2006年09月06日

新しい言葉が生まれる時

さっき、バズワードについて書きましたが、そのあと、考えたことがあるので追記です。

新しい発見や発明があった時

何の本だったか思い出せないのですが、昔、新しい言葉が数多く生み出される時代は活気のある時代だという内容のものを読んだ記憶があります。

これは考えてみればある意味、当然で、テレビが登場すればそれを指す「テレビ」という言葉は必要だし、自動車が登場すれば「自動車」「クルマ」という言葉が必要になります。これまでなかったものが誕生すれば、それは生まれた赤ん坊に名前をつけたり、新しく発見された生物に名前をつけるのといっしょで、それを指し示す言葉が生まれるのは、自然のことのように思います。

そして、新しい言葉が生まれるのが、いままでなかった新しいものが発明、あるいは発見されることと比例関係にあるのなら、それで社会や経済が活気づくのも納得がいきます。
その意味でもバズワードが数多く生まれるのは決して悪い兆候ではないのかなと思います(ただし、それがコミュニティから自然に生まれるバズワードである場合で、マーケティング的に押し付けられたワードに関してはそのかぎりじゃないですけど)。

「新しい言葉が生まれる時」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月03日

信頼の条件の1つだと考えられるもの

企業への信頼、企業で働く人への信頼」や「製品情報に関する一般ブログの信頼性は、米で62.9%、日では15.0%」をきっかけに「信頼ってなんだろう?」とか、「信頼が生まれる条件って何だろう?」と考えています。
いまの時点で、一般的な「信頼」の条件だと考えられるものを1つをあげるとしたら、それはいまここと同じものを将来において得られるかどうかということなのではないかと思っています。

先日紹介したスティーブン・ミズンの『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』の中にこんな一節があります。

ロバート・アクセルロッドは、1984年の著書『つきあい方の科学』でコンピュータを使った囚人のジレンマのトーナメントについて記述したとき、実社会の状況でいかに協力が促進されるのかという問題を取り上げた。(中略)ひとつは、"将来の影"を大きくすることだ、将来のいつかの対戦が今現在の対戦より重要だと思うようになることを意味する。
スティーブン・ミズン『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』

囚人のジレンマというゲームはご存知のとおり、プレイヤー同士の協力によって、より多くのインセンティブが得られるというゲームです。
このゲームの戦略は、相手との対戦が一度だけか、複数行われるかによって協力を選ぶかどうかが変わってきます。一度しかないなら自身のリスクを減らすこと(自白すること)を優先するかもしれませんが、対戦が複数であれば互いの利益を最大化するよう協力(黙秘すること)を選ぶ確率は増えるでしょう。

同じようなことがわりと一般にもいえるのではないでしょうか?

例えば、自分が買う商品であれば、毎回自分が期待するものが同じように得られることが信頼の条件となるでしょう。それが毎回買うたびに品質が著しく異なるようであれば、ちょっと信頼しにくい。
ブランドが品質を売りにしたり、企業が品質管理のオペレーションを競争戦略に選んだりできるのもそのためでしょう。

また、買い物をする場合でもお店の人の態度が商品を買う前と買ったあとで豹変したりすれば、いちじるしく信頼は失われるのではないでしょうか? きっと二度と買いたくないと感じるでしょう。

将来において同じものに出会えるかは相手が個人の場合でもあてはまります。
当然、住所不定の人や連絡先を教えてくれない人などは信用しにくいはずです。そんな人とはなかなか付き合う気にはなれないのではないでしょうか? もちろん、自分の側にも同じ事情があるなら別ですが。

同様の意味でブログにコメントをもらう場合でも、きちんと自身のブログをもっていて、そこにメールアドレスなど直接アプローチできる手段が記載されている人からコメントをもらう場合とそうではない場合とでは相手に対する信頼の度合いも変わってくるのかもしれません。
いつでも期待する場所にいて、期待する最低限の反応を返してくれて、そして、それがずっと続くと思えるような相手のほうが信頼しやすいということはあると思います。

結局、人は自分が信用したのに、あとで裏切られることはやっぱりイヤなんだと思います。まぁ、当然ですよね。自分がイヤだと思うなら、まわりに対しても同じように考えてあげることが信頼を得るための条件かもしれません。
そのリスクが少なく感じられるようにする配慮−将来もいまと同じかそれ以上であることを保証する何かの提示−が信頼につながる1つの要因なんだろうなと思いました。

その場合、どんな要素が将来的な信頼のための必要条件であり、十分条件であるのかは、信頼を感じる側が支払うコストとそれによって獲得を期待するインセンティブのバランスも大きく関与すると思うので、シーンによって異なるものなのでしょう。
そのあたりは自分と相手の期待感が一致するとは限りませんので、簡単にはいかないところですが。それも付き合いを継続する中でたがいに歩み寄っていくものなんでしょうね。

P.S.
あっ、そうか。これ、監視の問題ともいっしょだな。
中身(Contents)は容易に入れ替わりうるので、監視対象物の自己同一性をボディとか物理的な場所とかURLとかIPアドレスとかにしてるわけか。

 
posted by HIROKI tanahashi at 01:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月31日

何の情報も持っていなければ、自由選択を利用することもできない

自分用にメモ。

志向姿勢を使わないと、こういった自然の複雑なパターンはとても説明しきれない! 遺伝子レベルで予測できるゆっくりしたパターンは、心理学レベルや社会学的レベルで予測できるパターンととてもよく似ている−というよりその予告編のようなものだ−機会、認知と無知、競合相手に対する最適手段の追求、回避と報復、選択とリスクなど。進化論的研究開発における手段や対抗手段には、だれもそれを明示的に検討していなくても理論的根拠がある。わたしはこれを浮遊する理論的根拠と呼んでいる。それはわれわれが個別に検討してはっきり認識した理論的根拠に何十億年も先立つものだ。その中にはどちらの領域でも通用する害の回避についての基本原則も含まれている。その原則とは、自分の運命がどうなるかについて何の情報も持っていなければ、自由選択を利用することもできないということだ。
ダニエル・C・デネット『自由は進化する』

基盤としてのアーキテクチャー、アルゴリズム、法則。
そして、互いに無関係で、存在さえもお互いに知りえない個別の群れ、種、試行錯誤。
自然淘汰という運命と自己組織化の隠れたアルゴリズム。

タグ:情報社会
posted by HIROKI tanahashi at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

企業への信頼、企業で働く人への信頼

魂はどこに?

人間は責任を持つ存在で、自分の運命の主導者なのだけれど、それはわれわれの本質が実は魂だからだ、という人気のある考え方がある。魂というのは神様に属するなにやら非物質的な不死の代物で、それがいわば霊的な人形遣いみたいに、物質的な肉体に宿ってコントロールするのだそうな。
ダニエル・C・デネット『自由は進化する』

企業や企業で働く人は信頼できない?

mixiでやってるコミュニティのほうで、口コミに関して意見を聞いているんだけど、それを読んでると、どうして今の日本ってこんなに企業に対する信頼がないんだろ?ってことを感じます。
いや、企業に対する信頼もそうなんですが、企業で働く従業員に対する信頼がとても薄いのかななんて感じます。

自分もどこかの企業で働く従業員であるはずなのに、他社の従業員(例えば自分が行った店の店員とか)に対して信頼がもてないってのは、なんかひどくいびつな気がします。
それってもしかして自分の仕事っぷりと照らし合わせたり、あるいは自分のまわりの同僚の働きと照らし合わせて、そういう疑念を抱いちゃうってことなんでしょうか?

「企業への信頼、企業で働く人への信頼」の続き
タグ:信頼 口コミ
posted by HIROKI tanahashi at 01:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月24日

フローの空間

この言葉が妙に気になっているんですよ、最近。

新たなグローバル都市自体が、場所であると同時にプロセスとなる。人々は今なお場所において暮らしているが、機能や権力が組織されるのはフローの空間なのである。
デイヴィッド・ライアン『監視社会』

結局、最近のエントリーでベキ法則対数などをつかって、Webまわりの動きを追っているのも「フローの空間」というのをすごく意識しているからだったりします。

昨日も「対数の世界でのマーケティング」の中で触れましたが、「ベキ分布にしても、これまで書いてきたように実は昔から存在はしていたわけで、ただ、その極度なバラつきは正規分布のような世界に慣れ親しんだビジネスシーンではマネジメントのしようがなかった」けれど、だんだんとネットやITの技術が進歩する中で、これまで見えなかった微細な流れの集まりが可視化されはじめ、「見えていればその流れにうまくのって、ユーザーの動きに自分たちの動きを重ね合わせることでマネジメントすることは可能になります」といえるくらいにはなってきているように感じます。

フローの空間の情報デザイン

その意味では、サイトという閉じた「場所」だけ眺めていてもダメで、インターネットというネットワークの流れの中のサイト、あるいはユーザーの情報収集、コミュニケーションのプロセスの中のサイトという風に見ないと「フローの空間」はつかめないと思っています。
そして、フローとかプロセスとかいうだけあって、それは単なる空間ではなく、時空間的なものだったりします。

情報デザインという際も、単に情報構造を決めたり、見栄えや振る舞いを決めるような静的デザインだけでなくなるでしょう。当然、DB設計もあれば、運用設計ということも時空間という視点で情報デザインを行うことは必要だし、CMSを基本としたWebサイトとCRM、ERP、さらにはAdwords運用・効果測定ツールやアクセスログ解析ツール、エンタープライズ・サーチなどとの統合を考えたデザインを行うとなると、どこに何をどう置くというだけでなく、どの情報が次にどんな情報を生み、それはどこに格納して、誰がその情報を何のために扱うのかといったあたりまで含めてデザインする必要がでてきます。

「フローの空間」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月20日

情報社会は監視社会である

本当にそのとおりだと思っていたんですけど、こうはっきり書かれると唸りますね。

情報社会は必然的に監視社会であって、新たなテクノロジーに強く依存する。だが、それに加えて、監視社会とは、統合された情報インフラのおかげで、社会生活の各部門に監視が浸透するという意味でもあるのだ。国家による監視が支配的であるどころか、監視は今や、労働の現場や消費の場面にも同様に見出される。
デイヴィッド・ライアン『監視社会』

それどころか、監視は今や、個人が利用するブログやSNS、RSSリーダーにも同様に見出される。この本が書かれた2001年からさらに進化したテクノロジーによって監視の問題はさらに社会に浸透しているのだといってよいのではないかと思います。

監視の2面性

監視というと、どうしてもネガティブな面ばかりを思い浮かべてしまいますが、「監視社会(せめこれ7)」でも書いたとおり、監視の問題は常にファインダビリティと背中合わせです。自分がどんな人間か、何が欲しいかといった個人情報を提供することで、探しているものが見つかったりするわけです。
それどころか、自分の身分、身元をあきらかにしているからこそ、会社からの給料がもらえ、病院にいけば健康保険が使え、郵便物がちゃんと自宅に届いたり、電話が自分の携帯電話にかかってきたりするわけです。
便利さを手にしようとして、自分の居場所や身元、嗜好などを開示し、外部から管理されることに同意したとき、そこに監視が同時に生じるということです。

それは、

私たちが、社会的・経済的・政治的な仕組みを組織と管理という合理性の体制に組み込もうとする中で作り上げた世界の、その一部なのである。
デイヴィッド・ライアン『監視社会』

ということです。「情報社会は監視社会である」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 03:18| Comment(0) | TrackBack(1) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月19日

「間違えを恐れるあまり〜」へのフィードバック

間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?」には、ブログやmixiの日記を通じて、いろんなフィードバックをもらえました。
みんな、いろいろ考えてるんだなと思い、勉強になりました。

すべて紹介しきれませんが、ここでいくつか目にとまったものを紹介しておきます。

プライベートならともかく、仕事の場では、多くの場合「人格批判をして逃げる」という選択肢はありません。自分の常識と相手の常識の齟齬を乗り越えて、なんとしても相手を説得しなくてはならないような場合。そんな時、自分の「当たり前」を、どこか絶対化しすぎていないか、考えるのは一つの手ではないでしょうか。

ブログのあり方について書かれたものだけれど,どんな場においても同じことが言えるのではないだろうか.論文を書くとか,学会発表をするとか,ゼミ発表をするとか,観測結果を指導教官に見せるとか,色々なアウトプットを遅くしてしまっている.

アウトプットにこだわるのであれば、建設的なフィードバックが返ってきそうな場を探すというのが良いと思います。具体的には良いフィードバックが良い社会や関係を作るのに必要だと主張している人や、実践している人を見つけて、その人に対してアウトプットを見せていく。場を探すだけではなく、場を作るという考えで、自分から良いフィードバックを積極的にする。

レオナルド・ダ・ヴィンチやアインシュタインといった天才もゼロから全てをアウトプットしたわけではなく、名前も残っていないような普通の人たちから、粛々と繋がれていったアウトプットこそが呼び水となり、彼らの功績を生んだ、と僕は考えます。

そう考えると、どんなちっぽけと思えるような内容でも、もしかしたらいつか誰かに大きな刺激を与えられるかもしれません。

日本人にはそんなことより「この人を貶めるにはどうすればよいか?」(=「自分がすごい人間に見えるためにはどうしたらよいか?」)を考える人ばかりということだろうか。

時間をかけることで完成度が高くなることが保証されているわけではないのだから,恐れずにアウトプットすべき。この意識を持たないと次の次元に行けない。

他にmixi日記で「これ、まさにいまの自分がこれ。だって他人に馬鹿にされるの(に見られる)がイヤなんだもん、馬鹿なのは自分が一番判っているから。でもそれって人間としてちょっと終わっちゃってる感があってヤバイ。 」なんて感想もありました。

なんか、みんな、いろいろ感じているんだなと思ってうれしくなりました。

「「間違えを恐れるあまり〜」へのフィードバック」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月16日

ブログ・エントリーの「本気ぶり」は何が伝えるんでしょうね?

みたいもん!・いしたにさんのエントリーの主旨の中心からははずれますが。

くどいですが、しつこく言うといちばん最初の作り手側の本気ぶりが伝達の発露のキーになっているということなわけです。

なぜ「言葉は届いてなくても、気持ちは届いちゃう」といったような、言葉という伝達ツールを使わずに伝達が可能になるのか?と思ったわけです。

誤解のないように先に書いておくと、僕自身もそれは伝わると思ってるんです。先に引用したエントリーの最後は「ちゃんとやってれば伝達はされるから心配することなく、いいエントリーを書きましょう」と締めくくられていますが、これには完全に同意するわけです。

じゃあ、何が疑問なのかというと、「本気ぶり」だったり「ちゃんとやってる」ことだったりは、言葉そのものが伝えないのだとしたら、いったい何が伝わるのか?ということなわけです。
オカルト的(非科学的)に「気持ちは伝わるものだ」と納得するのは、僕としてはちょっと気持ちが悪かったんです。なので、僕的にはそこにもこだわってみようか、と。そういう主旨のエントリーなわけです。

ISDにおける韻律による発話内容の伝達

で、「なんでだろ?」って考えてるうちに、いま読んでる『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化 』にヒントになりそうな話を見つけたわけです。

幼い子どもとコミュニケーションしようとする場合、韻律が誇張されるISDは「大人への発話」より強力な手段であることがファーナルドらの実験で示されている。(中略)ファーナルドは、この両方の発話サンプルから語彙内容を"ろ過"し−ことばを取り除き−音曲線だけの音響フレーズに加工した。乳幼児に慣れていないべつの大人群を用意して、乳幼児への発話と大人への発話から作った音響フレーズを聞かせたところ、(非語彙的)フレーズの内容−容認、禁止、注意喚起、慰撫のどの文脈で発した音声がもとになっているか−の認識率は、乳幼児への発話のほうが大人への発話より有意に高かった。
これらの実験は、ISDでは"メロディがメッセージである"こと、つまり、韻律だけで話者の意図をくみ取れることを示している。
スティーヴン・ミズン『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化 』

ISDとは乳幼児への発話(infant-directed speech)のことです。この本では人間の進化の段階で言葉と音楽はどのような関係で形成されてきたかを探求していて、上に引用した部分では乳幼児が言葉を覚える段階での韻律が誇張されたISDに、音楽は決して言葉の登場のあとに付随してつくられたわけではないという根拠を見てとろうとしているわけです。

これが言葉なしでも本気ぶりが伝わることを理解する1つのヒントなのかなと思ったわけです。
韻律のみで、容認、禁止、注意喚起、慰撫などの発話の内容が伝わるのであれば、「本気ぶり」というようなものも同じように、言葉の意味内容を"ろ過"した場合でも伝わる可能性があるのではないか、と。
つまり、それはオカルト的に「気持ちが通じる」のではなく、韻律というパターンによって言葉を理解するのとは別のやり方で、脳が情報を処理しているのではないか、と。そう思ったわけです。

「ブログ・エントリーの「本気ぶり」は何が伝えるんでしょうね?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月14日

なぜ間違うことを恐れるより、アウトプットを早めたほうがよいのか?

皆さんのコメントなどを見させていただいて、「間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?」にも足りない部分があったと思いますので、あらためてここで補足させていただきます。

自分ではわからない間違いがある

先のエントリーでは、過剰に間違いを恐れてアウトプット速度が遅くなるのはよくないと書きました。しかし、当たり前ですが、それは間違ってもいいということではありません。間違いがどうかを検討するくらいは当然アウトプットを行う前にやっておくべきです。ただ、そこに間違いだとまだ決まってもいないのに必要以上に間違わないことに過敏になる必要はないということです。
最初から間違ってると自分でわかっているもの以外は、結局、いくら自分だけで考えてもそこに間違いがあるかどうかは自分ではわからないわけです。そういう間違いは他人に指摘されてはじめてわかる。だとすると、一度、他人に対してアウトプットするしか、その間違いはなくならない。その意味でも時間をかけて答えの出ない問いに悩むより、アウトプットしたほうがよいということです。

「なぜ間違うことを恐れるより、アウトプットを早めたほうがよいのか?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:46| Comment(2) | TrackBack(1) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月13日

間違えを受け入れられる寛容さ

間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?」がこんなに反響があるなんてまったく予想していませんでした。何が人気が出るかは、内容自体もさることながら、本当に運だとかタイミングの問題も大きいのだなとあらためて感じました。その意味でも、失敗を恐れずにアウトプットしてみることは必要だなということが実感できました。
いろいろ勉強になりました。皆さん、ありがとうございます。

すべてのコミュニケーションの場がメッシュ化したわけではない

さて、いろんなご意見のあった中で、トラックバックもいただいたAdamsky’s Sighさんの下記のような言葉は、企業内においてアウトプットをためらわせる大きな要因になっているのでしょう。

けれども、実際に全てのコミュニケーションの場がメッシュ化したわけではありませんし、情報の流れを階層構造に沿った形でしか認められない人がいるのも事実です。そして、タチの悪いことにそうした人がメッセージの質の「評価者」の立場に身を置いていることがしばしば見受けられ、またその評価が集団の構成員に別の形でフィードバックされる(あるいはそう思われている)ために、「臆病さ」を内面化してしまっている人がいるのではないでしょうか。

Adamsky’s Sighさんのおっしゃるとおりだと思います。残念ながらすべてのコミュニケーションの場がメッシュ構造(ネットワーク構造)化しているわけではなく、まだまだ多くの場でのコミュニケーションが昔ながらの階層構造に縛られています。

他の方のコメントにもありましたが、人が間違いを恐れずにアウトプットするためには、間違いに対して寛容さのある環境がなくてはむずかしいと思います。すべてのアウトプットが階層構造の上から下へと受け渡されるコミュニケーションの場においては、たとえ発言者が間違いを恐れなくても、上のレイヤーのどこかで必ずその間違いを恐れる人が出てくるでしょう。その評価が発言者に対して有益なやり方でフィードバックされるならまだいいわけですが、評価者が自分の立場を守るためだけに間違いの指摘を行うような場合、発言者が間違いを恐れるようになるのも当然だという気がします。

「間違えを受け入れられる寛容さ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:14| Comment(3) | TrackBack(2) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月12日

間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?

普段、仕事をしていてもそうですし、SNSやブログに書かれた言葉をみていても感じることですが、世の中にはかなりの割合で、間違えることを恐れて、自分の意見や考えを口にすることをためらい、結果としてアウトプットが大幅に遅れたり、ひどい場合はアウトプット機会そのものを失っている人がいるのだなと思います。

間違えないことより、アウトプットを早めること

そういう人に対して言いたいのは、なんで間違えることをそんなに気にするの? そもそも時間をかければ正解が出せる根拠があるの? ということです。
僕は、完璧さを求めるあまり間違いを過剰に恐れ、アウトプットが遅れてしまうくらいなら、多少、間違いがあるかもと思いつつもとにかくアウトプットを出し、その上で相手の反応を見ることのほうがよっぽど重要ではないかと思います。

というより、そもそもそれがコミュニケーションなんじゃないかと思うわけです。
間違えてしまって他人に指摘を受ければ、むしろ、それは自分にとっても他人にとっても有意義なことではないかと思うのです。
そのことによって相手にとってはあなたの考えが伝わるのですし、あなたにとっては他人の指摘により間違いが修正されたより完璧に近い考えが得られるのですから。

したがって、重要なことは間違えないようにすることではなくて、間違えがあってもとにかくできるだけ早くアウトプットを出し、もし間違えを他人から指摘されればそれを受け入れ、相手に感謝するスキルをもつことだというのが僕の考え方です。
あなたがよっぽど権威のある人で、あなたの一挙一動を誰もが注目していて、あなたの言葉が社会に大きな影響を与えるということであれば別ですけど、大抵の人はそんな状況に置かれているわけではないわけですから、間違えを恐れて自分の意見も口にせず、何を考えているかわからないとか、まったく役に立たないとか思われるくらいなら、すこしくらいは間違えてもいいから自分の考えを述べて、きちんと相手に刺激(価値)を与えるほうが、社会的には重要なことだと思うのです。
アウトプット能力ってそんな風に他人や社会の利益を優先した上で、自分の言葉を紡ぐことができる力のことであって、正しいことを正しそうに言う力では決してないと思います。

「間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:27| Comment(18) | TrackBack(13) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月11日

監視社会(せめこれ7)

先の「マーケティングも1:nのトピ−スレ型からn:nのネットワーク型へ」では、CGMやソーシャル・ブックマーク、ソーシャル・ニュースなどのWebサービスの普及により誰もが情報の発信、共有が可能になった世界においては、マーケティング的にユーザーのニーズを中央集権的にコントロールしようとする従来のやり方は通用せず、企業そのものがユーザーのコミュニティの中の会話に入り込んでいく形の「Employee Generated Media(従業員による情報生産〜発信の仕組み)が今後のマーケティングにおいて大きな課題となってくるのではないでしょうか?」と書きました。

また、それとは別に、以下のエントリーでは、企業や著名人のインターネット上の悪評や炎上への対応の良し悪しについて、隠すのではなく明確に落ち度を認め謝罪することの重要性について書いてきました。


ファインダビリティと監視は表裏一体

こんなことを書いてきたのは、ニーズのマッチングあるいはファインダビリティの問題と、企業の透明性あるいは可視化社会(監視社会)という問題が表裏一体であることをあらためて示しておきたいと思っていたからです。
考えてみれば、ごくごく当たり前のことですが、探しやすい、見つけやすいということは同時に、探されやすい、見つけられやすいということだったりします。
携帯電話やカーナビのGPS機能にしても、RFIDやIPv6のような技術にしても、ファインダビリティと監視という問題は表裏一体の形でついてまわるはずです。

「監視社会(せめこれ7)」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 01:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月07日

センサーとしてのクルマ

CNETの渡辺さんのエントリーにインスパイアされて、1エントリー追加。

最近のナビの作りを見ていてるとつくづく思うのがインターフェースが車両と一体化していること。インテリアデザインとして、ナビの操作機能が周辺のボードやハンドルに組み込まれているのは珍しくない。

自動車メーカーのナビが車両と一体化されているメリットは実はそれだけではなかったりします。
実装されるのはまだ先ですが、技術的には十分視野に入っているものとして、クルマをセンサー=認識器官としてナビをその情報を伝える神経として捉えることも、クルマとナビが一体化してるからできることだったりします。

どういうことか? すこし具体的にしてみましょう。

雨が降っていたらクルマはワイパーを動かします。
渋滞していたらクルマはスピードが遅くなります。
そうした情報がナビの通信機能を通じて、どこかしらの情報集約センターに集まり、かつGPSにより、その車両がどこを走っているかがわかったらどうでしょう?
どこで雨が降っていて、どこの道が渋滞しているかがリアルタイムでわかるようになります。
それはトヨタや日産、ホンダなど、ある程度のシェアをもっている自動車メーカーであれば自社のカーナビとの連携により、かなり正確な統計データとして得ることが可能でしょう。
これまでクルマは人間の身体につながった拡張的な器官でしたが、これがカーナビという情報処理装置に連携され、かつ、それがネットにつながることで違う可能性が広がってくるでしょう。

自分が欲しいものを見つけるには、自分が何を探しているか、それをいつどこで探しているかを、探されている相手のほうにも知ってもらう必要があるわけで、その意味でセンサー化したクルマ、それを伝える器官としてのカーナビがうまく機能すると、これまでにないファインダビリティが生まれたりするんじゃないかと思います。

また、マルチデバイスということであれば、PC、携帯電話との競合関係も去ることながら、異なるデバイス同士の用途に応じた連携ということも考えられるでしょう。
PCで見つけたお店の情報などをルート設定して携帯なりカーナビに転送するとか。
Google MapやGoogle EarthやGPS携帯が注目を集めているのですから、この方面の連携は課題はたくさんありつつもやりようによってはうまいこといくんじゃないかと想像してみたり。

タイヤメーカーでしかなかったミシュランがレッドガイドの発行により新たな道を開いたように、カーナビをそのように捉えることで自動車メーカーが情報技術メーカーとしての拡張性を手に入れることもむずかしくはないんではないかと思ったりします。

関連エントリー

タグ:カーナビ GPS
posted by HIROKI tanahashi at 18:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月25日

記録と記憶:2つの異なる消滅のタイミング

確かにある視点から見ればどちらも同じです。

頭の悪い私には「記録」も「記憶」も似たようなものに思える。gitanez氏が書かれているこの記事では異なると言われているし、それが正しい事なのかもしれないが、記録も記憶も何時かは消えてしまうという点で私には同じに思えるのだな。

記録も記憶もどっちも消えてしまうというのは、まさにそのとおり。

そうなんだけど、私が「記録と記憶:あるいはブログを書き続けるということ」のエントリーで両者を区別したのは、単にそれが「消える」タイミングを重視したからでしかありません。
記録はそれがのったメディアが崩壊した際に、記憶はそれがのった人が死んだ際に、それぞれ失われます。
死んだら終わりか、死んでも残るのかってところがポイント。
もちろん、それぞれメディアが壊れたり、人が死んだりしなくても、それ以前に記録あるいは記憶が失われる可能性はいくつかあります(例えば、痴呆症になるとか)。

そんなこともあって無文字文化における老人の記憶による知の継承を、現在のメディアによる記録による知の蓄積と比較したわけです。

あともう1つ違いを追加すれば、両者の影響範囲でしょうか?
記憶はそれをメディアによる記録を使わない限り、面と向かって話せる相手にしか伝わりませんが、記録はその内容を真に理解できるかをおいとくとすれば、メディアが届く範囲内では伝えることが可能です。
インターネットなんてものがあると結構その範囲は広い。だから、ブログの話とも結びつけたわけです。

で、そんなこともあって、単に個人に記憶されるとかいう話とは別に、人類の種としての持続可能性みたいな大きなフレームで見た場合、記録って話はちょっと考えておいたほうがいいかなというのがあのエントリーの背景にあったものです。
とはいえ、あそこで書いたとおり、記録は誰かの記憶に残り、そこでコピーが再生産されないとその力を存分に発揮できなかったりするわけで、記録と記憶という関係は、大きなフレームの中で見た場合にもきちんと捉えておく必要があるのかな、と。
個々人が「もう二度とその人に巡り合えないとしても、私は絶対に忘れない」とかって熱い想いをもたないようじゃ、種の存続もくそもありませんので、そっちの視点も忘れないように。

以上。補足のエントリーでした。

 
posted by HIROKI tanahashi at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月21日

不祥事の際の企業の対応にあらわれる企業の基本姿勢

最初に断っておくと、当エントリーはいわゆるマスコミを騒がすような大企業の不祥事に関わる内容ではありません。
ここで取り上げるのは「クリエイティブと著作権」で取り上げた、ある企業ブログにおける該当企業の取締役による、当ブログのエントリーに酷似する内容の記事に対し、私が「酷似しているのではないか。どのようなお考えですか?」と指摘した後の、その企業の対応に関してです。

事の次第

結局、その企業は該当記事を削除するという対応を行いました。

しかし、その企業の該当記事に対しての反応は、私の指摘によるものだけでなく、私以外にも数人のネットユーザーの方がはてなに[パクリ]や[これはひどい]というタグ付きでブックマークをしていたり、ある方は私の記事の一部と該当記事の一部をそれぞれ引用して、いかにそれが酷似しており、かつ、微妙な言い回しを変更することで明らかに意図的に同一の文章であることを隠そうとしている点などを指摘したブログエントリーなどを書かれていました。

私はそのことを次のようなメールで、該当企業に知らせるとともに、「削除」という対応だけではマズいのではということを書かせていただきました。

○○様、

まずはご返信ありがとうございます。

私のほうで特に削除依頼はいたしません。

ただ、下記のようなことがすでに起こっていることは、
貴社としてご認識されたほうがよいのではないかと存じます。

http://b.hatena.ne.jp/entry/○○○
http://d.hatena.ne.jp/○○○/○○○

上記は私が把握している範囲であり、他にもすでに影響が出ているかもしれませんし、
私が認識している中ではmixiでもすこし話題にはなっています。

私としては、削除ではなく、公開された形で弁明されたほうが
よいのではないかと考えますが、
それに関しては、私が判断すべき問題ではなく、
貴社の信用の問題だと認識しておりますので、
貴社にゆだねます。

○○様も一企業の取締役というお立場ですので、
○○会社としての信頼を考慮のうえ、対応をお考えくださればと思います。

以上。
よろしくお願いします。
私からの指摘メールを全文掲載
(ただし、具体的な企業名、個人名、URLは伏字に)

いったん、インターネットという公の場にブログエントリーとして公開した以上、問題は著作者である私だけにとどまりません。
上記にあげたような目に見えるほかのユーザーの反応や、表には出ないユーザーへの影響も考慮して、適切な形で、会社として今回のことをどう受け止め、今後、どう対処していくのかを明示したほうが、企業の責任としてよいのではないかと思ったので、上記のメールを書いたわけです。
「不祥事の際の企業の対応にあらわれる企業の基本姿勢」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月13日

企業の基本設計

優れた基本設計だけが上位層の無理な設計変更も可能にする」のエントリーで、
上位層の設計変更は外部で手助けできても、基盤となる基本設計だけは自分たち自身の手でデザインしていくしかないのではないでしょうか?
と書いた箇所での「基本設計」がITシステムの構築における基本設計とダブってしまったようなので、いちお、それを意図していない点をここで補足。

上記のエントリー全体で、私が「基本設計」として想定しているのは、それこそ企業の存在そのものを維持するための基本設計でした。

例えば、ボブ・スリーヴァ氏の『ブランドデザインが会社を救う!』による3つの質問、
  • あなたは誰?
  • どこへ行きたいか?
  • どうやって行くか?
だったり、
あるいは、これとよく似た『トム・ピーターズのマニフェスト(1)デザイン魂。』のなかの
  • あなたは何者なのか?
  • あなたの目的は何か?
  • あなたはどのようにユニークなのか?
  • どうすれば圧倒的な違いを生み出せるのか?
  • 誰が気にしているのか?(あなたは気にしているのか?)
といった問いを考えることで、ブランドの基本デザインを行うことだったり、
あるいは、もうすこし具体的に、
  • 事業領域は?
  • 誰に何を提供するのか?
  • どのような企業文化をもった組織を設計するか?
といったものが、私の想定していた「基本設計」です。

「企業の基本設計」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月11日

離島への旅から学ぶ情報格差の現状

今回の西表島の旅行で、現在の情報格差について、いくつか感じたことがあったので、メモ書き程度にここに残しておこうと思います。

離島という条件

まず、このあとの話を理解しやすくするために、西表島の地理的条件について書いておきます。

西表島は、沖縄の石垣島を中心とした八重山諸島の1つで、地図上の場所としては、日本よりも台湾に近い場所にあります(西表島も日本の一部なので、この表現はおかしいですけど)。
八重山諸島は、沖縄本島からも飛行機で1時間離れた場所にあり、西表島はさらに石垣島から高速船で40分ほどの場所にあります。
東京からだと羽田から石垣直通便でも3時間強、さらに船の40分を足すと、4時間近くかかります。4時間と書くと、そんなに遠くないような気がしますが、実はこの総移動時間よりネックになるのが、船の40分だったり、那覇〜石垣間の飛行機の1時間だったりします。

また、西表島内には、島を3分の2周する1本の道路があるだけで、道路がない集落には船を使ってしかいくことができません。島は東部と西部に分かれており、それぞれに石垣島との船の定期航路がある2つの港があります。道路の端から端までは1時間半くらい。2つの港の間も約1時間くらいです。
この距離のおかげで、急性胃腸炎の腹の痛みにこらえながらバスで1時間、台風で荒れる海を船で約40分移動しなくてはいけませんでした。

ちなみに今回、仕事ができるようにノートPCを持参したのですが、WILLCOMのPHSは圏外で結局、インターネット接続はできませんでした。

「離島への旅から学ぶ情報格差の現状」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 08:35| Comment(4) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月22日

「情報の歴史」を考えるためのmemo

やさしさに包まれたなら」のエントリーにLongtailさんからいただいたコメントに、「「やさしさ」への感度が低下は、感度そのものを起動させるインフラの弱体化が原因ではないでしょうか?」と書かせていただいたのですが、インフラの強化のためにはまずきちんとそれが弱体化した歴史をおさえておく必要があると思っています。

情報の歴史

その歴史とはずばり「情報の歴史」です。
HII(Human Information Interface)を考えるにあたって、まずは情報の歴史を考える上でのラフスケッチとしてのmemoを残しておこうと思います。

生命情報が出現したのは、生命が発生した約40億年前です。しかし、社会情報が発生したのは、ホモ・サピエンス・サピエンス、つまりヒトという生物種が出現した十数万年前だと考えられます。そして機械情報が発生したのは、狼煙という原始的なメディアをのぞくと、文字が発生した約5000年前と考えていいと思います。
さらにいうと、地球が誕生したのは50億年前。
40億年前に発生した生物が、ようやく視覚情報を手に入れたのは、5億4300万年前のカンブリア紀の生物進化の大爆発の際です。
そして、約十数万年前に進化の過程で誕生したヒトという生物種は、哺乳類のみがもつといわれる脳の器官、大脳新皮質の面積をさらに拡大させることで知能を獲得しています。

西垣氏は社会情報と機械情報それぞれに対応する語として、コミュニケーション、メディアという言葉を定義していますが、ある時点で言葉を手に入れたヒトという生物が、知能の複製、蓄積、交換などのためのメディアとして、文字を手にしたのは、生物種誕生からもかなり経ったあとの約5000年前でしかないというわけです。

「「情報の歴史」を考えるためのmemo」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月20日

(基礎)情報(社会)学における「共」の視点

西垣通氏と公文俊平氏はともに現在そして未来の情報社会の考察を行っている点では日本を代表する論客の2人だといってもよいでしょう。
それぞれ西垣氏は基礎情報学、公文氏は情報社会学という異なる立場から見た異なる視点で、それぞれ現在の情報社会をともに歴史的な視点も考慮しつつ考察していて、そこで語られる内容はそれぞれ違うものを論じているがともに興味深いものだと思っている。

そんなそれぞれ異なる視点をもつ2人の論考ですが、以下に示すような「共」という視点には共通点があるといえます。

いろんな生物の解釈するいろんな世界の重なりとして情報のネットワークがあり、互いに食物を提供しあいながら進化していく生態系がある。そういう全体が生命流です。われわれもその一部として生きているわけです。
とすれば、われわれ一人一人は、いわゆる個人(インディビジュアル)とは少し違う存在ではないでしょうか。インディビジュアルというのは分割(ディバイド)できない存在ということですが、これはユダヤ=キリスト教的な考えだと思うのです。
そうではなくて、われわれは60兆個の細胞の共生体なのです。

私が提唱したいのは、第一の見方(註:共の原理は必ずしも新しくないというもの)に共感を寄せつつも、近代化過程の中でも、実は共の原理に立脚するアクティビズムは繰り返し再生産されていて、とりわけ「ラストモダン」の局面にいたると、「全体と個への分化を補完する人間のあり方が近代化過程それ自体の中で全面的に確立する」点をより重視するという見方である。そこまできて初めて、近代社会は人間的な社会になり、人間中心主義的な文明としての有終の美をなすことができ、人間中心主義を脱却したポストモダンの新文明への以降の踏み石となりうるのではないだろうか。
両者に共通しているの「共」への言及だけでなく、ユダヤ=キリスト教的なものや、人間中心主義的なものと対立するものとしての、60兆個の細胞の共生体としての人間的なものの獲得には、全体でも個でもない第3の選択としての「共」が必要とされるという認識なのでしょう。

「(基礎)情報(社会)学における「共」の視点」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月18日

神社にとって本質的な要素は社殿ではなく鎮守の杜

やっぱりね。そうだと思った。
西垣通さんの『情報学的転回―IT社会のゆくえ』を読んだのをきっかけに、東洋思想について勉強しようと思い、読み始めたのが鎌田東二さんの『神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる』。
その中に僕の予想していたとおりの答えを見つけました。

その地域一帯を守り育む大地の生成力やエネルギーをため込み、円滑に流し循環させていくためのセンターでありツボが神社なのである。したがって神社において最も重要なのは、社殿などの建造物ではなく、その杜あるいは泉や木や岩を持つ場所そのものということになる。そこで、鎮守の杜の「杜」のほうが神社にとってより本質的な要素となる。
鎌田東二『神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる』
伊勢神宮や熱田神宮を訪れて感じたのは、その杜の生命力の凄さでした。
特に伊勢神宮の杜の自然の生命力は圧巻で、大人が5、6人がかりで手をつないでやっと周囲を囲むことのできる太さの巨大な木々から発散させる生命感はそのパワーが凄すぎて、なんともエロティックな感触さえ与えるものでした。

20年に1度の式年遷宮という1300年間続けられてきた行事により、伊勢神宮の内宮、外宮、そして別宮や五十鈴川にかかる宇治橋なども含めて新しくつくり変えられ、御装束神宝と呼ばれる正殿の内外を奉飾する御料525種、1,085点も同時に新しいものに調製されてきたのに対して、内宮の社殿を中心とした付近は神域とされ、神宮の鎮座以来約2000年間にわたり、まったく斧を入れることのなかった禁伐林となっているのを考えても、神道においてどちらが本質的な要素とされるのかが感じ取れます。

神宮の杜

「神社にとって本質的な要素は社殿ではなく鎮守の杜」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:53| Comment(0) | TrackBack(1) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする