2011年04月04日

コラボ的サービスの4つのデザイン要素

今日、会社のほうのブログ「市場のお手入れ」でも紹介させていただきました(「Facebook活用事例:4.仮り住まいの輪」)が、今回の被災者を支援するために立ち上げられた、無償で部屋を貸せる人と借りたい人のマッチングする「仮り住まいの輪」というサービスを知りました。

karizumai.png
仮り住まいの輪

「仮り住まいの輪」は、全国で400万戸を超える民間の賃貸住宅の空いている部屋を不足している被災者用住宅として利用するため、大阪でリノベーションを手がけるアートアンドクラフトの中谷ノボルさんの『阪神大震災復興支援の経験と反省を活かし、不動産・建設業界人である私たちが今、専門家としてできることに力をあわせて取り組もう!』という呼びかけに賛同し集まった有志の方々による「仮り住まいの輪 実行委員会」によって立ち上げられたといいます。

「仮り住まいの輪」とは、震災を乗り越え次の一歩を踏み出したいと願う方と、それを支援したいと思う方の思いの輪がつながる、住まい探し/住まい提供のプラットフォームです。

また「仮り住まいの輪」では、住宅以外の各種支援体制との連携を進めることで、物理的な空間の提供だけでなく、『人』と『人』をつなぐ、気持ちの輪をつなぐ、被災者と支援者のコミュニティとなることを目指しています。

住まいを探している人と使っていない住まいを提供してもいいという人をつなぐモデルは、まさに最近、僕が興味をもって調べているシェアのモデルであり、震災者支援という目的をもった「仮り住まいの輪」とはまったく条件は異なりますが、旅行者と空いている部屋を貸し出したい人をマッチングさせるエアビーアンドビードットコムと、余剰な資産である部屋をそれを必要とする人に使ってもらおうという根本となる考えは同じです。
そして、そのマッチングがインターネットというネットワークにより実現可能になっているということも両方の空き部屋貸出サービスは同じですし、その他あらゆるコラボ消費のサービスとも類似する点です。

今回はそのあたりをすこし考えてみたいと思っています。

「コラボ的サービスの4つのデザイン要素」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:19| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月18日

シェアのインターフェイスデザイン

先日、ある説明会に出ていて感じました。

質問力って大事だな、と。
そして、その質問力が意外と身に付いていない人が少なくないことに思い当たりました。

普段はどちらかというと話す立場になることが多かったりします。セミナーの講師であれ、コンサルティング業務でのプレゼんであれ。そういう場において、質疑応答で質問がないのは致し方ないことかなと思ってたんですが、違いますね。
ひさしぶりに逆の立場になって気がついたんですが、他人の話に質問できるかどうかってクリエイティブ性が問われているんです。

質問をクリエイトする

相手の話を理解しようとして、そのまま相手の文脈で聞いてると、実は疑問って湧いてこないものです。

何故かというと、うまい話者ほど相手に自分の話の筋道が理解でき、かつ意味内容がわかるように組み立てるわけなので、そこで疑問が生じる余地はほとんどないんです。つまり、相手の話を相手の文脈で聞いているというのは、要領よく相手に説得されている状態といっていいわけで、それでは自然と疑問が湧いてくるはずはありません。

多くの人が質疑応答で沈黙してしまうのはそういうケースが少なくあないと思います。
むろん、それは話者が話の組み立てがヘタクソな場合でも事情はそう変わらず、結局、相手の話の文脈のなかで聞いていて、結果、その中身がよくわからなくても質問は出てきません。
なぜかといえば、理由はおなじ。結局、いずれの場合も相手の文脈で話を聞いているだけで、自分の文脈に相手の話を落とし込むという操作をしていないからです。

なので、どうすれば質問できるかというと、相手のことばの文脈とは異なる文脈を自分のなかで創造することが必要なんです。異なる文脈からみることではじめて、話者の情報の構造から抜け落ちた面などが見えてきて、質問をクリエイトすることが可能なんです。

「シェアのインターフェイスデザイン」の続き
ラベル:シェア
posted by HIROKI tanahashi at 21:05| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月12日

いろんな職場の上司、リーダーへ

先ほど買い物に行ったとき、道路の脇に「ワレモノ」と書いた背の高いカンバン付きの柱のようなものを、何本もコンクリートで固めて建てる工事をしているのを見かけました。

それは今日やるべき仕事なのでしょうか?

さっきFacebook上でも、ビルが停電したから作業ができないとの古巣の会社からの情報発信を見かけました。

それも本当に今日やらなくてはいけない仕事なのでしょうか?

各地で決して小さくない余震がつづき、公共交通の運行状況も乱れたまま、東京電力が節電を呼びかけている状況で、今日明日やるべき仕事とは何なのか?
各企業が年度末の書き入れ時であるのは理解しても、この状況下で何が本当にいまやるべき仕事なのかを、上司やリーダーがしっかり自分の部下に伝えて、それ以外の仕事はストップするべきではないでしょうか。
それがいま上司やリーダーに求められる仕事ではないでしょうか。
posted by HIROKI tanahashi at 18:07| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月26日

デザイン思考という思考の方法

最近、「デザイン思考」というものを、「デザイン」ということより「思考」ということの方に着目して、果たして、それはどんな特徴をもつ思考なのか?という風に考え直していたりします。
ついつい「デザイン」の方に目は向きがちなんですが、「デザイン思考」って何より「思考」だと思うんです。「デザイン思考」と名指されるからには、なにかしらの傾向をもった思考なんだと思って、その傾向は何かをあらためて抽出したいなと思っています。

ところで、前々回あたりに書いた「記憶とサイン(あるいは、デザインされた内面のなかで生きるということ)」というエントリーで、マクルーハンのいう印刷がもたらした「記憶力の低下」という題材を扱ったのですが、どうも読んでくださった方の中には、明らかな読み間違いをしている方がいるようでした。
脳科学的に記憶力が下がったって言えるの?とか、中には本当に「頭が悪くなったのか?」という飛躍した読みをした方もいるようでした。

当然ながら、記憶力が低下することがそのまま頭が悪くなることにはつながらないでしょう。それが成り立つためには、頭がいいということを記憶力の良し悪しだけで判断していることになります。
「脳科学的には〜」という話もずれていて、印刷によって「記憶力の低下」が起きたと書いているのですから、よく考えればそれは脳の絶対的な力の変化ではなく、単に、記憶に関連する手段が変化し、かつ、基本的には記憶する必要がないという意味で特別な手段を用いなくて済むようになったという変化です。
印刷以前は記録メディアがなかったために、記憶する必要がそれ以降よりあり、そのために記憶術と呼ばれる記憶の方法を用いて記憶力を強化していたのが、記録メディアの登場で記憶の必要が減り、それゆえ記憶術という方法を使わなくて済むようになり、しだいにその方法自体が忘れられたということであって、どこにも脳科学が関るような脳自体の変化は起こっていないのです。

近頃の脳科学の流行をみていると、なんでもかんでも脳の絶対的な力で、人の能力を推し量ろうというような単純すぎる見方があるように思います。少なからぬ人が勘違いしているのかなとも感じるのですが、たとえば、考えてもいい答えがでなかったりアイデアがでなかったりというのも、別に頭が良いとか悪いとかを理由に説明するような事柄では本来ないでしょう、と思うのです。

それは記憶術という記憶の方法を使わなくなったから「記憶力の低下」が起こったのと同じように、単に、答えを導き出したりアイデアを生み出したりするのに便利な発想術と呼べるような方法を使わないから起こっているという部分の方が実は大きくて、仮に「頭の良さ」みたいな量的基準があるのだとしてもそれが発想力に関わる比率はそんなに大したものではないはずです。

もちろん、僕が『デザイン思考の仕事術』に「ひらめきを計画的に生み出す」というサブタイトルをつけたのも、「デザイン思考」という思考の方法が、そうした発想力を強化する方法の1つだと考えたからです。

そんなことが今日のエントリーのテーマです。
では、続けます。

「デザイン思考という思考の方法」の続き
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2010年11月09日

ソフトウェア化するプロダクト

最近、会社のほうのブログコラムでは書いていることですが、いまの傾向として、これまで物理的なハードウェアとして提供されてきたものが、ディスプレイのなかのソフトウェアに変換されることが増えてくると考えられます。

カメラや音楽プレイヤー、テレビなどはすでにそうなっています。カーナビもハードウェアの形態から、ソフトウェアに移行しつつあります。そうした機器類以外にも、電子書籍や電子カタログなどもそう。無印良品のノートなどもそうですね。

「ソフトウェア化するプロダクト」の続き
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2010年10月22日

ヒューマンエラーの対策を間違えないために

仕事の中で、システムやルールなどの人工物が原因で起こってしまっているヒューマンエラーというのは山ほどあります。もちろん、そのエラーをなくす改善策がシステムやルールを新たに追加することでないのは目に見えています。これは人間中心デザインの基礎とも言えることです。
今日はそのあたりをすこし。

「ヒューマンエラーの対策を間違えないために」の続き
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2010年08月29日

シックスシグマとインターフェイス

最近、あらためてシックスシグマのフレームワークには、しくみ=システムを設計する上で役に立つことがたくさんあると考えるようになりました。インターフェイスを組み立てたり、インタラクションを最適化するという点では基本になる考えが満載だと感じます。

特に、デザイン思考を経営戦略として取り入れるということがいわれますが、こと日本という九人の現状においては、「デザイン思考」云々の前に「設計思考」とでもいうべき、人としくみ=システムのインターフェイスを実際に動き、利用可能にする技術を身につける必要があると思うからです。
デザイン思考というのは、主にユーザー体験を中心に、人と利用対象となる商品なりサービスなりの関係をインターフェイスの視点で定義しつくりあげるアプローチです。ですが、それが有効なのは、そのインターフェイスを実際に動くものにするシステム=しくみの設計力があってこそです。まさに足りないのはそこです。

その意味に置いて、設計力という計りごとを現実に設定する力が、画(絵、ヴィジョン)を企てる企画力以上に大事だろうと感じます。
そこではインターフェイスの絵を描くことではなく、実際に動くインターフェイスを実現する力が問われます。単に、ユーザー中心で企画するということではなく、インタラクション重視のインターフェイス設計を実現する力が必要で、その観点において、シックスシグマのフレームワークには利用可能なツールがたくさんあると思うのです。

「シックスシグマとインターフェイス」の続き
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2010年08月03日

デザイン思考ワークショップ開催。参加者募集。

仕事関係の告知です。

僕の所属するコプロシステム・商品計画研究所では、8月20日(金)に、デザイン思考のワークショップを開催します。

2010年8月20日(金)10:00〜18:30の開催で、参加費用はひとり30,000円です。

ペルソナやシナリオ、プロトタイピングなどの手法を使ったデザイン思考の仕事の仕方を学んでいいただきます。

今回は主に、

  • ウェブデザイナー/開発者
  • 各種ユーザーインターフェイスのデザイナー/開発者
  • ネットサービスの企画者

を対象としたものとなっていますが、もちろん、それ以外の方も歓迎です。

詳しくは、以下をご確認の上、よろしければ参加ください。

http://www.coprosystem.co.jp/news/release_100729.html

よろしくお願いいたします。

ラベル:デザイン思考
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2010年06月07日

選択する眼、リリースする眼

めずらしくニュース記事の引用から、エントリーを書きはじめてみる。
スタンフォード大学が2009年8月に公表した、タスク処理に関する研究結果の話から。

この研究は、スタンフォード大学が2009年8月に公表した調査結果の説明になるかもしれない。同大学の研究者たちは、日常的に複数のタスクの処理に追われるている人々は、認識能力に悪影響を受けることを発見した。「Cognitive Control in Media Multitaskers」(メディアマルチタスカーの認知制御)と題された調査報告書によると、タスク切り替え能力のテストでは、メディア上で多数のタスクを処理している人々(ヘビーメディアマルチタスカー)の能力は、少数のタスクを処理しているユーザーのグループよりも劣るという結果となった。

普段、マルチタスク的な状況に置かれている人ほど、タスク切替能力が低い。
この結果は、僕の感覚としてしっくり来る結果だ。

タスク切替能力を、認識的な集中を維持する力と、それをオフする力として捉えてみるとよい。

人が生きていくなかで基本的に常にすでに周りの環境は動いているのだから、人間がマルチタスク的に並行してそれらを相手にするのは自然である。
その逆に不自然で、訓練による獲得が必要になるのは、周囲が変化するなかでシングルタスク的に集中を維持するほうだろう。しかも、それを何かのきっかけで自発的にオフする選択が可能なように保持しておくというのは訓練の賜物であるはずである。

機械的なマルチタスク処理に慣れている状況というのは、このタスク切替を自動化・外部化すると同時に、心理的なタスク切替を外部の変化と無関係の状態に置くことであるのではないかと考える。日々大量の情報に晒されていながら、そのひとつひとつに関心を示しきれずにその大部分をスルーして生きることに慣れた僕らは、外部の変化に対して自らの選択/選択のオフをするタスク切替能力を日々退化させているのであろう。

「選択する眼、リリースする眼」の続き
ラベル:民藝 目利き
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2010年05月21日

作法は急に作れない

今日、こんなTweetを見かけた。

半そでワイシャツって、すさまじくその人をオヤジに貶める気がする

確かに。

でも、「確かに」と思う一方で、それは日本人に限る、ではないだろうかとも思う。いや、アジア圏は全般的にそうなのかもしれない。

一方、欧米人には半袖シャツを格好よく着こなしている人が少なくない。アメリカ人なんかは実に格好よく半袖シャツを着る。ワイシャツ、カジュアルシャツ問わずだし、スウェットすら半袖だ。

これを体格の問題というのはやさしい。
でも、それだけではないはずだ。それとは別に着方の問題があると思う。サイジングや洗い方、アイロンをかけるか否かなどの全般で、どう着れば格好よくなるかがまだ日本人は半袖シャツの着方をわかっていないということもあるのだと思う。

サラリーマンが半袖ワイシャツを着始めて、もう随分たつと思うが、いまだにその着こなしが身についていないのだろう。

とはいえ、今日の主題はそうした異なる文化圏のあいだのファッションチェックではない。


「作法は急に作れない」の続き
ラベル:作法
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2010年05月15日

家事の単位を考えながら

柏木博さんは『玩物草子』で「家事は楽しいのです。そして生活にかかわるさまざまな道具や装置が好きですし、それを使うこともその手入れも面白いのです」と書いている。さっき普段より多い量の唐揚げを揚げてみて、もしかしたら少量化が家事をつまらなくさせている一要因ではないかと感じた。

「家事の単位を考えながら」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月13日

効率化/蓄積/人間中心のデザイン

いまの社会は何か具体的に実現したい未来像というものをもっているのだろうか。

もし具体的なヴィジョンがないというのなら、日々新しい製品を企画し生み出しているのは何のためだろう。
無名の職人の仕事に光をあて、「用の美」をいったのは柳宗悦さんだったが、いま作られる製品の「用」とは何だろう。むろん、機能をもつのだから、用途はあるだろう。だが、その用途は本当に必要な用なのだろうかはあやしい。

「効率化/蓄積/人間中心のデザイン」の続き
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2010年05月01日

新しい人間中心デザインのためのメモ

掲題の件。

  1. 現在のHCDはモノを作ることを前提としすぎている。モノは必ずしも作られる必要はないし、作る場合でもハード面(ソフトウェア含む)だけでなく、ノウハウや伝統の以上などのソフト面の提供も同時になされなければならない。
  2. 機能を作るのでも、経験を作るのでもない。文化を作らなくてはならない。それゆえ計画•デザインが対象とするスパン、スケールは大きすぎても小さすぎてもいけない。
  3. パーソナルや核家族向けでも、マス向けでもない中間的な単位が必要。シェアや作法の伝達も視野にいれた適切なネットワークの形成が可能になる/妨げない設計が求められる。
  4. 効率や効果を短すぎるスパンで評価しない。動線設計が効率的に設計されていても今のキッチンは作業スペースがたりなさ過ぎるし、そもそも保存加工食品の大量生産もできなくなってしまった。効率や効果の前に人としてどうあるべきか、文化はどうあるべきかを考える必要がある。そうしたヴィジョンを想像することをしないのであればデザインなどする必要はない。
  5. 作ってあげるのではなく、基本的にはユーザー自身が作れるようにすることを目指す。大量生産からの脱却でもあるし、それに依存していたデザイナーという在り方の変革である。個々人から奪った生産の楽しみを個々人に返却する必要がある。同時にデザイナーも方法論からの脱却が求められる。

これを体系的に語れるように準備。
新しい日本発の人間中心デザインとして。

「新しい人間中心デザインのためのメモ」の続き
ラベル:デザイン
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2010年04月23日

姿勢と動作と気分、そして、モノの形

ライフスタイル研究会ではじめた、食やキッチンに関するプロジェクトのことを考えていると、あらためてユーザーインターフェイスにまつわる身体性の重要さについて考えさせられる。

先日のキックオフでも、身体が覚えている記憶が触覚によって意識の上にも呼び覚まされるということが話題になった。

例えば、硯とおなじ素材を使った皿は見ているだけだと単なる黒い皿だったのだが、もってみると誰もが「あっ、硯だ」と感じたり、それと同時に墨汁のにおいを思い出したり。触覚的な記憶が触っただけで同素材の皿から硯の記憶を呼び覚まし、さらに墨汁のにおいを連想させるのだ。
この素材じゃコーヒーカップは作れないね、だって墨汁を飲んでる気分になりそうだからという話にみんなが納得。

あるいはまた、僕が金属のスプーンを口にいれるのが苦手だというと、なぜそうなのか?という話になり、「スプーンでいじめられたことがあるんですか?」などと言われつつ、結局、僕自身も気づいていなかった、子供の頃、病院で診察を受けた際の口に金属のへらのようなものを入れて、あーんと開けさせられたイヤな記憶が原因ではないかということになった。これは確かに僕自身も納得。スプーンを口に入れる際の不快さは、あの体験と同じなのだ。



こうした食器やスプーンは、食事をとるためのユーザーインターフェイスである。
その食事のためのインターフェイスが、この2つの例のように場合によっては食事をおいしく食べるための障害にもなりえるのだ。

そんなことを考えていて気づいたのが、ユーザーインターフェイスを用いる際の身体がとる姿勢や動作、さらにはそのような姿勢や動作をする際の気分が、インターフェイスのデザインと大きな関わりを持っているということだ。
すでに一般的な意味でのUIに関する考察は、今日、会社のほうのブログで「身体姿勢とユーザーインターフェイス」というエントリーも書いたが、ここでは食におけるUIと姿勢/動作/気分の関係について考えてみたい。「姿勢と動作と気分、そして、モノの形」の続き
ラベル:食器 UI
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2010年04月17日

僕らは自分たちが何処に向かおうとしているのかを知らない

知らないくせに知っているふりをしているのか。
それとも、知らないということにさえ気づいていないのか。
とにかく、僕らはいろんなことを知らなさすぎるし、知ろうとしなさすぎる傾向がある。

たとえば、「常識という無知」でも、すでに引用したように、ランスロット・L・ホワイトは『形・生命・創造―科学と宗教を超える「体験の宇宙」』で、こう言っている。

諸科学がもっている最も発達しかつ基礎的なものが、その行いつつあることの何たるかを知ってはいないのだ! 「測定すること」もむろんその例にもれないが、最新の諸理論の述語では、測定ということは一体正確には何を意味しているのか? 物理学者たちは知らないのだ!

「測定する」とはどういうことかも知ることなしに、測定をし、測定した結果を信じ、測定結果を利用している。

同様に、僕らは、自分が日々成していることが何なのかを知らずに、何かそれが未来のためだと思って、行動している。知ることを先延ばしにすることで、僕らは未来のために現在を賭けている。
バタイユが問題としているのは、そのことだ。未来のために現在の瞬間を犠牲にするのは人間の悪癖である。

たとえば誰かが料理を、ロースとかグリルを用意しているとして、肉が調理されているときとテーブルの上でそれが食べられているときとの間には切断があります。食べることと調理することの間には不均衡があるのです。(中略)この切断が人間と動物を区別しているのです。動物はすぐに媒介なしに食べ、その食べ方は貪欲です。つまり動物は延期しない、原則として何ものも後に延ばすということはありません。
ジョルジュ・バタイユ『非‐知―閉じざる思考』

動物は媒介をせずに世界を食す。一方、人間は調理というインターフェイスを介してしか世界に関わることができない。いや、調理に限らず、インターフェイスという媒介を用いて、瞬間的な接触を先延ばしにすることではじめてヒトは世界に触れるのだ。

「僕らは自分たちが何処に向かおうとしているのかを知らない」の続き
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2010年04月09日

ペルソナができるまでの作業の流れをまとめてみた

こちらのブログではすっかり人間中心のデザインの話は書かなくなりましたが、最近、会社のほうのブログ(「市場のお手入れ」)のほうで、あらためて、コンテキスチュアル・インクワイアリーによるユーザー調査から、ワークモデル分析とKJ法による分析/解釈を経ての、ペルソナを使ったユーザーモデルの表現までの流れをまとめています。

20100409.png


以下が、それぞれのコンテンツですので、興味のある方は参考に。


このあとも引き続き、ペルソナ作ってそれから〜の流れをまとめていく予定。



関連エントリー
ラベル:ペルソナ HCD
posted by HIROKI tanahashi at 17:47| Comment(0) | TrackBack(0) | デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月05日

常識という無知

時々驚かされることがある。
常識人のアナーキーさに。

「無理せず流れにまかせればいい」などと、近代以降の「進歩」「改善」を基本的な行動指針を根本から覆すような言葉をさらっと口にだす。
このブログにも明らかなように時々、近代以降の方向性に対して批判的な考えを口にする僕さえも、口にすることを躊躇してしまうような言葉をいともたやすくさらっと。そんな根本的な近代否定をなんの迷いもなく口にされると、僕のほうが驚いて近代擁護側にまわってしまうくらいだ。

もちろん、それを口にした本人にそんな深い考えはない。
きわめて常識的に「無理なく」という保守的な態度を表明しただけだろう。

けれど、だからこそ恐ろしい。
無知であるが故に、過去に人びとが努力して行ってきたことを、さらっと何気なく否定してしまう、知を欠いた常識というものが恐ろしいのだ。

「常識という無知」の続き
ラベル:無知 常識
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2010年04月03日

モノを作らない社会という夢想

確か、昨年の秋くらいからだったと思うが、ぼんやりとだが、モノを作らない社会にならないかと夢見ている。

正確にいうと、まったくモノを作らない社会ではなくて、いまのような大量生産がなくなり、ひとつひとつのモノが大切に使われ、ひとつひとつのモノが時間をかけて丁寧に作られる社会だ。

なんとなくだが、そのためにはまずモノがただになる必要があるだろうと思っている。モノの価値を金銭で示すことを放棄することが必要だろうな、と。

同時にモノの個人所有という考えもあらためなくてはならないだろう。共有財産として、金銭価値よりも有限な地球の資源としての価値のほうに重きをおく形にシフトしていく必要があるだろう。

「モノを作らない社会という夢想」の続き
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2010年04月01日

なぜ?を問う力

なぜ?を問う力が不足している。

いや、他人に訳を訊ねる力が足りないというのではなく、目の前で起こった事柄の理由を自分に対して問う力がないのだ。
目の前で起きる事柄を当たり前と思って見過ごしてしまうことが多すぎて、すべてがわかったつもりなのか、なぜ?を問うことでちゃんと理解してみようという態度が著しく欠けているのである。まさに前回書いた「知っているということの呪縛」である。

なぜミスは起こったのか?
なぜあれがこれより人気があるのか?
なぜあの場所はいつも混雑しているのか?

目の前で起こっている事柄をなんとなく見過ごしてしまうのではなく、なぜ、それはそうなのかと疑問をもつことができるか? つまりはここでの関心事は問題発見能力についてである。問題が見つからなければ、解決は図れない。改善もイノベーションも起こらない。

目の前で起きた事柄がミスや失敗であれば、なぜ?と理由を問うことはむずかしくないだろう。あるいは、ミスや失敗はない場合でも、自社に比べて他社の人気が高かったりすれば、それに対する、なぜ?を問うこともむずかしくはない。

それらの場合はすでに問題は提示されているからである。あとは問題として引き受け、答えを見い出そうとする意欲があるかないかだろう。

しかし、である。欠けているのは、そういった意欲ではない。

「なぜ?を問う力」の続き
ラベル:疑問 デザイン
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2010年03月20日

境界線―領域

その線を一歩越えるはりつめた空気の緊密さが大きく変わる。はたまたある時間を過ぎると途端に場が和む。
居間と台所の境。冬から春への季節の変わり目。子どもが入ってはいけない領域、逆に子どもだけの世界。
ある趣味/志向をもった人びとのコミュニティ。国、地域、家、私とあなた。

そこには明確に定義されているか否かに関わらず、こちらとあちらを分ける境界線がひかれている。境界線が領域を隔て、彼岸と此岸の性格を異なるものにする。

「境界線―領域」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする