新しいことばのデザインパターンの追求

すこし時間があきましたが、前回書いた「版(version)の危機」の話の続きをしましょう。 前回は、電子書籍とさらにその先の時代を考えると、「大量生産」や「版」という概念が危機を迎えるのではないかという話をしました。活字印刷という、あらゆる機械生産に基礎をおく大量生産の原型が、電子書籍という形態によって危機を迎えるとともに、様々な物理的形態を持ったプロダクトがソフトウェア化するなかで、プロダクト自体の生産が機械生産による大量生産とは異なるものになってきています。 マクルーハンは『メディア論―人間の拡張の諸相』のなかで、"同じ物"という僕らが当たり前と思って過ごしている概念に、こんなエピソードを紹介しています。 マーガレット・ミードが報告しているところによると、同じ書物を太平洋のある島に持っていったら、大変な興奮を生じたという。現地人たちは本を見てはいたのだが、それぞれ一冊しか見ていなくて、その一冊一冊がみな違うものだと考えていたのである。 マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』 「大量生産」という概念を当たり前に思っている僕らは、ある本が世の中に複数存在するのを当たり前のことだと思っていますが、活字文化を取り入れていない人びとにとっては、それは興奮の対象です。 ただ、いまの電子書籍化やプロダクトのソフトウェア化に向かう傾向は、僕らを再び「現地人たち」に似た概念をもった社会へと移行させているように思います。つまり、「同じ物」が存在することが当たり前でない社会…

続きを読む

版(version)の危機

皆さんはとっくに気づいていたことかもしれませんが、僕は昨夜、電子書籍のことを考えていてようやく「そうか。何かあるひとつの状態をオリジナルの版として、その複写物を生み出すという形態をとる、あらゆる大量生産の基本が瓦解するのがこれからか」ということに気づきました。 そう。「版(version)」という概念が危機を迎えているのです。出版は言うに及ばず、そのほか、オリジナルの型を複製する大量生産により富を生み出すという仕組み自体が危機を迎えているのが現在なのではないかと感じます。 世界はどんどんオリジナルとコピーという区別が意味をなさなくなる時代に進もうとしています。 マクルーハンは『メディア論―人間の拡張の諸相』で「活字による印刷は複雑な手工芸木版を最初に機械化したものであり、その後のいっさいの機械化の原型となった」と言っています。 つまり、活字印刷というのは機械生産を基礎におく大量生産の原型でもあるというわけです。 この言葉を、現在の電子書籍とさらにその先のWebも電子書籍の境もない時代にあらためて捉え直してみたら、冒頭の気づきに至った訳です。

続きを読む

すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである。

すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである。 これはマーシャル・マクルーハンのメディア論の根幹をなす考えです。 マクルーハンがいうメディアは、いわゆる本や新聞、テレビやインターネットなどを指すだけでなく、言葉や数、道路や車輪、家や衣服を含めたすべての人工物を含みます。つまり、すべての人工物は人間の機能および感覚を拡張するとマクルーハンは考えているのです。 ここで着目すべきは、メディアが人間の機能および感覚の拡張であるとすれば、新たなメディアを使いはじめることで人間そのものが変化するということでしょう。 ずっと前に、このブログで「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」と書きましたし、その考えを中心として、僕は『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』を書いたわけですが、まさにもの=人工物をひとつ増やすということは、人間自身を変化させ、その変化が必然的に人と世界の関係を変化させるのだということを理解することは、とても大事だと思います。 そう。人間中心デザインのプロセスが、なぜ循環型のプロセスとなっているかを根源的な意味で理解するためにも。 なぜなら、すべての人工物が「人間の機能および感覚の拡張」であるのだとすれば、あらゆるデザインは人間中心デザインが中心においている「人間」そのものをデザインの結果として拡張、変化させているのに他ならないわけですから。

続きを読む

アーカイブされるものと流れて消えるもの

最近、TwitterのTLを眺めていて不思議に思うことがある。 Twitter上で語られる言葉というのは「書かれた言葉」というより「話された言葉」みたいだと感じるのだ。 内容がそうだというのではない。たわいのないおしゃべりのような内容だから「話された言葉」のように感じるのではない。 TL上を言葉が流れすぎていく、その様が「話された言葉」のように感じさせるのだ。 それと同時に、文字というのは目の前に残り続けるものだという当たり前のことにあらためて驚かされたりする。そこにある言葉。ずっと、そこにあるなんて、という驚きだ。 日常生活での会話のように、Twitter上の言葉は蓄積されることなく、僕の目の前を通り過ぎていく。文字という視覚的な表現を用いた言葉であるのに、それは音声という聴覚的表現による言葉のように、現れては消える。 もちろん、実際には、Twitter上の言葉はちゃんと保存され蓄積されている。蓄積されているのだから、あとで見返すことも当然できる。だが、何気なく使っている限りでは、Twitter上の言葉はTLの上に次々と現れては消える人びとの声のように感じられるのだ。

続きを読む

メディアはメッセージである

マーシャル・マクルーハンのあまりに有名すぎる格言、「メディアはメッセージである」。 これほど有名ではあるが、その意味はほとんど理解されていないか、誤解されているの言葉というのも珍しいのではないだろうか。 マクルーハン自身は、著書『メディア論―人間の拡張の諸相』のペーパーバック版の序文にこう書いている。 「メディアはメッセージである」というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。この新しい環境の「内容」は工業の時代の古い機械化された環境である。新しい環境は古い環境を根本的に加工しなおす。それはテレビが映画を根本的に加工しなおしているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ。 マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』 映画に対して新しいメディアとして登場したテレビだが、その「内容」として放映されるのは、依然として古いメディアである映画と変わらないことをマクルーハンは指摘する。それゆえに、新しいメディアであるテレビの時代になっても実際に人びとが見ているのは、相変わらず古い人間環境にあった映画なのだ、と。 このメディアの「内容」と、マクルーハンが「メディアはメッセージである」という場合の「メッセージ」とははっきりと区別しなくてはならない。

続きを読む

情報は本当に増えているのか?

人間の側からみると、情報というのは本当に深くおもしろいものだと思う。 一般的に思われているような固定された情報などは一切なくて、情報を自分のなかで認知したと感じる人の行動の文脈次第でいくらでも変化する。 だから、そこに情報があるかないかなどは客観的には判断できない。 それは常に感じとる人間との相互作用的な関係性のなかに置かれているから。 言語活動の本来の働きは世界を規定したり説明することではありません。自らに固有の世界をうまずたゆまず崩してはまた築き続けることです。 マリナ・ヤグェーロ『言語の夢想者―17世紀普遍言語から現代SFまで』 言語でさえ、それを用いて表現するものを「規定」したり「説明」したりするのではなく、たゆまぬ崩壊と構築を繰り返す変化のなかに、人間を配置するための道具なのだ。 情報を受け取るという受動的な存在であるというよりも、もうすこし能動的に、けれど、すべて自分のなかだけで行うというよりもまわりの環境と相互作用的に、自己の内部で情報を生成・発動させる人間。 情報というものを考えの対象にする際は、この情報を発動させる人間というものをしっかりと意識していたい。 確立された言葉やイメージなどだけを情報と見たのでは、人間の認識や行動というのは、まったくわからない。 そうした視覚的に固定された情報だけでなく、音や肌触りなども含めて人と情報の関係を見ることがいま大切なのではないだろうか。

続きを読む

インストールされた想像力

外の世界とは無関係に、人の頭のなかで世界が拡張していく。 認知科学者ドナルド・A・ノーマンの「よいデザインの4原則」のひとつに「よい概念モデル」という項目があって、そこでは実際の道具が採用している働き方や意味のモデルが、それを使おうとするユーザーが頭のなかで想像する概念のモデルとができるだけ乖離なく一致していることが、ユーザービリティ的な価値観でみた場合の「よいデザイン」の条件とされるが、これもそもそも「外の世界とは無関係に、人の頭のなかで世界が拡張」できる想像力が、現代を生きる人間にはインストールされているがゆえのデザインの課題である。 僕ら現代人はこの内面にある想像力を生来のものと考えがちだが、「現代を生きる人間にはインストールされている」と書いたとおりで、実はそうではない。 以前に「身体感覚で「論語」を読みなおす。/安田登」というエントリーの中でも、 心が誕生して500年。孔子が活躍した時代は、まだ人びとは心をうまく使いこなせていなかっただろう、と著者はいいます。そんな時代に孔子が提示した論語(まだ書物になるまえですが)は、きっと最初の心の使い方のマニュアルだっただろうと著者は考えるのです。 というようなことを書いたが、ある時代以降、外界に対して自由な抵抗力をもつことも可能になる「心」というソフトウェアが、社会的レベルでインストールできるようになったという技術史的な変遷を経てはじめて、人間は「想像力」というスキルを獲得したのだろうと僕は考えている。そして、その「心」のイ…

続きを読む

自然から切り離された視覚空間で

マーシャル・マクルーハンにとっての遺作、そして、子であるエリック・マクルーハンとの共作である『メディアの法則』がとてつもなく興味深い。 何が興味深いというと、ギリシアの時代のアルファベットの誕生が視覚による図の分離を生み出したという指摘、がだ。 まず、視覚のほかの感覚とは異なる機能として、次のようなことが指摘される。 ロバート・リブリンとカレン・グラヴェルが言っているように、われわれの視覚の第一の機能は、図をその地の上に孤立させることである(『感覚を解読する』)。これは視覚だけがもつ希有な特徴であることが文化の痕跡のなかにも見られる。視覚以外のどんな感覚も、高鮮鋭状態、すなわち強く作用するよう強いられた場合において、図を孤立させ切り離すことによって地を抑圧するというようなことはできないのである。 マーシャル・マクルーハン、エリック・マクルーハン『メディアの法則』 視覚においては、図をみるとき、地は消失することがありえる。アルファベットのような文字を読む時などは特にそうで、うしろの紙や画面が気になったら、文章などは読めない。 しかし、ほかの感覚、たとえば聴覚ではそのようなことは起きえず、ひとつの音が前景化して聞こえる時でも、うしろの騒音が聞こえなくなるということはない。触覚などはそもそもひとつの部分が図として前景化することなど起きないだろう。 さらに、視覚以外の感覚であれば、図と地は常に固定された関係にあるのではなく、感覚器をもつ人間の行動や注意の焦点の当て方によって、…

続きを読む

わからない言葉がでてきたら

他人にわかる言葉で話したり書いたりというのは大切だ。それはあらためていうまでもない。 ただし、それを実行するのは容易ではない。 どんなにそれを意識したとしても言葉を出す側は、必ずしも相手のわかる言葉を選択できるとは限らない。相手がどの言葉がわかり、どの言葉がわからないかを正確に知っていることなどないのだから。 容易ではないというより、必ず相手にわかるように話すということは不可能だ。 その場合、わからない言葉を聞いた側がどうするかが問題となる。 さて、そうした場合、あなたはどうしているだろうか?

続きを読む

コミュニケーションの無目的性と身体性

仕事でユーザーの行動観察調査をしていて一番感じること。 それは日常行われるコミュニケーションというのは、僕らが普段思っているようには目的的でもなければ、言語的でもないということです。 内容を伝えたり、話を聞くという行為はもちろん行われている。でも、それは電子メールでやりとりしたり、電話で話をするといった言語の交換とはかなり異なるものであることが、固定観念を取り去ってよく観察してみればわかる。発話内容の交換といった目的だけで行われているのなら、たぶん、コミュニケーションなどしないであろうと思えるほど、その実態は無目的で非言語的な様相を示しています。 それは人間的ですらなく、ことばの使用というところを除けば、実はかなり動物的な行為であるような気がします。

続きを読む

インプットとアウトプットのバランス

最近ぜんぜんブログが書けてないですね。 書くことかないのかというと、むしろ、その正反対でインプットの量も質も絶好調と言っていいくらいだし、そこから分析してみえてくる事柄もどこまで見えてきてしまうんだろうという感じで、ここで書いていた内容からははるか遠くまでたどり着けた感じはしています。 それなのに、なぜブログでのアウトプットが減っているかというと、ひとつにはブログ以外にアウトプットしなくてはいけないことがたてこんでいるせい。それに時間と体力を割かれているというのがひとつ。 もうひとつは相変わらずパソコンの調子が悪いのが要因。書こうと思うときとパソコンの調子がよいときのタイミングがあわないんですよね。

続きを読む

なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか

人間にとって自己実現っていうのは、一体何なんでしょうね。 自己表現欲だとか、他人とコミュニケーションしたがる(特に自分の話を聞いてもらいたがる)というのは何でしょう。 「古代研究―1.祭りの発生/折口信夫」ですこし紹介したように、古代においては天皇が宣る祝詞で予祝(ことほぎ)されたことがらは、現実になると考えられていました。これは言霊信仰につながる話で、天皇のことばだけでなく、「見れど飽かぬ」という『万葉集』に50近くあるといわれる表現が「見る」ことで自然のもつ生命力を肉体に宿らせると考えられていたように、古代人にとっては、ことばや見ることで対象を模倣することでその対象のもつ力を自らに宿らせることができると考えられたのは「古代人にとっての装飾」でも紹介したとおりです。 こうした表現で、自分自身の欲望を実現できるとする信仰は古代の人びとに限ったことのように思われがちですが、どうもそうではなく現代に生きる僕らもすくなからず保持しつづけている信仰であるような気がしてきました。 そうでなくてはブログを書いたり、tiwitterでつぶやいたり、着飾ってみせたり、誰かにおしゃべりせずにはいられなくなったりという、自己表現欲というか、コミュニケーション欲の説明がうまくできないような気がするのです。

続きを読む

声と文字(あるいは本というメディアについて)

「手書きであることを突き詰めれば、原稿用紙は不要だろう」 と鈴木一誌さんは『ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン』のなかでいう。 「原稿用紙は、活字組版のために、出版者と印刷所の文選工の字数の数えやすさと判読の助けとして開発された」とも続けています。 そして、また、 「手書きかワープロかとの問いは、原稿用紙を捨てられるかどうかの判断をも迫る」という。 原稿用紙という存在すら忘れていた僕らには、ハッとさせられる指摘です。 あるいは、今福龍太さんは、 「オーラリティの世界に反響する音声としての言葉は、一度文字記号のなかに落ち着いてしまうと、ミメティックな能力が失われる」 と『身体としての書物』で声にだされたことばのもつ模倣的(ミメティック)な性格を指摘すれば、 酒井健さんは、『バタイユ』で、 「言葉と生の一致。言葉が言い表そうとしている生の動きをその言葉自体が帯びているということ。その言葉に生の動きが満ちていて、耳にするとその生の動きが伝わってくるということ。武勲詩の聴衆が、朗誦される詩の言葉に求めていたのはそのようなことだった」 とバタイユが愛した中世の吟遊詩人とその聴衆を結ぶ詩の口誦を評しています。

続きを読む

人間能力向上のための教育について

今日は「第2回ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ」の反省会でした。 そこで話題にあがった内容をちょっと僕なりに展開。 話題になったのは「サービスが行き届きすぎている」という話。 何から何まで手助けしてくれ、人間が自分で考えて自分の力でやるという機会が減っているために、普段の生活のなかでいろんな人間的能力を向上する機会が失われているのではないかという話でした。「人的資源の生態学的問題」で書いた「地球資源の問題が社会的問題であるのと同様に、社会的レベルでの人的資源の不足という問題として社会生態学的に捉える必要があるのではないか」ということともつながる話。 どういうことか、いくつか例をあげるなら、 キーボードを叩いて変換すれば文章は書けるので、漢字が書けなくなった携帯電話にメモリーされた電話番号をつかって電話をかけるので、電話番号を覚えなくなったPowerpointなどのプレゼンテーションソフトを普段使っているために、いざ何かをある程度見栄えよく一枚の紙に手描きでまとめあげる作業をさせると空間構成力がなっていない描画になってしまう といったあたりが、それにあてはまります。

続きを読む

テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか

いまの時代って、もしかたら単純に情報過多というよりもテキスト情報過多といったほうがいいのではないのかなんて思います。 言い方を変えると文字情報過多。さらに言い方を変えると、一人の人間が摂取する情報全体の割合のなかで占める文字情報の比率がもしかしたら高くなっているんではないかと思います。 「方法依存症」というエントリーでは、方法論の情報収集ばかりを行う割には、自分でその方法を試してみてそこからのフィードバック情報を自分で活かすことが少ない人を方法依存症という風に仮に呼んでみました。 ただ、それは方法論の話に限らず、もっと一般的な話としてみた場合でも、テキスト化された情報の収集には熱心な割に、自分で何かを実際に体験してみて得られる生の情報を役立てるということが相対的に少なくなっているのではないかと思うんです。

続きを読む

荒・狂・若

実はこれ、ひとつ前の「感受性と行動力」のエントリーの一部として書いたのですが、長くなりすぎたので別エントリーに切り出し。なので、あわせて読んでいただくと、これ幸い。 その「感受性と行動力」では、次々と入ってくる情報を適宜処理できないのは情報を行動に結びつけて捉える力が衰退しているからで、その結果、情報から何かを感じ取る感受性そのものも鈍化していっているのではないかという仮説について書きました。 端的にいって、おとなしすぎるのかなと思います。 また、慎重すぎるし臆病すぎる。すべてを頭だけで理解しようとするし、頭で理解できることとできることの差がわかってないのかなという気もします。 そんな完璧にコントロールされた状態ではなくて、すこし荒れたところがあっていい。 いま、私たちの誰もが何かに抑圧されているか、無関心をよそおっています。ほんとうに言いたいことが、なかなか言えないようになっている。(中略)本当に荒れるべきときに、荒れることができなくなっているんではないか。 松岡正剛『連塾・方法日本1』

続きを読む

感受性と行動力

風邪をひきました。発熱と咳で月・火曜日はほとんど動けず、どうしても外せない仕事の所用に顔を出した程度。ほとんど寝て過ごしました。今日は熱も37度前半に下がってすこし楽になりました。 というわけで、外部からの風邪の菌の侵入に身を犯されるのはつらいですが、その一方で、僕らはもっと外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力をしていかないといけないのでは、と思います。 まず、情報に対してよそよそしすぎてはいけない。 そして、インプットばかりでアウトプットがないといけない。 外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力というのは、インプットの問題ではなくアウトプットのほうの問題です。受け入れるというのは実はいったん引き受けた情報を編集・変換して外に出す作業をいうのだと思います。 「なぜシャッフルディスカッションがブレイクスルーにつながる場合があるのか?」でも書いたとおり、膨大な情報を前に右往左往としたままになるのではなく粗雑な形でもいいのでそれをいったんストーリー化して自分自身で咀嚼することが大事。物語化・文章化することで、仮想的にでも情報を追体験できる。情報を再生して、情報化される前の生の情報を感じることができる。それには自分自身で情報に動きを与えるよう、編集・変換作業を経ないといけない。情報を感じる、身に引き受けるためにはインプット以上にアウトプットを重視しないといけないのだろうなと感じます。

続きを読む

自分が見たこと・聞いたことをちゃんと言葉にできるようになるために

「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない 前篇・後篇」を通じて書かなかったこと。 それは、なぜ自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできないのかの理由ですね(まぁ、暗示的には書いていたつもりですけど)。 その理由をいまあらためて書くとすれば、  判断そのものに使う言葉がすでに情報に侵されているのだから、  その当の言葉を使って思考するしかない自分が、  自分の思うように情報の取捨選択のコントロールをすることなど、  そもそもできるわけがない となります。 僕はいまの多くの問題が言葉というものがいまだかつてないほど、弱ってしまっていることに端を発していると思っています。言葉が弱れば、人間そのものの思考が弱るのは避けられません。 言語は、人間心理を起動させるソフトウェアである。したがって、言語に大きな作用をもたらすテクノロジーはなんであれ、身体・感情・心など、私たちの行動全般に影響をもたらす。 デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』 言語は人間心理を起動させるソフトウェア。そのソフトウェアが弱ってしまっているんですね。

続きを読む

自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・後篇

日々大量に生み出される情報を個々人が自分で判断して取捨選択をしていくなんてことは本当に可能なのだろうか? 可能だとすれば、なぜ最近繰り返し起こっている、誰かが何か間違いを起こせばよってたかってボッコボコに叩きのめすような社会的潔癖症、免疫不全のような風潮がはびこってしまうのか? そうした問題を考えていくために、前回の「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇」では、境界、境目というものに着目して、中世から近世にかけての日本文化における河原という境目の意味、そこに集まる芸能の民の話や江戸期に入ってからの芝居小屋や遊郭が囲い込まれた悪所の話をしました。

続きを読む

自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇

マーシャル・マクルーハンの後継者ともいわれるデリック・ドゥ・ケルコフは、『ポストメディア論―結合知に向けて』のなかで、「テレビの心理効果のなかでもっとも知られていないのは、それが個人の情報処理の文脈とプログラムの両方を外部化させてきたこと」だと述べています。 また、 テレビは、刺激とそれに反応するまでの間合を排除することによって、私たちから意識的に情報処理をする時間を奪ってしまうのである。 デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』 といい、本や新聞などのテキストを読む場合のような情報のスキャニングのコントロール権を人間の側がもっておらず、あくまで画面に外部化されたスキャニング済みの映像を網膜に照射されているのだとしています。情報処理されることなく、直接網膜に、そして、身体に植えつけられるというわけです。そこに心的な判断が働く時間的な猶予は与えられない、と。 いっぽうで、コンピューターについては、こんなことを書いています。 今日の認知心理学者につきまとう課題といえば、コンピュータを使うとき私たちは主人なのか奴隷なのか、あるいはその両方かという問いかけだ。すなわち、プログラミングの手順は、純粋の機械にだけ適用される外側の出来事なのか、あるいは厳密な操作が課されることによって、私たちはほかならぬプログラムの拡張装置になっているのではないかという問題である。 デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』 これは先日「近代以前の文字はどう読…

続きを読む