2008年04月26日

なぜ目に見えない青が写真に写るのか?:情報と感覚についてのちょっとした考察・前篇

最近、ひそかに続けているのは夕刻の暗くなる時間を写真に撮ることです。

別に被写体はなんでもいいんです。その時間に写真を撮るのが目的です。いまのところ思い出した時に撮ってるので時間はバラバラですし、写真を撮るのを忘れてしまうこともあります。
何がおもしろくて、そんなことしてるかというと、その時間に写真を撮ると目には見えてない青が写真に写るからです。

 

綺麗な青を探してそんなことをしてるわけですが、いまのところ、京都で撮ったこの青が一番好きかな。

20080417_2.jpg

偶然撮れたこの色が撮りたくて、こんなことを続けてるんですけど。

「なぜ目に見えない青が写真に写るのか?:情報と感覚についてのちょっとした考察・前篇」の続き
ラベル:感覚 情報
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2008年03月28日

そもそも自分を規定する意味は社会的な理由以外にありえない

DESIGN IT!ではなく、DESIGN IT! w/LOVEですけど、それはまぁいいとして。

DESIGN IT! では「他人に自分の存在を知ってもらうためには日々自分を外部・社会に向かってアピールしていく必要性を書きましたが、そんなしち面倒くさいこと(僕にとってはもはや面倒なことじゃないけど)をし続けなきゃいけないのは、そうする以外に社会に対して自己を固定化する方法がないからです」と書かれてますけど、私にしてみると「社会に対して自己を固定化する必要なんて無いぢゃん」と感じられてしまうわけです。他人が自分の存在を知ろうと知るまいと、自分が自分であることは揺るがないからね。

「他人が自分の存在を知ろうと知るまいと、自分が自分であることは揺るがない」。
残念ながら、そうだとばかりは限らないはずです。状況が変わればそんなもの簡単に揺らぐと思います。

「そもそも自分を規定する意味は社会的な理由以外にありえない」の続き
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2007年06月12日

身体的な知としてのインテリジェンス

情報というものを、単にテキスト情報やコンピュータ上で表現可能な2次元的な画像や動画や音声のような情報のみならず、生物としてより身体的に無意識のうちに感知している情報も含めて捉えようと思う姿勢は、ピーター・モービルの『アンビエント・ファインダビリティ』西垣通さんの『情報学的転回』を、あるいは、石井裕さんのタンジブル・ビッツというコンセプトを紹介したときから一貫しているつもりですが、最近、アフォーダンス系の本を読むにあたり、ますます身体的な情報というものに考える機会が増えてきています。

「身体的な知としてのインテリジェンス」の続き
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2007年03月14日

定義と解釈:情報社会を生き抜くためのスキルの開発

2日間連続で会社に泊まったので、眠くて仕方がない状態ではありますが、「定義と解釈」について思うところがあったので、とりあえずメモ書き程度の気持ちでエントリー。

コンプライアンス重視とか、ブログの書き手の意図の勘ぐりだとか

昨今の流れで、企業をはじめとする組織にはコンプライアンスをこれまで以上に重視しなくてはならない方向に社会は動いています。
最近ですと、プロ野球球団・西武の裏金問題とか、TBSが格闘技番組で架空のネット掲示板を映したりという話など、メディアが流すニュースでもそうした報道が目立ちます。

それとまるで足並みを揃えたかのように、個人同士のレベルでも、ブログなどの情報に対して、他人が「釣り」だとか「ネタ化」だとかと、その情報の真偽とともにブログの書き手の意図を勘ぐったりする傾向が見られたりします。

情報の正しさを個人が判断する必要性

よく言われることは、情報社会において情報の正しさは個人が判断する必要があるということです。
企業のコンプライアンスの姿勢を問う報道も、ブログの書き手の意図の勘ぐったりすることも、「情報の正しさを個人が判断」しようとする心がけの表れなのでしょうか?

この場合、騙すほうも悪いが、騙されるほうも悪いというのが基本姿勢になるのでしょう。これはこれでいいのかなと思います。
ただし、騙すつもりがなく、組織や個人の解釈が一般に正しいとされる定義とは違っていた場合などはどうなのでしょう。そんなことは日常茶飯事、往々にしてあることだと思います。

定義と解釈

もちろん、これを勝手な解釈をして間違ったほうが悪いとカンタンにいえるケースもあるでしょう。しかし、すべての場合がそうであるわけではない。定義自体が曖昧だったり、知られていなかったり、そもそも定義が存在しなかったり、何が正しいのか判断できないケースも数多くあります。

この場合、情報を発信する側も、それを受けて何がしかの解釈を行う側も、情報の正しさを判断する上で依って立つべき確固としたものはないということになります。

「定義と解釈:情報社会を生き抜くためのスキルの開発」の続き
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2007年02月16日

専門家と一般人の差?

昨日のオービックのセミナーで話したことで、まだ、このブログでは扱っていなかった点をあらためてまとめてみます。

テーマとしては「専門家と一般人とのギャップって、かつて考えられていたほど、実はないんだね」ということです。

個人ブログって結構知識の宝庫ですよねという話

これはすでにHuman Information Interface labのほうの「埋もれていた知識、情報の独占」でも書いたことなんですけど、先日、知り合いとメッセンジャーで話していて、「いまって個人の人もブログを使って自分の持っている知識を提供してくれるからいいよね」という話題になりました。

実際、そのとおりである程度、お気に入りのブロガーの方のブログをチェックしてるだけでも結構いろいろと知らなかったことを教えてもらえます。で、そこで得られる知識がこれまでTVや雑誌、書籍などを通じて専門家から得ていた知識と遜色があるかというとそんなことはなかったりもします。

それなりに仕事をしてれば専門的な知識は持ってるはずですよねという話

考えてみれば、それぞれ自分の仕事をする中での専門的な知識をブログに書いてくれていたりするわけですから、実はそれって当然だったりもします。
すべての人がそうでないにせよ、普通に仕事をしていれば、ある程度、専門的な知識は誰もが持っていたりすると思います。
そうでなきゃ、仕事はスムーズに進みませんから。

そういうブロガーの方がこれまでの専門家と違うところといえば、これまでの専門家がプロとしてコンスタントに知識を発信し続けるスキルをもっていたのに対して、個人がブログで書く場合、コンスタントに専門的知識を発信することはすくなくても義務ではないというところなんじゃないでしょうか。

「専門家と一般人の差?」の続き
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2007年02月09日

「石井裕」とか「タンジブルビッツ」とかのキーワードで訪問数が増えた理由は?

なんか今日はやけに「石井裕」とか「タンジブルビッツ」「タンジブル」とかのキーワードでの流入が多いなと思ったら、日経ビジネス オンラインにこんな記事が載ったからなんですね。

レールが引かれ、分かりやすい目標ができると、皆一斉に取り組むことは得意だが、競争の新しいルールというか、土俵自体を作るたぐいの仕事は、日本からは本当に出にくい。その理由が、そもそも評価システムというか風土の違いである。

石井裕さんというのは、マサチューセッツ工科大学(MIT)のメディアラボで、新しいコンピューターのユーザー・インターフェイスとして「タンジブルビッツ」なるものを研究されている方。
なんで、その人の名前や「タンジブルビッツ」というキーワードでこのブログに訪問してくるかというと、前に「タンジブル・ビッツ」というエントリーでそのことを紹介したからです。
興味のある方は読んでみてください。ちょっとユーザーインターフェイスというものの概念が変わりますよ。

ちなみに、上の日経ビジネス オンラインの記事は、茂木健一郎さんがキャスターをつとめるNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組からのもののようです。
石井さんが登場するのは、2月8日(木)午後10:00〜10:43だそうです。あんまりテレビは見ないけど、ちょっと見てみよっと。

P.S.
そういえば、昨日といい、今日といい、二日連続で検索キーワード関係のエントリーが続きました。
あんまりキーワードはちゃんと見ないけど、たまに見ると発見がありますね。

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2007年02月04日

いっしょに時間を過ごすというのはどういうことなのか?

先日、「今ある世界と別の世界を想像してみるスキル」というエントリーを書いて以来、別の世界とはいったい何だろうか?と考えています。そして、それは逆に、では、同じ世界とは何だろうか?ということも含めて。

世界はすくなくとも人間の数だけある?

ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか/入不二基義」でも取り上げたような、「世界に関する記述の限界としての<私>」という視点からみれば、おそらく、人間の数だけ世界が存在するということが可能でしょう。
もちろん、人間以外にも生物はいて、それぞれに固有の世界をもっているはずですから、本当はもっと多くの世界が存在するということも可能です。

ただ、ここでは人間以外の生物の世界を想像することは、ほかの人の世界を想像する以上にむずかしそうなので、便宜的に「人間の数だけ世界がある」という程度にとどめておきます。

距離の隔たり、時間の隔たり

普段、いっしょに過ごしている人同士であれば、「人間の数だけ世界がある」ということはほとんど気にすることはないかもしれません。
しかし、距離的に遠く離れた違う国の人のことを想像してみれば、その人と自分が別の世界に住んでいることは、案外、すんなり理解することができるのではないかと思います。

同じことが時代を隔てた人の世界を想像する場合でもいえるかと思います。江戸時代の人の世界を、僕らは別の世界に暮らす人だと考えるでしょう。
昨日、富沢ひとしのマンガ『特務咆哮艦ユミハリ』を取り上げましたが、そこでは本来、別の世界に隔てられた異なる時代(戦国時代、明治、大正、昭和、そして、B.C.1万5千年)の人々が2040〜50年代の日本で場を共有してしまうがために生じた戦争のなかを生きる物語が展開されます。

この話は一見、SF的なありえない話です。
しかし、普段、僕たちが接することができる次のような事柄と比べて、それほど特異なことでしょうか?
「いっしょに時間を過ごすというのはどういうことなのか?」の続き
ラベル:時間 世界 認知
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2007年01月09日

間接民主主義から直接民主主義へ

不可視な結びつき、匿名のアイデンティティ」から「Wisdom of Crowds によって構成される自己」へ、そして「岩壁に絵を描きはじめる前と後の違い、ということで」に展開したWisdom of Crowdsうんぬんの話を「間接民主主義から直接民主主義へ」という空想に落としこんでみたら、どうでしょう? いや、政治の話とかじゃなくて、もうすこし人々の暮らし全般をカバーするものとして。

代表制による知、専門家による知

Wisdom of Crowds に対置されるのは、例えば、専門家による知だと思うわけ。実際、原本ともいえるジェームズ・スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』でも、そのようなストーリーが展開されていましたよね。専門家による知というのは、ある意味では、代表制みたいなものかなと思うわけです。

いや、もちろん、本当は何も代表していませんよ。専門家は。しかし、世の中的には何かを代表しているかのように扱われる。しかも、実際のその人の専門領域を超えた拡張された範囲においてまで。そして、『「みんなの意見」は案外正しい』でもあったように、その範囲の拡張が専門家による知をあやうくさせてしまう。ここがまぁ、問題とされるわけでしたよね。ようするに、専門領域そのままでは、全体をカバーできないわけです。必ず隙間ができて、そこに対する何らかの知が求められてくるということですね。

「間接民主主義から直接民主主義へ」の続き
ラベル:Wisdom of Crowds
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2007年01月08日

Wisdom of Crowds によって構成される自己

不可視な結びつき、匿名のアイデンティティ」に、ちささんからトラックバックをいただきました。

最近日々感じることは、インタラクションすることではじめて自身を認識できるということです。「人は一人では生きていけない」というのは、経済的な面や生活の面からだけでなく、進化・成長の過程においても重要なことだと思います。それは認知発達学的にも脳科学的にも生物学的にも証明されてきているように思います。

「インタラクションすることではじめて自身を認識できる」。
そのとおりだと思います。そして、認識できるだけでなく、同時に「インタラクションすることではじめて自己が構成される」。

認識することと自己を構成することは同時に行なわれるのであって、そう考えることで現在の脳科学、認知科学では意識を理解するのに「脳内に棲みつく小さなホムンクルス」を想定する必要がなくなっています。

Wisdom of Crowds によって構成される自己

この「インタラクションすることではじめて、自身を認識できる=自己が構成される」ということを、別の表現で示すなら、自己そのものが Wisdom of Crowds によって構成されているといえるのではないかと思っています。

これは昨日の「人生においてタギングは不可避」というエントリーでも書いた「あなたは誰かに記号をつけているつもりでも、それは実は、同時に自分に記号をつけているということでもある」ということにも関係する話です。それは実際の行動として、ソーシャルブックマークでのタギングやブログでの言及などを行なわない場合でも、自分である対象に対して何らかの感覚、認識を行なった時点でタギングを行なっているといえ、それは対象に対するタギングであると同時に自身に対するタギング、タギングされた自己の構成にほかならないからです。

そして、脳はその意味において群集の叡智(Wisdom of Crowds)どころか、あらゆる環境、そして、生物誕生以来の途方もない時間をもった歴史とつながっているし、それなしでは現在のような意識、自己を構成することもありません。その意味で、自己そのものが Wisdom of Crowds によって構成されているといえるはずだと僕は考えています。

「Wisdom of Crowds によって構成される自己」の続き
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2007年01月07日

不可視な結びつき、匿名のアイデンティティ

ちささんは大西さんが言うところの「コミュニティ内で匿名であることによりアイデンティティが持てない」という問題をどうも捉え間違っているのではないでしょうか?。

人はコミュニティのなかでしか自分の顔を確かめることができないわけで、匿名であるということは個人としてのアイデンティティを持てないということであり、それを貫いて生きていくというのは辛いことです。コミュニティの復権は、個人のアイデンティティの復権の問題でもあり、いったん失われたコミュニティを社会が取り戻すには時間がかかるとはいえ、きっと社会的なニーズとして大きなトレンドとなってくるものと思います。

しかし、コミュニティ内でのアイデンティティがないことを「匿名」というのも少し違和感があります。そして「コミュニティ」の考え方にも違和感を覚えます。

そもそもアイデンティティというのは、自身と誰かほかの相手との相互関係のなかで生まれてくるもので、一般に信じられているように、個のなかに存在するものではありません。

ヒトの意識が脳の中に閉じ込められたことはいまだかつて一度もない

その意味でちささんが引いてらっしゃる梅田さんの次のような言葉にも実は盲点があるんです。

これまでは人間の脳という物理的な制約の中に閉じ込められてきた個人の経験や思考が、これからは他の人たちとゆるやかに結びつき始めるのである。

個人の経験や思考が完全に「脳の中に閉じ込められた」ことなんて、いまだかつて一度もないということがここでは語られていません。
梅田さんはおそらくわかって書いてらっしゃるのでしょうけど、「これからは他の人たちとゆるやかに結びつき始める」というのは、実は本当に「結びつき始める」わけではなくて「元々結びついていたものがあらためて結びつき始めたように見えるようになる」という可視/非可視の問題でしかないはずです。

アイデンティティそのものが社会的コミュニティを前提としている

ようするに、Web2.0的なものがあろうとなかろうと、脳が外部環境や他人の視線や意識との結びつきを回避することは不可能であり、脳が生み出す意識そのものが外部環境や他人の見る目によって成立している以上、結びつきなくして自己のアイデンティティそのものが成立しません。
このことは幼児期の自我形成の時点でも顕著に見られることです。これについては「私的インフォメーション・アーキテクチャ考:13.言葉の前に・・・、言葉の後に・・・」で紹介していますので、こちらを参照ください。

そもそも人間的な高度な意識や自己というアイデンティティの認識そのものが社会的生活を強いられたヒトという種が、その社会的生活を円滑にするためには自身のアイデンティティ、そして、他者のアイデンティティの認識ができたほうが優位であったために自然淘汰的に獲得したものであるはずです。アイデンティティそのものが社会的コミュニティを前提とした機能である以上、そこに別のコミュニティやアイデンティティを想起する必要はないと思います。

ここにおいて、大西さんがコミュニティにおける匿名性の問題をアイデンティティと関係付けて語ってらっしゃる意味が見えてくるわけです。

「不可視な結びつき、匿名のアイデンティティ」の続き
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人生においてタギングは不可避

これ、お気持ちはよくわかります。

人というものは誰しも一言で説明が足りるような単純な像物ではないし、単純化しようとするとどうしても「記号」に頼らざるを得なかったりするものです。例えば「職業」であったり「好きなスポーツ」であったり「98年MBA取得」であったりはたまた「乗ってる車」であったり・・・。でもそういう「わかりやすい記号」で人は人を理解しようとしてしまう。そこに一番の危険な「分かったつもりの見当違い」が潜んでるのだと。
さつませんだい徒然草:タギングについて(ディスプレイの向こうには生身の人間がいる、ということ)。

確かに、僕自身、自分の書いたエントリーにつけられたタグを見て不快に感じたりすることもあります。それは自分自身の評価ではなくてもそう。たとえば、「あとで読んだら消す」みたいなタグをつけられることがあるんですけど、それってちょっとがっかりじゃないですか。

その点、さつませんだいさんがおっしゃてる「ディスプレイの向こうには生身の人間がいる」っていうことを知るというリテラシーは今、そして、今後ますます重要になってくるだろうなと思います。

記号は本来的に恣意的で構成的なもの

それでも、それに続く結論は「たぶん、それではダメ」って思います。

だって、これを読んでくださっているアナタは、もしかしたら僕に何か記号を与えているかもしれないし、その記号がなんであれ僕の全てをあらわしてはいないはずだからです。 

そういう怖さもあって、僕はなるべく人に安易に記号をつけないように心掛けています。ただ、記号をつけるっていうのは(ってかそもそもこの言い方がおかしいんだけど)、無意識かつ自然なことなので、このことについては余計に考えます。
さつませんだい徒然草:タギングについて(ディスプレイの向こうには生身の人間がいる、ということ)。

ここでさつませんだいさんが誤解されているなと感じるのは、そもそも記号というものは対象をありのまま表すものではないし、第三者には無意味であることも当然ありうるということだと思います。
多くの人が共有可能な記号というのは、実はすべての記号のうちのほんの一握りしかない。ほとんどの記号がその記号を扱う主体によって意味が限定されています。

それが以前から紹介しているパースの記号論でいわれていることですね。



記号は解釈項である主体が、対象の認識のために主観的につける表象にすぎない。いま読んでいる下條信輔さんの『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』という本にも、バーテンダーがグラスの形とそれに応じたカクテルの種類の対応によって、何十もある注文を覚えることができる例が示されていて、その記憶の仕方もバーテンダーの主観的ルールに依存していて、第3者には無意味なものでしかないことが指摘されています。

対象と表象は固定された1対1の関係が成立するものではなくて、むしろ、主体である解釈項によって、その都度、関係性が恣意的に構成されるものなわけです。つまり、ヴィトゲンシュタインのいうところの「言語ゲーム」を記号は逃れられないんだと思います。
「人生においてタギングは不可避」の続き
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2006年12月24日

想像力とは間違いを創造的に活用することに他ならない

茂木健一郎さんは『クオリア降臨』のなかで次のように書いています。

物質である脳から意識という主観的体験の個別が生まれるミステリを解明しようとしている現代科学は、徐々に、文学が従来扱ってきた領域に接近しようとしている。その、科学と文学の汽水域の中に、科学の未来も、そして恐らくは文学の未来もある。
茂木健一郎『クオリア降臨』

と。

科学と文学

『クオリア降臨』を読んだのはもう1年以上も前のことですが、ずっとこの文章が気になっていました。よくある理系だ文系だという議論が無意味に感じてしまうのは、この言葉に対する共感があるせいだと思っていました。数学者であるロジャー・ペンローズが意識や心、そして、量子重力論を語るのに、計算不可能性をもちこむことに惹かれるのきっと同じ理由なのだと思います。

そして、先日読んだ『生命記号論』にもこんな心を惹かれる言葉がありました。

失敗をしてしまう傾向は、この世界におけるすべての発展の根底に横たわる。
ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』

そして、

想像力とは間違いを創造的に活用することに他ならない。
ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』

と。

ホフマイヤーは、この言葉をギュンター・グラスがサルマン・ラシュディにあてた次のような言葉を元にして書いています。
「私たちの物語は暴露ではない。それはものごとを人前に出すことなのだ。正義の勝利ではなく、失敗のおかしさを糧にしている。作家は勝者の側の人間ではなく、失敗を頼って生きており、敗者、殊に永遠の敗北者に信頼を寄せるのだ」
この言葉を読んだホフマイヤーは、DNAがエラーを犯すことそのものが生命をアメーバ以上のものに、サルとともにいたヒトの祖先がものごとを心に描きはじめたこと自体が、人間の誕生につながったことだと考えます。

「想像力とは間違いを創造的に活用することに他ならない」の続き
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2006年11月09日

分類することとメタデータをつけること

「コンテンツをその属性によってカテゴライズされているか?」

この文章って一見正しいように思われますが、厳密にいうと間違ってます。

分類する(カテゴライズする)というのは、こういうこと。

categorize

つまり、ある集合を、その種類によって分けるのが分類。
この例だと、色の種類で分けているだけですが、さらに人型の大きさが違えば、もう一段階分けることができるでしょう。
そうやって階層構造をつくれるのが分類。

一方で、属性っていうのはどちらかというとタグ付けやメタデータの付与という文脈に位置づけられるもの。むずかしい言葉で言うなら述語論理に基づくもの。ちなみに先ほどの分類は、集合論ですね。
前にも書いたけど、ようは数学的には異なる理論体系に属するので、かんたんには融合することができないわけです。

属性付けはこういうことですね。

tag

分類もタグ(メタデータ)付けのいずれも、検索性、ファインダビリティを高めるのに利用されますが、別物なわけです。

関連エントリー
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2006年11月07日

自分自身で考え、定義してみること

昨日の出張はなかなか有意義でした。
ブランディング関係の仕事でいったんですが、お客さんが積極的にWebブランディングというものを学んでいて、自分たちでそれを定義しようという姿勢がすごく刺激になりました。
すこし前から僕もブランド・アーキテクチャを定義しようとひそかに考えていたのですが、昨日もお客さんの口から「ブランド・アーキテクチャ」、「ブランドの構造化」という言葉が出てきてびっくり。やっぱりWebだったり、ITだったりやっている人の側から「ブランディング」を考えようとすると、そこに行き着くんでしょうね。すごく納得感がありました。

さて、僕はいまのWeb2.0的な時代においては、こういう風に社会的には明確に定義が行われていないものを、自分自身で考え、自分なりに定義していく姿勢ってすごく大事だと思っています。
僕自身、すこし前から「私的インフォメーション・アーキテクチャ考」というシリーズもので、IAについて自分なりに考えてみようと思って、エントリーを書いているわけですが、同じように、連載形式でやってらっしゃる方が2人いらっしゃるので、ちょっとご紹介。

私的インタラクション・デザイン考:Chaaasan's Cafe ~ What's inspire me ? ~
ファシリテーションを専門にしているちささんの考えるインタラクション・デザイン論。現在のところ、第6回まで進んでいます。

私的ITアーキテクト考:arclamp.jp アークランプ
Java系のアーキテクトであるyusukeさんのITアーキテクト考。こちらはまだはじまたばかりですが、これからの展開が楽しみです。

こういうことをブログで展開するかどうかは別として、よくわからないものをほったらかしたり、誰かが定義してくれるのを待っていたりしないで、自分が興味を持っているものに関しては、自分でいろいろ調べて、それをベースに自分で考察し、自分でそれを定義していくというのは絶対大事なことだと思います。そして、できれば自分なりにとはいえ、まわりの意見なども考慮することで思考に厚みを増していくという意味では、ブログって適したメディアなのかなと思います。最初に書いたお客さんの例では、ブログではなく社内勉強会という形で進めてらっしゃったようなので、きっとそれもありです。

とにかく「学ぶ姿勢が大事」だなんて思うだけじゃなく、実際にそれを行動に移すことですね。

 
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2006年10月11日

ゲームやテレビの世界の複雑さを非線形的に認知する

『創発―蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク』の著者でもある、スティーブン・ジョンソンの『ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている』(訳者の1人は山形浩生!)を読み始めました。

ゲームやテレビに対する「わかったつもり」を破壊する試み

ゲームやテレビ、映画やインターネットなど、通常、世間的にはあまり人間の知的鍛錬のためのツールとは認められていないこれらのものが実はちゃんと「タメになっている」ことを示そうとしている本。らしい。
「らしい」というのはまだ、最初の1章のゲームのところと、次の「テレビ」の途中まで読んだだけの段階だから、判断を保留しようと思ってのこと。
でも、途中まで読んだ限り、この試みで著者は、本などを知的教養のツールとして認める際の文脈を、別の文脈に変えてゲームなどを眺めることで、その試みを行おうとしているのはよくわかった。
まさに、ゲームなどを既存の本からの知識享受と比較して、「わかったつもり」になっている既存の批判に対して、別の文脈を導入することで「よりわかった」状態にもっていこうとしているのでしょう。
(参照:「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因/西林克彦」)

「ゲームやテレビの世界の複雑さを非線形的に認知する」の続き
ラベル:複雑系 認知
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2006年09月30日

本屋にあるもの

唐突ですが、本屋にあるものってなんでしょう?

本を分類する

もちろん、本があります。
本にも種類がたくさんあって単行本や文庫本、そして、連載マンガのようにシリーズ化されたもの、そして、定期的に発行される雑誌。写真集や地図などもあります。

こうした本を選びやすくするために分類があります。
amazonの和書のカテゴリーを参照すると、

  • 文芸
  • ノンフィクション
  • ビジネス
  • 科学&テクノロジー
  • 実用&暮らし
  • 教育・語学
  • こども
  • カレンダー
  • アート&エンターテイメント
  • 医学
  • 新書・文庫
  • 雑誌
  • バーゲンコーナー
  • 成人向け

といった分類が成されています。
また、この中がさらにサブカテゴリーに分類されていて、たとえば、「ビジネス」というカテゴリーであれば、

  • ビジネス・経済・キャリア
  • 投資・金融・会社経営

と分けられ、さらに「ビジネス・経済・キャリア」のサブカテゴリーが、

  • 経済学・経済事情
  • 産業研究
  • マーケティング・セールス
  • 経理・アカウンティング
  • 金融・ファイナンス
  • オペレーションズ
  • マネジメント・人材

などに分類されています。

しかし、こうしたカテゴリーを見るとわかるように、ある種の本は複数のカテゴリーにまたがることがあります。
たとえば、僕も執筆させてもらった『マーケティング2.0』などは、「ビジネス」−「ビジネス・経済・キャリア」−「マーケティング・セールス」に分類することも可能ですし、Web2.0の絡みで、「科学&テクノロジー」−「コンピュータ・インターネット」のどこかに分類することも可能でしょう。実際、リアルの店舗でもビジネス書のところにあることもあれば、コンピュータ関係の書籍がある場所にも置かれていることもあったり、両方に置かれている場合もあります。

「本屋にあるもの」の続き
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2006年09月28日

読みやすさとわかりやすさ

時々、自分の書く文章が読みづらいんじゃないかと思うことがあります。あまりに多くのことを欲張って詰め込もうとうとするのが読みづらくなってしまう一番の原因かなと思ったりします。かといって、「捨てられない」人なので、どうしても思いついたことを詰め込もうとしてしまうし、些細なところも気になって説明しようとしてしまうので、なかなか簡潔な文章は書けませんね。

本の読みやすさとわかりやすさ

ところで、最近、本を読んでいて、その本がわかりやすいということと読みやすいというのは違うものなのかなって思いはじめています。

たとえば、いま『祖先の物語』を読んでいるリチャード・ドーキンスの本はどれも、僕にとってはとても読みやすいんです。平易な言葉遣いもそうですが、全体的な話の進め方なんかもテンポがあって非常にいいなと思うんです。起承転結が明確なんですよね。
あとよく読む人ではダニエル・C・デネットやジャレド・ダイアモンドの本は比較的、いつも読みやすいなと思いますし、そう感じる人の本は自然と読んだ本の数も多くなります。先日、読み終えたピーター・アトキンスの『ガリレオの指』も読みやすい本でしたね。

反対に最近読んで面白かった本で若干読みにくさを感じたのは『物理学の未来』だとか『歌うネアンデルタール』といったところでしょうか。

でも、そうかといって、こうした本の内容がわかりにくかったかというとそうでもないんです。特に『物理学の未来』なんて、扱っている内容が僕自身に馴染みがなかったり、そもそも非常に理解しづらい事柄も扱っていたりするんですが、それを非常にわかりやすく紹介してくれていました(「組織的現象としての"相"、そして、市場動向」でも同様のことを書いていますね)。

その反対に、読みやすい本にあげたピーター・アトキンスの『ガリレオの指』なんて、決してわかりやすい本ではなかったかなと思います。わかりやすくしようと非常に努力してくれたのはわかりますが、それでもリチャード・ファインマンの「量子論の何たるかを知っていると言う人は、量子論を理解してはいない」という有名な言葉にもあるように量子力学をわかるのはむずかしいし、アトキンスが対象にした非常に深い科学の驚きに満ちた世界を理解するのは、そう簡単なものではなかったのかなと思います。その意味で『ガリレオの指』は何度か読み返したいなと思う一冊でした。
(参考:ピーター・アトキンス『ガリレオの指』書評エントリー



「読みやすさとわかりやすさ」の続き
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2006年09月22日

創発の時代

May the Force be with you」へのトラックバック(手動w)としていただいた、ちささんの「刺激力」ってエントリーはすごく共感できました。

このブログのタイトルでもある『what's inspire me ?』これを私は常日頃探し求め、そして周りの人をインスパイアしたいと思っています。インスパイアしか出来ないとも思っています。コーチングやファシリテーションも『刺激』の技術と言ってもいすぎではないとおもっています。。汎化された知識を使う力であり、利用し、創発につなげる力。そしてそれは誰も想像だにし ないインスパイアの連鎖となって、脳内でニューロンが発火するように発火のパターンは無限にあり、伝播していくのではないでしょうか。

脳という器官において知能をつかさどる大脳新皮質がパターン認識をする器官であることは、Palmの生みの親としても知られるジェフ・ホーキンスの『考える脳 考えるコンピュータ』で詳しく述べられていますが、「刺激」というのはまさにこの脳のパターン認識を活性化し、その人自身が過去に体験した/学んだ記憶とのつながりから、「気づく」「わかる」といった創発的現象が脳内の無数のシナプスの集団で生じるのかなと思ったりします。
それとおんなじようなことが、ちささんが「物理学の未来/ロバート・B・ラフリン」のコメントとして書いてくれた「「組織」とは「場」に影響され「個」が変化していく、その様をよく受け止めてチームをデザインしていきたいと最近思っています。」という場合の「場」における個々人間での創発的現象を経た「個」の変化にも通じるのかなと思います。
昔からのナレッジ・マネジメントなどでも「場」が重視されますが、これも集団的組織化の現象としてとらえると面白いかな、と。

ロバート・B・ラフリンが言うように、
人生の組織体と電子の組織体が似ているのは、偶然でも錯覚でもなく、物理なのだ。
ロバート・B・ラフリン『物理学の未来』

という意味で、物理的な意味で人間の集団における組織化現象を考えてみようというのが、ここ最近の僕の関心事だったりするわけですが、今回のちささんのコメントおよびトラックバックだったり、先日お会いしたYusukeさんが話していた「パターン」によるつながりの創出みたいなものにもすごく刺激を受けています。

こういう刺激が何かを創発してくれそうに思えるいまのこのWebの時代ってなかなかいいものだなとあらためて思いました。

 
posted by HIROKI tanahashi at 01:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月19日

「私にしかできない仕事というのは組織では幻想」というのは幻想

実はすでに、こちらのほうが幻想といえるようになってきているのではないでしょうか?

ところがこの「私にしかできない仕事」という希望は結構曲者である。実のところ企業や組織というものは「誰がやっても仕事の結果や内容が同じ品質になる」ということを目標の一つにしているものだ。考えてみれば当たり前で、ある人が辞めたから注文を受け付けられないとか、ある人が風邪で休暇を取ったからといって製品の品質が落ちたなんてことがあっては困るのである。

顧客の要求に応じたサービス提供を考える際に、アウトプット要求とサービス要求を区別して考えることがあります。

  • アウトプット要求:顧客視点で最終製品あるいはサービスとして受け取るものそのもの
  • サービス要求:顧客視点で最終製品あるいはサービスを受け取るまでの間に、どのような扱いを受け、どのように対応されたかというサービスのプロセスに関わるもの

例えば、東京からシアトル経由でニューヨークに飛行機で出国したと仮定すると、顧客のアウトプット要求は、ニューヨークに無事に到着することになります。その際、出国手続きで1時間も待たされたり、乗り継ぎ便が大幅に遅れてシアトルで何時間も待たされたりすれば、アウトプット要求は満たされていてもサービス要求は満たされていないということになります。

「誰がやっても仕事の結果や内容が同じ品質になる」必要があるのは、アウトプット要求とせいぜいサービス要求でも万人が必要とする、あるいは、あっても困らない共通部分であって、経験価値の時代だとか、これだけパーソナライズがもてはやされる時代においては、むしろ、それより上の層では同じ品質であることなど、顧客は望んでいなくて、自分に合ったものを望んでいるといえるのではないでしょうか?
つまり、それは必要条件であって、十分条件ではまったくない。
そうなると「誰がやっても仕事の結果や内容が同じ品質になる」なんてことを目標にしているのは、単に企業のマーケティング的怠慢であって、それは「誰がやっても」同じだけ品質が悪いことを目標にしているのと変わらないのではないかと思います。
共通のプロダクトの層の上に、カスタマイズ可能なモジュール層をおき、さらに人間的な顧客接点においては、個が生きるサービスの層を置いた形の価値提供プロセスを設計してもおかしくはないでしょう。

私は所詮Web屋で、Web上でのマーケティングといった範囲でしか、自信をもった価値提供はできませんので、せめて企業のWebサイトをEmployee Generated Mediaとして個が生きるものにしましょうというくらいしかいえませんが、結局はその他のサービス提供においても、「私にしかできない仕事」をいかに可能にするかがこれからの企業の課題になってくるのではないかと思っています。もちろん、評価制度などの人事制度の再構築も含めて。

そうじゃないんでしょうかね?

関連エントリー

ラベル:組織 企業
posted by HIROKI tanahashi at 04:03| Comment(6) | TrackBack(2) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月11日

バウンダリースパナー

「分ける」ことは「分かる」こと。そして、「分かる」という意味において、メリットは常にリスクをともなう両刃の刃となりえます。

「分ける」ことには様々なリスクも伴います。境界線を作るので形式化される際に抜け落ちることもあります。また原理主義にも陥りやすいです。その意味でモービルは「バウンダリースナイパー」の大切さを訴えたとも思っています。

何かを「分かる」ことは「分かる」ことの外部を見えなくすることでもあります。その場合の外部は、分かっていることの内部で理解された境界の両サイドにつくられた内外ではなく、文字通り、「分かる」ことが意識の外に追いやった外部です。

その意味において、ちささんがコメントしてくれたように、「分かる」ことで形式化されたクラスターの外部に出るためには、別のクラスターとの連結を可能にする要素が必要になります。

ピーター・モービルは『アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅』の中で、ネットワークにおける人と人とのインタラクションを分析する尺度として、活動性、媒介性、近接性の3種類をあげた上で、次のように述べています。

これらの尺度は個人、組織、企業のいずれのレベルでも適用可能である。またこれらは、トポロジ最適化のためにコンピュータネットワークに適用したり、ファインダビリティ改善のために情報システムに適用することもできる。なぜなら、上記の例で言う「バウンダリースパナー」はたちまち、図書館やGoogle検索で探し出せるドキュメントになることがあるからだ。
ピーター・モービル『アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅』


バウンダリースパナーとは「境界連結者」と訳され、ネットワークにおいて異なるクラスター間をネットワーク的に結びつけるハブの役割をするノードを指します。

モービルは続けて、次のようにも述べます。

「バウンダリースパナー」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:28| Comment(2) | TrackBack(1) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする