2012年03月01日

記事紹介「フロー化するテクスト体験(動画で見る「新しい知の織物の形」)」

1つ前に書いたエントリー「「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること」の続編ともいえる話を、会社のほうで書いているブログ「Think Social Blog」のほうに書きました。


フロー化するテクスト体験(動画で見る「新しい知の織物の形」)

ルネサンス以降、近代の歴史において中心的テクストとして君臨してきた印刷本の観念の形を越えて、さらに印刷本の影響から免れることができていない従来のWebページや電子書籍なども越えて、新しい参加型テクスト体験を可能にする新たな知の織物=テクストの形を求めているのではないかと思います。それはかつて建築空間がテクストメディアそのものであったように、空間的で、リアルタイム的で、動的なアクションをともない、参加者とのインタラクションが可能な形のテクストになるでしょう。

以下では、そんな新たな参加型テクスト体験を予感させる新しいテクストの形をいくつか事例を動画の紹介も交えてみていくことにします。

といった観点から、プロジェクション・マッピングやKinect、3Dインフォグラフィック事例を紹介しつつ、読書という傍観者的なテクスト体験から、テクストへの積極的な参加を可能にする新しいテクストの形について考察を行なっています。

サービス経済、参加型の経済モデルへの変化と同時進行で進展する、そうした新しいテクストの形の模索について、議論のきっかけになればと思っております。
ご一読いただき、議論に参加いただければ幸いです。
タグ:テクスト
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2012年02月23日

「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること

最近、会社のほうで進めているプロジェクト「Think Social」では、デザインシンキングのアプローチを用いて行なうサービスデザインをテーマとして扱っていますが、その一方で、やはり個人的な関心としては、人間の知の在り方や価値観を左右する人工物全般としてのメディアに強い関心があります

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例えば、電子書籍的なものもその一部。
ただし、世間的には、講談社が今後の書籍の刊行を紙と電子版を同時に行なうという方針を発表したニュースが取りざたされたり、『WIRED』創刊時の編集長ケヴィン・ケリーがインタビューで「10年後には「本」そのものは基本的にすべて無料になる」というようなことを言ったりするなど、相変わらず電子書籍の話題には事欠かないのですが、僕自身はどうもこの電子書籍関連の話題に不満をもっています。
というのは、どうも現在の電子書籍に関する議論は、次の引用にあるような蓄音機が出始めたころのトンチンカンな話に似ていると感じるのです。

はじめ蓄音機がどんなに的はずれな受け止め方をされていたかは、ブラスバンドの主宰者であり作曲家であるジョン・フィリップ・スーザの発言によく表れている。彼はこんな意見を述べている。「蓄音機が出てきたことで、声の訓練はすたれてしまうでしょう! そうなったら、国民の喉はどうなります。弱くならないでしょうか。国民の胸はどうなります。縮んで、肺活量が減ってしまわないでしょうか。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

先のケヴィン・ケリーのインタビューにも「テキストが登場したときも人は文句を言ったものだ。人びとの記憶力が悪くなると言って。そして次第に詩の朗読は廃れていった」という話が出てきますが、普通の人は、新しいメディアの形態が登場したときにどうしても古いメディアの価値観でそれを判断してしまう傾向があります。
同じようなことは印刷本が登場した時にもやはり起こっています。

活字による印刷がおこなわれるようになって、最初の2世紀は、新しい書物を読んだり書いたりしなければならないという必要よりは、古代および中世の書物を見たいという欲求のほうに、むしろ動機があった。1700年にいたるまで、印刷された書物の50%以上が古代あるいは中世の書物であった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

すでに書かれた手書きの本を印刷するという可能性以外に、最初から印刷本として出版するための新しい書籍を企画し著作するという可能性に気づいたのは、印刷術が使われるようになって200年も経ったあとのことだというのです。
それとおなじことがいま「電子書籍」という語で称される概念に対して起こっているように感じるのです。

「「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること」の続き
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2012年01月20日

過去についての知識は馬鹿や間抜けや敵が書いたものに由来している

今、『薔薇の名前』や『フーコの振り子』などの小説でも知られるイタリアの中世学者・記号学者であるウンベルト・エーコと、フランスの劇作家・脚本家であるジャン=クロード・カリエールという、いずれも勝るとも劣らぬ大読書家にして蔵書家の2人による対談集『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』を読んでいます。
いや、正確には「今読んでいる」というより、思い出したときに手に取ってはすこしずつ読み進めているという感じでしょうか。
その意味では、本って、自分が好きな時にゆっくりしたペースで読めばいいのだというのをあらためて思い出させてくれる本です。



さて、その本のなかでウンベルト・エーコがこんなことを言っています。

じっさい、過去を再構築するとき、ただ1つの情報源に依拠するのは望ましくありません」と。
さらにエーコは「時間がたつと、ある種の文書はどんな解釈も撥ね返すようになります」と続けます。

そして、そのことを説明するのに、こんな例を出します。

20年前、NASAかどこかの米国政府機関が、核廃棄物を埋める場所について具体的に話し合いました。核廃棄物の放射能は1万年−とにかく天文学的な数字です−持続することが知られています。問題になったのは、土地がどこかに見つかったとしても、そこへの侵入を防ぐために、どのような標識でまわりを取り囲めばいいのか、わからないということでした。
2、3000年たったら、読み解く鍵の失われた言語というのが出てくるのではないでしょうか。5000年後に人類が姿を消し、遠い宇宙からの来訪者たちが地球に降り立った場合、問題の土地に近づいてはいけないということをどうやって説明すればよいでしょう。
ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

ある意味では、いまの僕らにとっても気にかかる内容です。
でも、ここでの問題は核廃棄物の是非ではなく、情報の伝達可能性に関してです。
「過去についての知識は馬鹿や間抜けや敵が書いたものに由来している」の続き
タグ:書籍 歴史
posted by HIROKI tanahashi at 20:15| 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月30日

「書く」ことの終わりに

気持ちはわかります。でも…。

私たちのキャリア形成において、「ブログ」の重要性ほど見過ごされているものは無いように思います。
ブログを書くことは、人ひとりのキャリアを大きく左右しうるものであり、今後時代が進めば、「ブログくらい書けないと社会人としてヤバい」時代が訪れるとさえ、私は思っています。

僕としても、ブログを書く人が「ブログくらい書けないと社会人としてヤバい」と言いたくなる気持ちはわかります。僕も気持ちとしては、そう考えたくなる面もあります。

でも、です。
でも、きっとそんな時代は訪れないでしょう。

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そう思えるのは単に過渡期だから、です。
だから、過渡期という短いスパンで見て、「ブログくらい書けないと社会人としてヤバい」と一部の人が思いたくなる時代が来るというのはアグリーなんですが、もうすこし長期的にみると本質的な変化はそこではなく、ブログを書けないとヤバイと「書く人」が思えてしまうような危機が別にあるのです。

そう。むしろ「文章を書く」ということ自体がいま危機に瀕しているからこそ、そう思えるのでしょう。
「文章を書く」ことの意味=価値が失われはじめているからこそ、「書く人」の気持ちに保守的な思いが働いて「書けないとヤバイ」なんて反動が生じているのではないか、と。
(ようするに元の記事とはなんら関係のないことを書こうとしているので、元記事との関係性があると思って読みはじめた方はここで読むのをやめたほうが正解です。)

「「書く」ことの終わりに」の続き
タグ:ブログ
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2011年08月02日

事件でありできごとである話しことばでは人は客観的で分析的な思考をするのがむずかしく、メタ認知を働かせて研究やデザインをすることができない

最近、文字をもたない話しことば文化の人びとと、書き文字文化、さらには活字文化を経た僕らの思考の違いについて、このブログ上やFacebookページでいろいろと書いていますが、いろんな本を読んだり、それを元にあらためて自分で考えてみたりすればするほど、自分たちと話しことば文化の人びとの違いに気付かされます。特に思考や世界認識の違いに関しては気付けば気付くほど、その大きなギャップに驚きます。
文字というモノに固定される言葉と、発せられたと同時に儚く消える声によることばでは、まるで思考の方法や世界の見方が異なってくる。今日もまた、そんな話をいくつか書き散らしてみようと思います。



まず、最初に現代に生きる僕らにとっては、自然なものと考えられる「研究」という思考活動について。

『声の文化と文字の文化』のなかで著者ウォルター・J・オングは、話しことば社会に生きる人びとは研究をすることがないと言っています。
いや、正確には「することがない」のではなく、「できない」のだといいます。
というのも、研究という人間の活動も、そもそも書くという行為から生じる分析力によってはじめて可能になるからです。まさに分析対象のデータをポストイットなどに書き出して、さまざまな組み合わせを検討しながら思考し、思考そのものを分析、総合の対象にするKJ法ように…。

「事件でありできごとである話しことばでは人は客観的で分析的な思考をするのがむずかしく、メタ認知を働かせて研究やデザインをすることができない」の続き
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2011年07月13日

猛スピードで積み重ねられる過去と不確定な未来に板挟みにされてすでに虫の息である現在において、新しさも懐かしさも感じられなくなった社会で僕らはどうしていくべきか?

新しい技術でつくられたものよりも古い技術でつくられたもののほうが好きです。とにかくクラシックな作りのものに惹かれます。懐かしさからではなく、新鮮さから古いもに惹かれている僕がいます。

もう5年以上、その傾向が続いているのですが、手作りで丁寧に作られた品や機械を用いていても今とは比較にならないほど丁寧な作りのものに惹かれます。陶磁器や織編品、木工、竹編品などの民藝・工芸品が好きなのは以前からお伝えしていたとおりですし、身につけるものでも好きなブーツは100年以上の歴史のあるブーツメーカーのものだったり。も19世紀後半から1930年代くらいのものをリプロダクトした商品のもつ独特の縫製やディテールに魅了されます。現行品にはあり得ないほどの細かい運糸で縫われたシャツやジーンズ。洗うと縮む綿の生地と縫製糸が独特のパッカリングを生んで、それが着込めば着込むほど、愛着のある味になります。
逆にいうと、新しいテクノロジーを使ったガジェットや流行のファッションなどにはまったく興味がもてなかったりします。



それから、よく考えると、本の好みに関しても似たような傾向があり、新刊のビジネス書などに興味を惹かれることはほとんどなくて、読むのは、折口信夫さんや白川静さん、宮本常一さん、マーシャル・マクルーハンランスロット・L・ホワイトのようにすでに亡くなられた方の作品か、扱うテーマが現代ではなく古代からせいぜい19世紀までのものだったりします。

ただし、古いものが好きだといってもノスタルジーや懐かしさからそういうものに惹かれているのではありません。なにしろ、ほとんどの対象を僕自身がリアルタイムに経験してきていないような時代のものなので、そもそも懐かしさなど感じようもないものです。

では、なぜ古いものに惹かれてるかといえば、むしろ、僕にとっては、古い技術でつくられたもののほうに現在普通につくられているものにはない新しさを感じるからだし、本の場合でも自分たちが普段考えたのでは思いつかない発想が時代の違う場所でのほうが見つかると感じられているからです。つまり、僕は自分が新鮮に感じられ、かつ共感をもてるものを探すのに、時間軸的な新しさ/古さとは無関係に選びとろうとしているのです。それは少なくとも僕にとっては社会的に新しくつくられたということが必ずしも新鮮に感じられないということを意味します。
この話のうちの「社会的に新しいものが必ずしも新しく感じられるものでない」ということに関しては、おそらく僕より若い世代の人たちのほうがより当たり前のように感じていることだったりするのではないでしょうか?

最近、ソーシャル化する社会を話しことば社会化する世界であると述べてきましたが、今日のこの話に関しては、まったく逆で、書き言葉社会のひとつの完成形が現在のこの新しさも懐かしさも欠いた世界であるという視点からすこし雑多に述べてみたいと思っています。

「猛スピードで積み重ねられる過去と不確定な未来に板挟みにされてすでに虫の息である現在において、新しさも懐かしさも感じられなくなった社会で僕らはどうしていくべきか?」の続き
タグ:アーカイブ
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2011年07月08日

無文字社会に生きる人びとに目を向けると、文字通り、リテラシー=読み書き能力が人間の思考や社会生活を変えるのだということに気づかされる

今日、昼食を食べながら、ふと思いました。
話し言葉社会に生きるロシア人スパイは、果たしてクックパッドを使うことができるのだろうか?と。



昨夜「話しことば社会への回帰だろうか?」という記事で話し言葉社会に生きるロジア人スパイは頭の中で考えることと身体を通じて外部化する行動が分離していないがゆえに、裁判で「現実に行なったスパイ行為のためというよりは、頭のなかでたんに意図したという廉で自分の罪状を全面的に認めた」という話を紹介しました。
昼食を食べながら気付いたのは、ロシア人スパイが思考と行動が分離していないのならクックパッドは使えないはずだということです。だって、食事をすることを考えることは彼らにとって実際に食事をするのと変わりません。であれば、きっと情報を検索しているだけでお腹いっぱいになってしまうはずです。

逆にいえば、僕らのように情報検索や収集活動が可能なのは、印刷文化以降の社会に生きる僕たちがすでに思考と行動が完全に分離しており、行動することを別として想像することが可能だからだということです。

「無文字社会に生きる人びとに目を向けると、文字通り、リテラシー=読み書き能力が人間の思考や社会生活を変えるのだということに気づかされる」の続き
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話しことば社会への回帰だろうか?

ここ数日、頭のなかでまとまりきらないけれど、何かこれはことばにしないといけないと感じるようなもやもやした現象に意識が奪われています。もやもやしてるのでなかなか記事にできずに困っているのですが、これはすっきりとまとまった話に落とし込むのは、相当時間がかかるだろうと断念し、今日もやもやのままをことばにしようと思います。なので、いつにもまして読みにくい文章だとおもいますが、そのあたりはご了承を。



さて、以前、「版(version)の危機」というエントリーで書いたように、僕はTwitterやFacebookのような最近のソーシャルメディアのコミュニケーションを、おしゃべりだと思っています。話しことばを使う、会話をするという意味でおしゃべり。
そして、共感のメディアだとも言われるソーシャルメディア。その「共感」を生む要素のひとつとして「他人同士が同じ時間を過ごす」ことがあるのではないでしょうか。

僕は、いまのソーシャルメディアはおしゃべり空間だからこそ、たがいに離れた場所にいながら同じ時間を過ごしているような感覚から醸成される共感が重視され、かつ私有より共有、競争より共創が好まれる空間になっているのではないかと思っています。そして、それが社会そのものにも影響を与えている。もちろん、それだけが唯一の要因ではないにしても。

「時間や会話のリアルタイムな共有のみで共同体的連帯というのが果たして生まれるのか? それにはまず会話や時間が共有される場への愛着が必要ではないか」といった考えもあると思いますが、僕はおそらく逆だと思っています。共有された時間とおしゃべりでつながった共有があってはじめて、その場やそこで話題にあがった物事への愛着が生じるのでしょう。「好きだからいっしょにいるようになった」のではなく、「いっしょにいたから好きだという思いが芽生えてきた」恋人同士のように、時間やおしゃべりが共有されるからこそ、共感=Likeが生まれてくるのだろう、と。

すこし前に書いた「ソーシャルメディアという寄合空間」で、民俗学者の故・宮本常一さんが伝える「話しに花がさく」村の寄合空間の話しことば空間と、ソーシャルメディアの流れることば空間の類似をみたのもそんな思いがあったからです。

話しことばが生み出す連帯感はそのくらい官能的なものではないだろうか。
そして、あくまでUI上に表示されるテキストであるTwitterやFacebookの情報群も、そのフロー的性格によるおしゃべりに似た印象が話しことば社会同様の官能的で呪術的な様相を復活させはじめてはいないだろうか?
そんなことを思いつつ、今回は話しことば社会の特徴をすこし紹介してみようと思っています。

「話しことば社会への回帰だろうか?」の続き
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2011年07月04日

人間や社会にどんな知的ソフトウェアがインストールされているかを知り、それが変更されると何が変わるかを想像できるようにすることの必要性

はい。今までで一番長い記事タイトルじゃないでしょうか?



最近、読み始めたウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールという2人の博覧強記の愛書家の対談『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』の序文はこんな文章ではじまっています。

「これがあれを滅ぼすだろう。書物が建物を」
ヴィクトル・ユゴーのこの名言は、『ノートルダム・ド・パリ』に出てくるパリのノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロの言葉です。おそらく建築物は死にませんが、変貌するある文化の象徴という役割を失うでしょう。「それに比べて、思想が書物になるのには、わずかの紙とわずかのインクとペンが一本あれば充分だということを思えば、人間の知性が建築を捨てて印刷術を選んだからといって、どうして驚くことがあるだろう」。
ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

西洋の知の歴史に疎い人は、この文章を読んで頭にクエスチョンマークが浮かぶかもしれません。
なぜ、書物が建築を滅ぼすのか?と。
しかし、このブログでは以前からことあるごとに紹介してきたように、西洋の歴史において建築は、書籍同様に知や記憶のための情報メディアでした。

マクルーハンがいうように、メディアは人間を拡張させるのであって、それは人間や社会のある部分を「強化」し、ある部分を「衰退」させ、またあるものを「回復」させると同時に、ある状態を「反転」させます。そうした人間や社会を変化させるメディアの変転というものを考えるための準備として、ひとつのメディアの移り変わりを知っておくことは、ウェブやインターフェイスなどのデザインに関わる人には必要不可欠なことだと思っています。

というわけで、今回はすこし印刷本以前の情報メディアである、建築や写本の時代の人びとについて、現代の印刷本を経て日々ネットの情報にアクセスしている現代の僕らと比較する形でみていくことにします。

「人間や社会にどんな知的ソフトウェアがインストールされているかを知り、それが変更されると何が変わるかを想像できるようにすることの必要性」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:59| 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月29日

ソーシャルメディアという寄合空間

今日、会社のほうのブログの「逆パノプティコンから寄合方式へ」という記事にも書きましたが、現在、そして、これからのソーシャルな時代における企業と顧客あるいは企業と従業員の関係は、かつての村の寄合方式で見られたような「互角な立場での話し合い」ができる「同じ共同体の成員」という意味合いを色濃くしていかないと互いにうまくいかないだろうなということを強く感じています。

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顧客がすでにどの企業と付き合うかをカンタンに選べ、かつ不満をもつ企業にこれまたカンタンに物申すことができるようになっているのと同様に、そのうち、企業と従業員、企業とその取引先の関係性においても間違いなくこれまでのような企業優位の形は崩れて、従業員も取引先も企業に対して対等に物申せる状況が訪れる流れになっています。

つまり、それがソーシャルテクノロジーによって実現された逆パノプティコン社会です。

政府や大企業をはじめとする既存の権威は、情報の占有・統制を通じて、その権威を構築・維持してきた。だが、ウィキリークスやフェイスブックが情報の透明化を究極まで進めることによって、既存の権威は崩壊し、新しい権威体制が再構築されていく。その可能性が示されたのである。

そもそもパノプティコンとは何かというと、18世紀のイギリスの思想家、ジェレミー・ベンサムが提案した全展望監視システムをもつ刑務所や学校、病院などの施設の構想のことで、その後、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』という著書のなかで転用して、管理、統制された社会システムの比喩として用いたことから知られるようになった概念です。すべての収容者の個室が中央にある看守塔に面するよう円形に配置される形で設計されたパノプティコンの監視システムにおいては、収容者同士はお互いの姿を見ることもできないし、看守塔もブラインドがかかっており看守の姿も見えないようになっている一方、看守の側からはすべての収容者を監視することができるというように、非対称な監視・管理ができることが特徴となっています。
Web2.0なんて言葉が流行ったのよりもさらに前の時代までは、企業と顧客との関係、そして、企業と従業員の関係はこのパノプティコン的な関係にあったといえます。

ところが、それに対して、ユーザーの側が常に企業を監視することができ、その結果をユーザー間で自由に簡単に共有できる現在のソーシャルメディアが普及した環境は、まさに逆パノプティコンの状況です。
もはや企業がかつてのようなパノプティコン状態を望むのは不可能で、せめて逆パノプティコン状態を逃れ、顧客や従業員に互角に向き合えるようにするにはどうすればよいかを考えることが企業には必要だというのが、『グランズウェル』の共著者として知られるシャーリーン・リーが『フェイスブック時代のオープン企業戦略』で主張するところです。

「ソーシャルメディアという寄合空間」の続き
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2011年06月17日

2つの正しさがあるのではないだろうか。

2つの正しさがあるのではないだろうか。



ひとつは科学の実験のようなだれもが正しい手順で正しい方法を用いれば正しい結果が再現可能なような正しさ。
もうひとつはスピード感のある動きのなかで、その動きに参加している者たちがほとんど疑問も抱くことなく一体感を感じられるような正しさ。

イメージするのは、前者が印刷本の世界、後者が写本の世界です。あるいは、録音された音源とライブ演奏とみてもよいでしょう。
いずれにせよ、後者の正しさは誰かひとりが判断できるものではなく、場に参加する人たちのコミュニティにより判断されるのが面白いと思っています。
そして、僕がこうした違いに興味を持っている理由は、人びとが互いにつながって、ある意味お互いにつねに監視された状態にある現在のソーシャルの世界が、つねに人びとが同一の場に参加しあっている状態とみることもでき、それゆえにより後者の状況の色合いをより濃くしているのでないかと感じているからです。

「2つの正しさがあるのではないだろうか。」の続き
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2011年05月20日

今起こっていることを読み解くには「パラダイムを認識し分節する能力」が必要

一般の人にはある程度、古さをもったもののほうが人気があって、新しすぎるものがなかなか一般の人に受け入れられないのは、古今東西変わらなかったりするのではないかと思います。

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新しいものが受け入れられないのは、それを評価する視点を持たず、かつ自分で評価の視点を新たにつくり出すなんてことは普通の人にはなかなかできないからであって、その点、古いものが評価されるのは、評価の枠組み自体がすでに共有されているからだったりします。

つまり、言い換えると、人はそれだけ評価の枠組みが定まらない(ようするに、何だかわからない)ものが苦手だということです。
わからないものに対してみずから積極的に新たらしい評価の枠組みをつくろうとして、あれこれ考えたりすることが苦手ということです。
苦手というか、どうしたらいいかわからないのでしょうし、場合によっては、どうにかすべきことだとさえ認識していない人もいるのでしょう。

「今起こっていることを読み解くには「パラダイムを認識し分節する能力」が必要」の続き
タグ:パラダイム
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2011年04月27日

ソーシャル時代のワークスタイルを支える「討議」のスキル

ソーシャル時代、つながった世界でのワークスタイルとして、マス・コラボレーションやコ・ワーキングのような新しいワークスタイルが注目されるようになってきています。

従来のように1つの企業に所属して、組織の決めた仕事を同じ組織の同僚とともに従事したり、はたまた複数の組織が契約のもとにジョイントして事業を展開するやり方とは異なり、新しいワークスタイルはそれぞれは小さな力ながら、個々人がP2Pのピアとなって自らが「できること」を他人と共有しながら1つの大きな仕事を成し遂げるスタイルが、「「所有」から「利用」へ」などで紹介したプロダクト=サービスのシェアのビジネスモデルの普及とともに増えてくることが予想できます。
つまり、商品やサービスがシェアできる仕組みがあるのなら、仕事やそれに従事する人材、その人材のスキルの一部も、必要なときにいつでもシェアできるような仕組みが可能になるのではないかということです。

もちろん、こうした動きはすでにウィキペディアやIT分野のオープンソースコミュニティでは現実になっていますので、そうした領域に携わる人にとっては何をいまさらということなのかもしれません。それはZipcarSolarCityなどに代表されるようなリアルな財のシェアモデルへの注目が、すでに市場で当たり前のように認知され利用されているクラウドサービスの側から見たらいまさら感を感じるのとおなじでしょう。
ただし、クルマやソーラーパネルのようなリアルな財の共有や、IT分野に従事しない人びとがリアルなものを生み出すのに共同作業を行うのは、デジタルな情報のみを扱うコラボレーションやクラウドサービスよりも1つハードルが高かったのも事実でしょう。そのハードルを超える解決策がようやく出始めてきているのが現段階ということではないでしょうか?

そうした変化のなか、今日は新しいつながった世界でのP2Pの共同作業的ワークスタイルにおける「討議」のスキルの必要性について、すこし考えてみようと思います。

「ソーシャル時代のワークスタイルを支える「討議」のスキル」の続き
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2011年04月09日

キュレーションが必要になる環境の条件は?

最近、Etsyというサイトのサービスのかたちに興味をもっています。

Etsyは、職人や作家によるハンドメイドの品を買ったり売ったりのオンライン通販を、購入者と直接コミュニケーションしたりしながらできたりするサイトです。
しかも、ただ単純にオンラインのなかだけで完結しているわけではなくて、Communityでは、Etsyに作品を出品する職人や作家が講師となってワークショップを開いたりして、作品を買ったお客さんや興味をいだいてくれている人と交流もはかる場も設けたりもしています。

キュレーションの時代と言ったりしますが、このEtsyにも日々大量にアップされる商品のなかからユーザーが自分のお気に入りのものを探せるようにするためのキュレーションの機能が提供されています。
Treasuryというコーナーがそう。

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キュレータ役のユーザーがそれぞれのテーマ・視点で選んだ10数個の商品をまとめて紹介してくれています。

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きっとお気に入りのキュレーターを見つければ、自分好みの商品をより見つけやすくなるのだと思います。1点1点ものが違うハンドメイド品だからこそ、余計に役立つ機能ではないかと感じています。

「キュレーションが必要になる環境の条件は?」の続き
タグ:平賀源内 etsy
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2011年02月11日

記憶とサイン(あるいは、デザインされた内面のなかで生きるということ)

昨日は、新宿ピカデリーのサイン計画などを手がけたことで知られる早川克美さんの「情報コミュニケーション環境のデザイン」(Ustreamログ)というトークイベントに参加させていただきました。

自分でセミナーでお話させていただく機会はたびたびあるものの、他の方の講演を聞くことがほとんどない僕にしては、こうしたイベントに出向くこと自体、とてもめずらしいことなのですが、参加した価値があった!と思わせてくれる楽しい時間をすごさせていただきました。

早川さんとは昨年からTwitterで何度かやりとりをさせていただいていたり、今年のはじめにお会いしてお話をさせていただいたりする中で、とても共感する部分が多いので、今回はぜひ話を聞いてみたいと思って参加させてもらったのですが、あらためて早川さんの歩んできた思考の道のりの一端をお聞かせいただいて、なぜ共感する部分が多いのかがわかった気がします。

簡単に言ってしまうと、問題意識というか、興味をもっている対象が非常に近くて、それに対するアプローチにも重なる部分があるのだなと気づかせてもらったんです。
早川さんのように一貫してサインというものを考えてきた方にくらべると、僕のほうはなんとも浮気性で興味の対象もあちこち目移りしてしまう質なので、「重なる部分が多い」などと書いてしまうのは失礼なんですが、早川さんのやってらっしゃる建築環境のなかでのサイン計画や空間におけるコミュニケーションシステム設計における「空間の情報化」と、僕が専門にしているウェブやソフトウェアなどの情報アーキテクチャ、ユーザーインターフェイスの設計における「情報の空間化」が重なるのは、冷静に考えてみると当然だということに気づかせていただいたのが昨日のイベントでした。

早川さん、ありがとうございました。

さて、そんな貴重なひとときを過ごさせていただいたので、今回のエントリーではそれをきっかけにすこし自分の頭のなかも整理してみようか、と。

テーマとしては、1つ前のエントリー「声だから空」で扱ったことや、サインと象徴の比較しながら人間の情報体験の未来について考えた「読書体験のイノベーションの先に…」で扱ったものの延長として。

ずばり「脳みそのなかの内面世界を外にぶちまけた人間はこれから外化された脳みそのなかでどう生きるのか?」が今回のテーマです。

「記憶とサイン(あるいは、デザインされた内面のなかで生きるということ)」の続き
タグ:サイン UI IA
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2011年02月08日

声だから空

最近、「断捨離」 なんて言葉があります。もともとはヨガの行法哲学「断行・捨行・離行」をもとに生まれた言葉だそうですが、いまは入ってくるいらないモノを「断」ち、家にある無駄なガラクタを「捨」て、モノへの執着から「離」れて、ゆとりのある生活を手に入れるといったライフスタイルを指す言葉として使われています。

もともと江戸期あたりまでの日本の暮らしが家のなかに家具などのモノを置かない生活であったことは、以前に「茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁」や「普通のデザイン―日常に宿る美のかたち/内田繁」などの内田繁さんの著書を紹介するなかで話題にしてきました。

「断捨離」というライフスタイルは、明示以降に本格的に西洋的近代社会生活を取り入れるようになり、襖や暖簾などの仮設的な仕切りで仕切られただけの家の構造から、機能・用途別に壁で恒常的に区切られた部屋をもつ家の構造に変わって、さらに個々の部屋ごとにさまざまな家具や家電製品を置くようになった近代的な物質主義的なライフスタイルに対する反省であり、江戸期以前の日本の暮らしへの揺り戻しのようにも感じられます。
もちろん、このモノ離れの傾向は、シュリンクする国内経済に対する不安からくるものでもあるでしょうし、エコロジーとエコノミーがごっちゃになって「エコ」と呼ばれているのと同じで、複合的な要素からなるモノを持たない暮らしへの志向性なのでしょう。

空の空間は日本特有のものか?

でも、モノをもたない暮らし、部屋にモノを置かないライフスタイルというのが、真に日本特有の暮らしであったかというと実はそうではなかったりします。

というのは、僕自身、最近、マーシャル・マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』を読んでいて知ったことですが、西欧においても中世までは部屋にはほとんど家具というものが置かれていなかったからです。

ジークフリート・ギーディオンが『機械化の文化史』のなかで指摘しているように、中世の部屋にはほとんど家具というものが置かれていなかったのである。

ルネサンス以前の中世までは、日本の近世までと同様に、西欧においても家具を部屋に置くという暮らしは行なわれていなかったのです。
近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」でも書いたように、「個室はピューリタニズムが一人ひとりが神と向き合う場所を要請したことから生まれたもので」、それと「同時にそれまで一家に一台だったテーブルも、各部屋に備え付けられるように」なり、「用途別のテーブルがつくられるようになります。つまり、個室や用途別のテーブルというのものもこの時代の発明」なのであって、明治期以降に日本が西欧的生活として取り入れはじめた、家具を部屋に設置する暮らしというのは、実は西欧においてもルネサンス以降に芽生え、確立したライフスタイルでしかないということです。

では、なぜ、ルネサンス期の西欧において、そのようなライフスタイルの変化が生じたのか?
マクルーハンは、先の引用のすぐ前の文章でこう書いています。

グーテンベルク以後、視覚があらたに強調されたために、すべてのもののうえに光を要求することとなった。また新しく生まれた時間と空間の観念は、時間と空間を事物や活動によって満たされるべき容器と見なしはじめたのである。だが、視覚が触覚と密接な関係にあった写本時代には、空間は視覚的容器ではなかった。

そう。またしても、それはグーテンベルクの印刷革命に起因する変化なのです。

今日は、このあたり−なぜ僕らは空間をモノで埋めるようになったか、なぜ、それ以前の空間は空だったのか?−をすこし考えてみることにします。

「声だから空」の続き
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2011年01月28日

読書体験のイノベーションの先に…

すでにこのブログにおいては、何度も紹介しているように、中世までは書物というものは音読されたといいます。
印刷革命を経た現在、視覚偏重によって黙読が当たり前になっていますが、来るべき電子書籍の時代、読む行為そのものを書籍のうえで視覚化することで、読む声を聞きながら読んだ中世人と同じように、読んでいるという体験のフィードバックを得ながら読むことを可能にできるのではないかと思ったりします。

本に書かれた文字ではなく、読んでいる自分の体験そのものを可視化するということ。それは紙の本ではできないけど、電子書籍ならその体験を可視化できる可能性があります。もちろん、それはどういう体験を可視化するのかを考えた上でそれを実現するインターフェイスをどう作るかによりますが、そこを電子書籍の売りにしない手はないのではないかと思うのです。

「読書体験のイノベーションの先に…」の続き
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2010年12月22日

「個人」という古い発明品

今日は「個人」とは発明品だ、という話をしましょう。

早速ですが、個人主義が発明されたのではなく、個人そのものが発明されたと僕は認識しています。

すでに「新しいことばのデザインパターンの追求」で〈「所有」や「個人」という概念の変化〉という話題を取り上げ、印刷された聖書を得たピューリタンたちは儀式空間である教会をナンセンスと捉えたという例をあげながら、共同体の一心同体の中世的人間から独立した個人という意識をもった近代的人間への変化について紹介しました。
また、それに関連する事柄としては、以前の「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」というエントリーでも、印刷による書籍の個人的な所有を期に、それを個人的に読むための空間としての個室の誕生、音読(聴覚で読むこと)から黙読(視覚で読むこと)への変化、黙読とおなじ内面の領域で行なわれる思考を刻みつける日記の誕生といった変化についても紹介しています。

つまり、これまで教会などの知識層に独占的な写本という形態でしか存在しなかった書籍という情報・知の蓄積メディアが、活版印刷によって個人が所有できるようになったことで、教会という共同体的儀礼からの解放や、共同の読書空間での音読から個室での黙読への移行、内面を綴る日記という表現形式の成立という変化を引き起こしたわけです。そして、それと同時に、そうしたメディアによって機能拡張した人間は、それまでの中世的役割からは独立した「個人」という超役割を手に入れたのです。

「「個人」という古い発明品」の続き
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2010年12月20日

IT型情報社会が知っておかなければならないこと

前々回の「新しいことばのデザインパターンの追求」までのいくつかのエントリーでマーシャル・マクルーハンのメディア論を取り上げてきています。
『メディアの法則』から『メディア論―人間の拡張の諸相』を経て、『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』を読みはじめているのですが、読めば読むほど、僕たち日本人って、西洋が「情報」というものにどうやって取り組んできた結果、近代から現在に連なる社会を築き上げてきたのかということを、本当に表面的にしか理解してこなかったのだなということを痛感します。

近代というのは、人工的な連続性の地平の上に知をアーカイブし編集可能にすることで、富の生産力を向上してきたわけで、それ自体が必然的に伝統を重んじる姿勢を強く内包することになるはずですが、どうも僕ら日本人はそのあたりのことがよくわかっていません。表面的にしか近代を通過してこなかったために、「日本の伝統を守る」とかいいはじめると、途端に現在と切り離された状態になってしまったり、逆に現在を考えようとすると伝統を活かすことができないし、歴史の連続性を使えなかったりします。
自分たちの近代とそれ以前を、歴史という連続性をもった舞台のうえで編集しなおし、独自の手法を生み出すのが苦手です。また、活かすことができないから、自分たちの過去に関心がもてずに、近代以降の狭い範囲でしか、知のアーカイブを活かせません。それでは近代的思考で他の国の人々に勝てないのも当然だろうと感じています。
その逆にマクルーハンや、前に紹介したフランセス・A・イエイツの『記憶術』書評)などを読むと、いかに西洋が近代に至る際に情報を蓄積することで富の源泉に変換する技を生み出し、それを近代から現代において有効活用してきたかがよくわかります。

結局、こうしたあたりの近代化のための通過儀礼をいまだにやらずに済ませていることが、現在のITを中心テーマにした経済状況において、日本が置いてけぼりをくっている最大の要因である気がしてます。つまり、情報がよくわかってないんだろうな、と思っているわけですが、そんなことを書こうとして、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』のamazonアフィリエイトのリンクを作るために、Googleで同書を検索していたら、松岡正剛さんがまさに似たようなことを書いていたことを知りました。

しかし、ここであらためて強調しておくが、本書には、今日のIT型情報社会が知っておかなければならないことのほとんどすべてが、まさに触知的に暗示されているといってよいだろう。

「今日のIT型情報社会が知っておかなければならないこと」。
そう。いまの世界経済において中心的な役割をになっているITと呼ばれる情報に関する技術を理解するためには、イエイツやマクルーハン、それからバーバラ・M・スタフォードらが教えてくれる、西洋において情報がどのように扱われ、それが人間または社会に対してどのような影響をもたらしてきたのかを理解する必要がありそうです。

「IT型情報社会が知っておかなければならないこと」の続き
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2010年12月16日

バットを持ったまま、守備にはつかないでしょ

バットを持ったからといって、ヒットやホームランが打てるわけではありません。当たり前の話ですね。
でも、それがバットのような物理的な道具ではなく、手法や考え方みたいなものが相手だと、途端に、この当り前がわからなくなる人がいます。

バットの振り方がわかっても、相変わらずヒットやホームランが打てないことは理解できるのに、手法の使い方を知るだけでは結果が出ないということがわからない。
いやいや、それ以前に、バットが野球に密接に結びついた道具で、ほとんどそれ以外の用途がないことが理解でき、かつバットをつかうには野球のことも知らないといけないことはわかるのに、ある手法を知る際にそれが使われる場について理解することが大事であることがわからなかったりします。

こう書くと、おかしさはわかってもらえると思いますが、案外、そういうことって多いはずです。
ある手法の説明を聞いて、「わからない」とか思ったときは、それは手法(バット)について、わからないのではなく、実際はそれがなぜ、どのような場(野球)で使われるのかがわからないし、わかろうとも思ってないからです。それが手法の説明がわからない理由だと思ったほうがいいと思います。

「バットを持ったまま、守備にはつかないでしょ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 01:16 | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする