文書の形式で知をカタチにすること

美術カタログの歴史は、財産目録からはじまっている。 昨日会社で美術カタログについて話していて、ふとむかし読んだ島本浣さんの『美術カタログ論―記録・記憶・言説』という本を思い出しました。 美術カタログのはじまりが財産目録であったことに当時驚いたことで、とても記憶に残っている一冊です。 ▲18世紀の競売目録。文字だけで作品の図版はない 『美術カタログ論 記録・記憶・言説』では、17世紀における美術カタログの誕生から20世紀初頭に到るフランス絵画界における美術カタログの変遷を調査することで、カタログにおける分類や記述の形式、あるいは美術作品そのものに対する言説の変遷が辿られます。 美術に関する記録の方法の発明とそれと同時期に起きた美術市場そのもののの発明、さらには、市場とそれを動かす核なるツールとしてのカタログが美術作品の一般への浸透を促した様を、ていねいに紹介してくれます。 この本を読むと、美術カタログというのは、初期には決して現在のような美術展覧会の図録ではなかったことがよくわかります。いや、そのようなものが必要とならない社会環境がそこにはあったことがわかります。 はじめに書いたとおり、それは財産目録としてスタートし、その後、上の写真のようなオークションの競売目録へと移行していきます。 以前に書いた書評記事で、僕は、こんな風に説明しています。 いわゆるコレクターの財産が売りに出される場。それがいまもアート作品の売買の場としてのオークションだ。 つま…

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月のクレーターは望遠鏡があったからといって見えるわけではない(想像力がなければ見えない)

いまホルスト・ブレーデカンプの『芸術家ガリレオ・ガリレイ』を読んでいます。 この本、「【見る】ということとはどういうことか?」について非常に考えさせられる内容です。値段は高いし、分厚い一冊ですが、ぜひ一読をオススメしたい本です。 読んでいて考えさせられるのは、描くことと思考することの関係性や、想像することと見ることの関係性です。 ガリレイが実際に手で絵を描くことで考え、頭のなかでしっかりと想像する=仮説をもつことではじめて誰もそれまで見ることができなかったものを見ることができたのだということが、この本を読んでいくとわかってきます。 そこには描かなければ可能にならなかった思考があったし、思考をもとに想像しなければ目にすることができなかった事実がありました。そういうことをこの本を通じて知ることで、あらためて見ることや描くことや考えることの意味合いを考え直させられています。 たとえば、ガリレイは望遠鏡を使って月の表面にデコボコ=クレーターがあるのを発見したことで知られています。 これを、単純に、望遠鏡のおかげでそれまでよりも月を大きくみることができるようになったから、ガリレイはクレーターを発見できたのだと考えてしまうのは、実は間違いなのです。 僕らが考える以上に、いままで見えていなかったものを見るということは簡単なことではないようです。 ものを拡大して見る道具(=望遠鏡)が発明されたからといって、それまで見えていなかったものが急に見えるようにならないようです。想像さえ…

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思考と視覚表現の共犯関係についての考察を続けよう

前回の記事「多義から一義へ:絵から図が分裂した17世紀」で紹介したジョスリン・ゴドウィンの『キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢』を読み終えました。 図版と思考の深い関係性について自分が考えていることがどれだけ的を得ているかを知りたいという興味から17世紀ヨーロッパに目を向け、手に取った本でしたが、読み終えたことでよりいっそう思考と図版を含む視覚表現との関連性についての関心が大きくなりました。それでいまは、もっとこの時代の図像と思考の共犯関係を明らかにしたいという気持ちからホルスト・ブレーデカンプの『芸術家ガリレオ・ガリレイ―月・太陽・手』を続けて読みはじめています。 ホルスト・ブレーデカンプは、前に書評記事でも紹介した、キルヒャーと同時代を生きた年下の哲学者・数学者であるライプニッツの思考と視覚表現の関係を考察した『モナドの窓』の著者でもあります。その本がとても興味深かったので、いま読みはじめた『芸術家ガリレオ・ガリレイ』も出版された際に購入しておきました。 その『芸術家ガリレオ・ガリレイ』に、こんなことが書かれています。 ガリレイ、ホッブス、ライプニッツが好んで図像を使って思考を遊動させる、なんという徹底ぶりであろう。なおさら膨大な研究がこの側面をないがしろにしているのは驚きである。これほど広範に抑圧が蔓延していることからすれば、原因はヴィジュアルなもののフェイドアウト、過小評価、いや軽蔑にあるのだ。ヴィジュアルなものこそヨーロッパの悟性構造に深く根ざしてい…

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多義から一義へ:絵から図が分裂した17世紀

いま会社の班活動で「図」に関する研究活動をしています(会社で班活動って何?という方はこちらをご覧ください)。 上の写真のようにいろんな種類の図を集めて、それを分類したり、分類ごとの特徴を抽出したりしました。次のステップでは、自分たちでも図を使って自分たちの考えをうまく伝えられるようになることを目指して活動しています。 そんな班活動のために図を集める作業をしていた際、以前から気になっていたアタナシウス・キルヒャーのことがあらためて気になりはじめました。 お目当ての図を探そうと検索していると、やたらとキルヒャーの著作に掲載された図が出てきたからです。 それもあって、いまジョスリン・ゴドウィンの『キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢』を読みはじめました。読みながら、キルヒャーの生きた17世紀ってまさに図の誕生の世紀なのかなーなどと考えています。 今回はそのあたりの考えをまとめてみようか、と。

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僕らは、現実から切り離された仮想現実のなかで未来を夢見ているけれど…

マニエリスム期の画家にして建築家であるフェデリコ・ツッカーリ(1542-1609)は、1607年に発表した「絵画、彫刻、建築のイデア」というエッセーの中でディゼーニョ・インテルノ(Disengo Interno)という概念を登場させています(詳しくは「ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」参照)。 ディゼーニョ・インテルノは英語で言い換えればインテリアデザイン。 ツッカーリが用いている意味としては「内的構図」であり、心の内側にあるデザイン案ということと理解することができます。 マニエリスム研究で知られるグスタフ・ルネ・ホッケは名著『迷宮としての世界』のなかで、このツッカーリのディゼーニョ・インテルノ(内的構図)がどのように画家・建築家に用いられるのかを次のように示しています。 最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これは要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図〉Disengo Interno である。かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図〉Disegno Esterno へともちこむことに成功する。 グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』 最初に画家・建築家の内面に、イデア的概念であるディゼーニョ・インテルノが生まれる。先ほど、心の中のデザイン案と言いましたが、まさに建築物のデザインイメージであり、これから描こうとする絵の具体的なアイデアです。画家・建築家は自身の表現技術を用いてその内的イメージを外化し…

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映像を見ているとき、僕らは現実が見えなくなっている

様々な視覚表現による映像は、遠く離れた場所に関する情報や、遠い過去に関する情報を、僕らがそこに出向くことなく僕らに与えてくれます。 一方、僕らはそれらの映像を見ているとき、自分たちがいま生きてその場に身を置く現実から目を逸らしているのだということを案外忘れていたりします。 つまり、本や雑誌、テレビやインターネットを通じて、常に写真や動画などの映像表現に身を晒している僕らは四六時中「心ここにあらず」の状態になっている自分に気づかずにいるのです。

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