かを考える場合でも似たようなことがある。文章のみで考えるか、図を描きながら考えるのか。KJ法で図解化と文章化の段階が分かれているのも、そもそも、図で考えられることと文章で考えられることに差があるからだ。
いうまでもなく文章もツール、図もツールである。
職人が道具を選び、時には自分自身で道具を作るように、僕らは思考の際にどんなツールを使うか?ということにもうすこし意識的であってよいのだろう。


パリの街のコンコルド広場にたつオベリスク。
古代エジプト期に多く建造された記念碑としてのオベリスクに記されたヒエログリフは、
ヨーロッパでは長く、神的な秘密を記述した文字として考えられていた


さて、そんな話のつながりでマクルーハンが最後の著書『メディアの法則』でこんな文章を紹介したい。
人工物はすべて人間が発したもの、外化したものであり、そうだとすれば、言語学的・修辞学的な存在である。
マーシャル・マクルーハン『メディアの法則』

言語、特に、話し言葉は人間にとってはきわめて原初的なツールだといえる。その言葉と同様にほかの人工物もまた言語的だというマクルーハンの指摘が、最初に書いた「どのように考えるかは、どんなツールを使って考えるか?に大きく依存する」という話につながってくるのは容易に想像してもらえるのではないか。

今回は、ずっと言葉にしようしようと思って、できていなかった、そのあたりの話をついに書いてみようと思う。

「考えるための道具の修辞学」の続き
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2014年12月01日

僕が難読本を読む理由

僕が勤めるロフトワークという会社では、毎月はじめの月曜日にクリエイティブMTGという名で、参加を表明した7−8名程度が1人5分ずつプレゼンをするイベントがあります。

今日もそれがあって、僕も「僕が難読本を読む理由」というテーマで、ちょっとしたプレゼンをさせてもらったのですが、せっかくなので、そこでしゃべったことをブログ記事にしてしまうか、と。



上は、うちの本棚の一部ですが、ここに並んでいるあたりが僕のお気に入りの本。
まあ、なかなか人が読まない本ばかり読んでます。

左から5冊はバーバラ・スタフォードという18世紀の啓蒙の時代においてイメージが科学や教育に果たした役割を扱うのが抜群に上手な女性研究者の著作。そして、もう1人、僕がすごく影響を受けているフランセス・イエイツがという16ー17世紀のヨーロッパでネオプラトニズムやヘルメス主義のような魔術的思想がいかにしてその後の科学的思考を生みだすに至ったか?みたいな本がその横4冊くらいまで並びます。そして、このブログでもおなじみのワイリー・サイファーやM.H.ニコルソン、マリオ・プラーツなどの本が並んでる。このあたりがここ数年のお気に入り。

「僕が難読本を読む理由」の続き
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2014年06月28日

思考の方法の2つのベクトル

20代前半に愛読していたのは、澁澤龍彦、高橋源一郎、金井美恵子、そして、ニーチェやドゥルーズ/ガタリでした。
後半になると、そこにスラヴォイ・ジジェク、中上健次、多和田葉子あたりが愛読書として加わりました。また、その当時、全体を通じて、夏目漱石が僕の文学的ヒーローでした。
最近、なんとなく、そんな20代の頃、読んでいた人たちの本をあらためて読み返したいなと思って、頭がぐるんぐるんしてます。



それはさておき、40代も半ばとなったいま、僕の愛読書の1つに加わっているのは、グスタフ・ルネ・ホッケの作品です。
いま読んでいる『文学におけるマニエリスム』にとても刺戟を受けていて、先日もこんな記述を見つけて夜な夜なひとり興奮したりしていました。

存在は、〈古典的〉な存在了解にとっては、一目瞭然たるもの、自然的なもののうちにあってはおのれを明るませる自然的ーならざるものが適用されれば秘匿される。マニエリスムにとってはこれがまさしく逆転する。マニエリスム的存在了解にとっては、存在はもっぱら−自然的なるもののうちにあっては秘匿されると考えられているので、直接的に眼に見えるのではないもの、反−自然的なるもののうちにあってこそみずからを明るませるのである。

本文が450ページくらいの本の300ページ目くらいに上の引用部があるのですが、ここに至るまでもホッケは、ヨーロッパの思考や表現の歴史の表舞台に立ち続けた古典主義=アッチカ風の修辞学や弁証法的なものと対比する形で、本書のテーマであるマニエリスム=アジア風の異−修辞学、異−弁証法的な思考や表現について語っています
ヨーロッパの表舞台を彩った古典主義的思考法とは別に、もう1つの地下水脈的だが、おなじくらい延々と受け継がれている思考法としてのマニエリスム的思考の存在に脚光を浴びせるのが、本書のホッケの立場なのですが、上記引用における"存在"をめぐる両者の対比はとてもこの2つの思考の違いの本質的なものを捉えているように思えて僕はちょっと興奮したわけです。

古典主義的な思考のベクトルにおける存在/秘匿と、マニエリスム的な思考のベクトルにおける存在/秘匿の真逆な関係
一方は目の前にあるものを明らかなものと捉えることで目に見えないものに向ける目を隠す。もう一方は逆に目に見えるもの自体には何もないと捉え、秘匿された存在そのものを見出そうとする。前者がミメーシス(模倣)を、後者がファンタジア(綺想)を思考・表現の手法として重視する理由があらためて了解できるような気がします。
そして、僕自身はこの1文を読んで、表題のような「思考の方法の2つのベクトル」という考えをはっきりと自分のなかに見出すことができたわけです。

「思考の方法の2つのベクトル」の続き
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2014年06月12日

マニエラ(技法)の核心 〜僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか」において〜

僕らは常々「技法」というものをすこし表面的に捉えすぎるきらいがあります。

技法やメソッド、やり方あるいは考え方、それに思考術、また結果というより方法としての芸術というものに、まともに向き合い、それとじっくり語り合うことをしないまま、盲目的にそれに従ったり、それが使える/使えないといったまるで無意味で的外れな議論や批評を行ったりしてしまいます。


▲アタナシウス・キルヒャー『大いなる知の術あるいは組み合わせ術』扉絵(『キルヒャーの世界図鑑』)より

「表面的に捉えすぎる」というのは、技法をちゃんと使えていないし、使おうとしていないという意味です。技法なのでそもそも何かを生み出すために用いる手段であるはずなのですが、よくある話で、手段が目的になってしまい、結果を出すためのものとして捉えられないことが多いし、そのために用いられないこともある。

「目的のために使える」ということをイメージしてもらいやすくするために、逆に「目的のために使えている」ほうの例でいえば、WebやUIの設計に関わる人ならごく当たり前にやっている技法であるワイヤーフレームを描くということなんかは、ちゃんと使えている人が多いほうの技法だと思います。

ワイヤーフレームを描くということが何のための技法であり、それをしないと何ができなくなってしまうかは、その手の仕事に携わる人なら誰でも多かれ少なかれ知っています。当たり前すぎてあらためて説明しようとするとうまく言葉にできない場合はあるかもしれないけれど、実際はちゃんとわかっているはずです。

わかっているからこそ、ワイヤーフレームを描かないなんてことはできない。
だって、それをしなければ、その先の詳細な視覚的設計も、機能的設計も進まないことがわかっているのですから。

技法をわかるというのは、本当はそういうことであるはずです。

「マニエラ(技法)の核心 〜僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか」において〜」の続き
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2014年04月12日

「考え方」について考えてみる

「考えるとはどういうことか?」それについて考えることが僕にはよくあります。
「考えるとはどういうことか?」と考えることで、何かを考えるための方法が明らかになることがあるからです。
だから、「考えるとはどういうことか?」を考えるのは、自分自身がうまく考えられていないなと感じるときや、他人がうまく考えられていないなというのを目の当たりにするときだったりします。


▲この記事では、この2冊が登場するよ

うまくいかないから、その理由を自省する。
それって何かを改善するためにはごくごく普通の行為だと思います。

それを踏まえると、考えることがうまくいかない要因の1つが「考えるとはどういうことか?」ということを考えようとしない姿勢にあるということもできるはず。自分自身の考えるという作業のやり方についての自省を常日頃から行っていなければ、考えることがうまくなりにくいのはある意味、当然だと僕には思えます。

僕自身が「考えることとはどういうことか?」を何度も違った方向から考え続けてきたことで、ずいぶんと自分自身の考える力の幅と量を拡張できたという経験があるから、余計にそう思ったりもします。

でも、僕が「考えるとはどういうことか?」をときどき考えるのは、そういう改善云々という理由よりも、そもそも、それを考えるのが好きだから、という理由のほうが大きいんですけどね。まさに前回の記事で書いたとおり、自分の好き=数寄にこだわることをちゃんと僕自身も実践してるわけです。

「「考え方」について考えてみる」の続き
タグ:思考 読書
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2014年04月03日

発想力を高めるための数寄index化

自分の好みを知ること。
自分がどんなもの、ことにワクワクと心を動かされるかを知っておくこと。
うん。それってとっても大事。


▲1つ1つに特徴がある、類似するものが並ぶ状況に、僕はワクワクします

自分自身の心が外界の刺激に対してどんな動きをするかということについて探求することは、このとてつもないスピードで情報が行き交い、イノベーションの進行で刻々と状況が変化し続ける世界において、意味のあることを成す上では何より大事なことだと最近ものすごく強く感じています。

自分がどんな物事にワクワクするか、自分の心がどんなとき/どんなことに反応するか。
そういうことを知ることが、どうして、いまの社会環境において大事になっているのか。
それは、自分の心と頭で捉える外部からの情報をいかに連動させるかが、いまの世の中において、新しい物事を発想し、実現するために活動するためのリソースの所有と利用可能性の鍵を握っていると考えているからです。

「発想力を高めるための数寄index化」の続き
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2013年03月03日

未知を知へと変換する「生きた知識」のための劇場

わからないことって日常的な思考のフレームの外にあります。


▲パトリック・モリエス『奇想の陳列部屋』より

たとえば、身近な同僚や後輩が突如会社をやめるといった場合、いつもいっしょに働いていてよくがんばってるなと感じていたりして、その人のことはそれなりにわかっていたつもりでも、急に辞めると聞くと「なんで?」と理由がわからなくって、急にそれまでわかっていたつもりのことまでわからなくなる、そんなことってあったりします。

また、顧客のことならわかっているとかいう場合でも同じで、わかっていたつもりの顧客たちが突如自社製品から離れ、他社の製品へと移っていくと、突如としてわからない対象に変化するということもあったりします。

いずれも場合もわかることの範囲の外に出ると、途端にまったくわからなさが広がっている。
わからなさの世界はとても不安に感じられ、それまでの価値観からするとまるで筋が通っていないようにも見えたりもします。

つまり、物事をわからなくさせているのって、日常をわかりやすくするための思考のフレームであって、その枠組みに当てはまらないものが不気味でわからないように感じられるように見せてしまう。
目の前にある、わかろうとする対象は同じでも、理解につながる思考のフレームワークの背景となる環境が変化するとわかる/わからないは一瞬にして切り替わるということがあるのです。
わかるためにはわかるためのフレームワークを見つける必要がある。

だから、わからないことを知ろうとすれば、日常に不意に忍び込んでくる不気味なもの、不穏なものに積極的に飛び込んでつまづいてみることから、まだ手中におさめていないフレームワークを探ってみることが必要になります。

「未知を知へと変換する「生きた知識」のための劇場」の続き
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2013年02月25日

実験の時代

「実験の時代」です。
唐突に何なの?と思われるかもしれませんが、これまでにない新しいものを早急に確立していくことが社会課題の解決という面でも、ビジネス的な面においてもつよく求められる現在において、無数に考えられるアイデアのなかでどれが現実的に有効かを探り当てるためには実験的な姿勢が欠かせなくなってきているように思うんです。


▲ベンジャミン・マーティン「卓上用の新しい電気装置」(バーバラ・M・スタフォード『アートフル・サイエンス』より)

たとえば、ビジネスの領域においては、リーン・スタートアップが、マネジメントを従来のリスク回避指向のものから、できるだけ早く有効な解に到達するために小さなリスクは積極的にとって実験を繰り返す方向へとシフトさせようとしています。

リーン・スタートアップでは、スタートアップが行うことを「戦略を検証する実験」としてとらえなおす。戦略のどの部分が優れていてどの部分が狂っているのかを検証する実験だ。

自分たちの頭のなかの仮説を検証するために、現実空間である市場において自分たちのビジネスに関する重要な実験を行うことで、仮説の「どの部分が優れていてどの部分が狂っているのか」を明らかにすることを繰り返す。そうすることでスタートアップに課せられたミッションである「できるかぎり早く、作るべきモノー顧客が欲しがり、お金を払ってくれるモノ−を突きとめる」活動をマネジメントしようというのがリーン・スタートアップの基本スタンスです。

それゆえ、リーン・スタートアップにおいては「製品の実態は実験」であると捉えられ、「その実験から得られる成果はどうすれば持続可能な事業が構築できるのかという学びである」というように、従来なら嫌っていたはずの「不確実性」をビジネスの条件にしっかりと盛り込んでマネジメントを行います。

不確実性がきわめて高い市場環境においては、リーン(無駄なく)にスピーディーに結果を残そうとすれば、計画と開発に長い時間をかけた上で一発勝負のように商品を市場に投入する従来のような方法ではあまりにリスクが高すぎ(完全に博打ですよね)、実験の速度をはやめて仮説検証を繰り返しながら解を探っていくスタンスが注目されるのも当然な気がします。「実験の時代」の続き
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2013年02月14日

近代視覚表現技術とともにあった「想像力」の危機

視覚表現技術をどう進化させるか?という課題が、ひとの想像力をこの時代にあったものに拡張するうえで、重要なポイントの1つだろうという思いを最近より強く感じています。



そんなことをあらためて考えるようになったのは、前回の「反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する」という記事でも紹介した高山宏さんの『魔の王が見る―バロック的想像力』という本のなかでこんな記述を目にしたからでもあります。
前回の記事中でも取り上げた17世紀初めのヴンダーカンマー(驚異博物館)の流行の時代を、高山さんは「想像力」の時代でもあると読み解きながら次のように書いているんです。

事物の集積に未曾有の関心をもった17世紀初めのそうした「エキセントリック・スペース」の流行を背景にしてみてはじめて、人間は自らの身体と精神と頭脳の構造に目を向けることができたのではないかとさえ思われる。自らの内部に生じつつある事態を客観視できないわれわれ人間は、それが外部に投影されスクリーン上に映しだされる文字通りの「像(イメージ)」を見ながら、おそらくは自らの内なる世界を眺めているような気分になったのではなかろうか。

これはなかなか興味深い指摘です。
大胆にいえば、高山さんが言っているのは、外の像が先で、内面の像が後だということです。外に像を投影する表現技術が向上したことで、人間は自分たちの内面の想像力云々について考え、語ることができるようになったというわけです。

スクリーンに投影された像をみながら、そのイメージを自身の内面のイマジネーションと等号でつなぐ。
まさに外に表現された像が内なる像とおなじだと想えるようになったことで、人が想像する=イマジネーションを行うことが可能となり、それが一般の人のあいだにも浸透しはじめた時代が、17世紀初めの「エキセントリック・スペース」の流行の時代のもつ意味だというのです。

「近代視覚表現技術とともにあった「想像力」の危機」の続き
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2013年02月02日

反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する

数ヶ月前から気になっていたことの1つは、自分でブログを書く際、どうも昔に比べて何を結論として言いたいのかを意識して書くことが苦手になってるという感じがしていることです。



何も言いたいことがなければそもそも書くこともないわけで、そこはとうぜん書きたいことがあるから書いているのですけど、でも、いまの僕にとって、その「書きたいこと」というのは間違いなく「結論」じゃないというところがちょっと問題なような気がしていたんです。

僕にとってはむしろ、ダラダラと書き連ねているその過程で書いているそれぞれが「言いたいこと」であって、何か1つの結論をいうためにそれらを書き連ねているわけではないんです。
だから、どうしてもいわゆる起承転結のような文章の構成で書かなくてはいけない動機がないし、そんな風に構造化してしまうことで「すべてが結論のために」みたいになってしまって途中の文章が豊かな意味を失うのは嫌だったりします。

そんなわけなので「結局のところ、何を言いたいの?」とか「何について書いているの?」とか言われてしまうと困ってしまうような書き方でそもそも書こうとしていたりするのですが、そうすると、それは何か結論や答えに至るようなものを期待する読者にとっては非常に読みづらい文章が生成されるという結果になるから、決して読者にやさしい文章にはなりにくいなーということが気にはなっていたのです。

というわけでモヤモヤしていたのですが、ひさしぶりに読んだ高山宏さんの本に、こんなことが書かれていてかなり気持ちがすっきりしたんです。

書物が起承転結や序破急を経てある目的/終わり(エンド)に収斂しなければならないとする書物観、知識観を、博物誌は原理的に嗤(わら)う反知の形式なのにちがいない。何をどういう順序で扱おうと少しもかまわない。どこかへ行きつく必要から解放されたとき、人間の想像力がいかに奔放、猥雑に働くものか。博物学的知はそれを見せ、それを愉しむ。

これは澁澤龍彦の「博物誌的」な文章を高山さんが評したものですが、そうそう、僕が好む「知」ってこういう「博物誌的な知」なのだということをあらためて自覚しました。
澁澤龍彦さんの本は、もう20年も前くらいによく好んで読んでいましたが、その頃から僕はそういう博物誌的な知のあり方を好む傾向があったんだろうと思います。

「反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:04| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月22日

コンテンツ単位でライティングを考えるのって、顧客の体験価値全体を視野に入れずに製品つくるのと同じじゃない?

最初に、結論からいうと「コンテンツ単位でライティングを考えるのって、顧客の体験価値全体を視野に入れずに製品つくるのと同じじゃない?」なんてことを思いました。

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そんな風に考えたのは、昨日、ロフトワークさんの主催の「ソーシャル時代のWebライティング」というイベントに出席させていただいたからです。

いやいや、そこでお話しされていた内容を否定することを考えたわけではないんです。

Web Professional編集長の中野克平さんとインフォバーンの成田幸久さんのお話はやっぱりプロの人は、ちゃんとオチとか構造とか読まれるための見出しとか、どうしたら読んでもらえるかということを考えて文章を作っているんだなと当たり前のことに感心しました。
翻って、自分が文章を書く際のことを思うと、お2人がお話しされていたことをほとんど意識していないことにも気づかされたんです。うーん、だから、読まれるものと読まれないもののバラツキがすごくあったり、基本的には読むのに覚悟がいる「読みやすさには配慮されていない文章」になるんだろうなと思ったりもしました。

でもね、でもです。
コンテンツとして書かれた内容がおもしろければ、それでいいんでしょうか?と僕なんか考えてしまうわけです。読んでおもしろかった、けど、何? わたしはそれでどうしたらいいの?って読んだ人が思ったりするのは考慮しないの?とかも思うわけです。これは「どうしたらライティングできるか?」という昨日のテーマとはすこし捩じれた位置にある話なんですが、僕なんかはそこが気になって仕方ない。

ということで、冒頭の結論に通じる僕の考えを下手な文章でまとめてみようと思うわけです。

「コンテンツ単位でライティングを考えるのって、顧客の体験価値全体を視野に入れずに製品つくるのと同じじゃない?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:11| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月14日

創造性を資源として価値を生むことを重視する社会にしていくには…

創造性を資源として価値を生むことを重視する社会にしていくにはどうすればよいのでしょうか?
物質的な資源を加工して価値を高めるこれまでの社会における知恵の使い方ではなく、知恵そのものを資源に価値あるものを創造することで経済面でも文化面でも豊かな社会をつくっていくためには自分はこれからどんな活動をしていけばよいだろうか?
最近はそんなことを考えています(そんなことを考えるのは、ここでそんな話をしたいと思っているからですが)。



そして、そんな社会にするために何より必要なことは、知識や情報というものをモノと同じように私有しようとすることをできる限りやめて、知識や情報は社会の共有資産としてオープンにシェアし、人びとが知恵を使って創造性を発揮する活動をどんどんしていけるようなそんな環境をつくることが大事だと思います。
そして、そんな活動自体もオープンにし、いろんな人々が知恵を出して、次々に新しい価値を創造していけるよう、そんなオープンイノベーションやコ・クリエーションを重視した環境がつくっていきたい。
そんな風に考えるのです。

「創造性を資源として価値を生むことを重視する社会にしていくには…」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:51| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする