記憶や観察力と考える力

普段はあまりテレビは見ないのですが、先日風邪をひいて熱をだした際に、ぼんやりとした頭で見ていたテレビ番組でやっていた「絵が描けない人」の特徴の話がとても興味深かったので、今日はその話題から「記憶や観察力と考える力」という話を展開していくことにします。 布団にはいって半分目をつむったような状態で見ていたので、番組がなんだったかも含めて詳しく覚えていないのですが、いま話題にしたいのはこんな2つの事柄です。 絵が下手で、描いた絵を人から笑われることが多い人は、そもそも絵がうまく描ける人に比べて、物事の観察力が弱く、物事に対してあいまいな記憶しかもっていないために、描こうとする対象を頭の中でさえ非常にあいまいにしか思い描けないため、当然ながら実際の絵としても表現できない絵が下手な人の中には、目の前にある風景を描き写すといった場合でも、目の前に存在するはずのない子供が描くような記号化された雲や太陽を描いてしまったりする 絵が描けない人って、そんな風に世界を見ているの?という意味で、僕にはとてもショッキングな話でした。

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アフォーダンスとは

椅子は座ることをアフォードする。 アフォーダンスの説明によく使われます。でも、それって椅子は座るものだという知識がすでにあるからじゃないの?といわれると返答に困ります。 説明としては、こういう例の方がわかりやすいのかなって思います。 ペンのように細いものを取ろうとするとき、ペンケースのようにある程度厚みのあるものを取ろうとするとき、手(指)の形は異なる。それもペンやぺーンケースに触れてから異なるのではなく、それらに触れる手前からすでに手(指)はペンやペンケースの形をなぞらえている。それぞれの形が、手(指)の形をアフォードする。 これが何か熱そうなものだとしたら、また、それは違う手の形をアフォードするし、蝶々をつかもうとしたら手は自然とやわらかな形をつくります。 アフォーダンスも専門家じゃない僕らのような人には、まずはこのレベルの理解からはじめるといいかなと思います。 どう、藤井君?

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パターン認識と予測

分類と階層構造化、あるいは関係性の把握。もうちょっと広げると状況の把握。そうした把握が自分のなかでしっくりきた際に「わかった!」となる。これ、言うまでもなく当たり前のこと。 ようするに、そうした自分でしっくりくる状況、パターンを把握すること。その自分でしっくりくるパターンを見える形にする視座がいわゆるフレーム。 当たり前だけど、パターンがなければ人間は考えることはおろか、普通に行動することもできません。床と壁のパターンの違いが認識できるから部屋の中を歩けるのだし、ドアの向こうをなんとなくであれ、予測できるからこそ、そのドアを開けるかどうかの判断も可能です。 パターン認識があっての私たち。そのために視座であるフレームを固定化する必要があるのもYes。問題ありません。

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動きが意味を生成することと茶の湯における作法の関係に関するメモ

相変わらず風邪による発熱で頭がぼーっとしている状態なので手短にメモのみ。 運動が開始されることで、環境には差異が生まれ、その差異が生命の内部に新たな差異をつくりだしていく。運動することで遠近感が構成され、敵と見方が判別でき、探索と発見が可能になり、知覚に多様性が生まれ、言語が進化するというシナリオが考えられる。運動は意識と知覚の進化の原動力である。 池上高志『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』 この本で著者はまた別のところで、"運動のスタイルの生成は、また「意味の獲得」でもある"と述べています。 前に「写真を揺らしながら見ると立体的に見える」なんてエントリーを書きましたが、運動のなかで「立体的に」も含めた意味を獲得しているということなのでしょうか? アフォーダンス的にいえば、情報は環境と人がそれを感知する動きの相互作用のなかにある。だから、写真は揺らすと立体視されるわけ。 このあたりが先に書いた「人は、4分の1インチの穴を欲するではなく、4分の1インチ・ドリルを欲する」や「物VS経験なんて二元論に誤魔化されないようにしましょう」といったエントリーで書いた物と情報、経験の関係にもつながるところ。 さらにこの運動と意味の関係は、茶器に高い価値が置かれる茶の湯において、同時に作法という運動が重視されるのも、これと無関係ではないという気がしています。 動きが物に情報という意味を生じさせ、経験という価値を生じさせる。それゆえに一座建立という一期一会の出会い…

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どう学ぶか?:いや、結局は方法論じゃなく実践です。

HCDプロセスをはじめとして方法論について語るのが好きな僕ですけど、それでも、結局のところ、本当に大事なのは方法論じゃなく実践だと強く信じています。 「棚橋さんはどうやって勉強してんるですか」とたまに聞かれます。 でも、どうやってとかじゃないんです。そんなこと考えるよりもとにかく学べばいいんだと思います。 自分の興味や関心に正直になることです。そして、ためらわずにめんどくさがらずに、好奇心のまま身体を動かすことが大事だと思います。 本を読むのでもいい、セミナーに参加するのでもいい、仕事上の実践でかかわる人から学び取ってもいい。 方法なんていくらでもありますから、その中で自分に合ったものを優先して学べばいいだけです。そのあたりは方法論よりもまず実践に対するやる気だと僕は思っています。 自分が座学が苦手だからかもしれませんが、僕自身は「教えてもらいたければまず学べ!」と思っていて、実際、自分で勝手に学んでいると「教えて」なんて言わなくてもまわりが勝手にいろんなことを教えてくれるようになります。自分で次に何を学べばいいかもわかるようになりますし。

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生態学的認識論における情報と環境

生態学的認識論とは、アフォーダンス理論で有名なジェームス・ギブソンが提唱した理論です。 この生態学的認知論における「情報」と「環境」の定義のされ方はなかなか興味深く思います。 生態学的認識論は、情報は人間の内部にではなく、人間の周囲にあると考える。知覚は情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的につくり出すことではない。 佐々木正人『アフォーダンス-新しい認知の理論』 ここでいう「情報」はもちろん文字などで書かれた情報、言葉として話された情報などの人工的な情報のみを指すのではありません。人間のみならず生物が外界から普通に受け取っている視覚情報、聴覚情報を含むすべての情報を指しています。

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レオナルドは未来である:オルタナティブを考える力2

書評エントリー「天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣/茂木健一郎」や「創造性は「過去の経験×意欲」という掛け算であらわすことができる」というエントリーですでに2回も取り上げた茂木さんの『天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』という本ですが、明日、同僚に貸すことにしたので、最後にもう1つだけエントリーを。 源流に戻る道に迷ったら、迷う前の自分がちゃんとわかって歩いていた地点まで戻れというのは、ある種の鉄則の1つです。 それは実際の道でなくても、同じであるようです。 現代の文明は、ある種のゆきづまりを見せていると思いますが、このゆきづまりを打破するために、それが生み出された源流であるルネサンスに戻ることも、ひとつの方法としてあり得ると思います。 茂木健一郎『天才論―ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』 レオナルドが生きたルネサンスはデカルトに端を発する「心身二元論」の以前です。 ジョン・R・サールの『マインド―心の哲学』やジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』などの最近の認知科学、脳科学系の本を読んで感じられるのは、現代の認知科学はすでにデカルトの「心身二元論」を乗り越える術を見つけつつあるという点です。 また、おもしろいのは、そうした認知科学という学問の分野自体、神経学、精神分析、行動主義実験心理学、認知心理学、言語学、人工知能、哲学を含む学際的なマトリックスであるという点です。 それはレオナルドが生きたルネサンスの時…

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僕たちはいったい何を見ているのか?

昨日の「僕たちに自由意志はあるのか?」での自由意志に関する話だけでなく、現代の脳科学に明らかにする様々な事実は、僕らが普段信じている世界を一変させるインパクトをもったものが少なくありません。 僕たちはいったい何を見ているのか?またもや池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』からの引用になりますが、こんな記述。 網膜から挙がってくる情報が視床にとって20%だけ、そして、視床から上がってくる情報は大脳皮質にとっての15%だけ。だとしたら最終的に、大脳皮質の第一次視覚野が網膜から受け取っている情報は、掛け算すればよいわけだから、20%×15%で、なんと全体の3%しか、外部の世界の情報が入ってこないことになる。残りの97%は脳の内部情報なんだよね。 池谷裕二『進化しすぎた脳』 これ、すごいですよね。3%ですよ、3%。たったの3%しか脳は目からの情報を受け取っていない。 一体、じゃあ、何を見てるのかという話ですよね。 残りの97%が脳の内部情報だとしたら、普段見ているものはほとんど脳が作り上げた像だということですよ。 もちろん、それは外の世界とまったく無関係ということはないでしょう。 でも、僕たちが世界はこういうものだと思っている世界が実は、単に僕らの脳が作り上げた像でしかないというのも確かなようです。

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僕たちに自由意志はあるのか?

前触れもなく突然「自由意志」という言葉を使っているとはいえ、なにも殊更に哲学的な考察を行おうというつもりはないのですが、こうも最近読む本のなかに「自由意志」に関する記述が行われているのを目にしてしまうと、一言でも何か言わなきゃいけないような気にもなったりします。 意思決定はタイミング?特に昨日書評を書かせていただいた池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』で紹介されている、2005年の『サイエンス』に掲載されたという論文のヒルを使った意思決定のメカニズムに関する実験の結果などを知ってしまうと、果たして「自由意志」などというものは本当に存在するのかと疑ってみたくもなります。 この実験では、シャーレの底にいるヒルの体を棒でつつくという行為を行います。その際、つつき方はまったく同じでもヒルには2通りの逃げ方が見られるそうです。1つは泳いで逃げる方法、もう1つはシャーレの底を這って逃げる方法。 では、この2通りの逃げ方の意思決定をヒルはどのように行なっているのか?ということが問題になります。論文の著者たちは意思決定に関係しているニューロン活動をくまなく探したそうです。 そして、驚く発見をしたのです。 ヒルの場合、たまたまニューロン208番の細胞膜にイオンがたくさんたまっていて、強い電荷を帯びているときに刺激がくると、泳いで逃げようとするし、電気があまりたまってない状態で刺激が来たら、這って逃げようということだったんだ。 池谷裕二『進化しすぎた脳』 これはあくまでヒルでの実験結果に…

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無根拠な世界を般若=行動する知で問う

以前に紹介した玄侑宗久さんの『現代語訳 般若心経』を読んだ際、僕は般若心経というものが認知科学そのものだと感じたのですが、今日の茂木さんのブログ「クオリア日記」にも同じようなことが書かれていました。 青松寺。 般若心経についてお話した。 「色即是空」がいかに現代の認知科学の 見地からみて妥当な思想であるか ということを説明した。 茂木健一郎 クオリア日記: 無根拠性にこそ 般若心経では、五蘊として、 色 : 物質的現象、形あるもの受 : 感覚、外界と触れて何らかを感受すること想 : 表象、知覚、脳内にできあがる具体的なイメージ行 : 意志、特定の方向に気持ちが志向すること識 : 認識の蓄積、あらゆる知識や認識の総体 が認識の5つの形態として挙げられています。 そして、それと同時に、  観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 観自在菩薩さまはこの五蘊が皆、空だとわかったといっているのです。 色即是空は、そのうちの色がすなわち空であると言っているのです。 そして、また、空即是色。空はすなわち色であると。  舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 仏教的なモノの見方をまとめるなら、あらゆる現象は単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の可能性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある、ということでしょう。玄侑宗久『現代語訳 般若心経』

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言葉の意味とは?:オルタナティブを考える力

茂木健一郎さんの『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』がおもしろい。 まとまった書評は後日書くとして、今日は「第7章 「理解」するということはどういうことか?」に出てくる言葉の意味などの理解に関して、書いてみようと思います。 「猫」という言葉の意味はどこにある?このブログでは記号論といえば、主にパースのそれを参照していますが、それとは異なる記号学の体系としてソシュールによるものがあります。 パースの三項関係を基本とした記号には確固とした意味が存在しないとみる記号論に対して、ソシュールの記号学はそれが構造主義とみなされるように、記号を他の記号との差異によって捉えます。 例えば、「猫」という言葉は、他の様々な言葉との関係において表すことができるでしょう。 「猫」は「犬」ではない「猫」は「哺乳類」である「猫」は「子猫」を生む「猫」は「気まま」である「猫」には「ひげ」がある「猫」は「生物」である「猫」は「机」ではない「猫」は「四本足」で歩く などなど。 しかし、茂木さんは次のように言います。 《ある言葉の意味は、その言語体系の中の他のすべての言語との関係によって決まる。》 一見、右の命題はもっともらしく思われる。(中略)しかし、この命題は、「猫」に関する完全な辞書をつくる際のマニアックなこだわりには役に立っても、「猫」という言葉の意味が、脳の中で神経生理学的に決定する際のメカニズムにはなりそうもない。 茂木健一郎『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』…

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意識の中心と周縁

前に書いた「意識の中心と周辺」というエントリーの補足として。 「中心と周辺」という言葉は下條氏が独自に用いている言葉なのかもしれませんが、同じことは脳神経科学者のジェラルド・M・エーデルマンが次のような形で示しています。 ところで、意識シーンにはまんべんなく焦点が当たっているわけではなく、意識の中心と意識の周縁がある。これは、ダイナミック・コアが複雑な「機能クラスター」として営まれることから必然的にもたらされる特徴といえる。 ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』 中心と周辺(あるいは周縁)があるのは、観察から導かれたパターンであり、科学的に検証された事実というよりは、むしろ、「リンゴが木から落ちる」のと同様の研究対象であるといえます。 また、上記引用にあるダイナミック・コア・モデル自体、エーデルマンの仮説であり、これからの研究により、その確かさを検証されるべき段階のものだとえいるのでしょう。 その意味では、下條氏の本でも意識の中心と周辺に関しては同じように研究対象として、中心と周辺が生まれるメカニズムを理論化がもたれる課題として描かれているはずです。その意味で「リンゴが木から落ちる」なのかと。 さらにエーデルマン自身はこの「意識の周縁」という言葉を、心理学者でプラグマティズムの哲学者であるウィリアム・ジェームズから引用しており、先の本の用語解説の中で次のように説明しています。 意識の辺縁ウィリアム・ジェームズが用いた言葉で、…

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中央大学公開研究会「視知覚における一過性信号の役割」

中央大学の人文科学研究所の公開研究会に参加してきました。 テーマは「視知覚における一過性信号の役割」で、講師は、九州大学ユーザーサイエンス機構の河邉隆寛さんでした。 視知覚における一過性信号の役割一過性信号とは、高コントラストで突然発信される刺激性のある信号を指しています。小さな光の点滅だったり、音による刺激などがそれに相当します。 今日の講演では、一般に増幅効果と情報の重み付け効果があるとされる一過性信号が、アウェアネス(気づき)や事象知覚にどのような影響を与えるかについての研究結果が発表されていました。 Motion Induced Blindnessその中でMotion Induced Blindnessを扱ったものがありました。 人間の視野には実は重要な箇所に神経伝達域があって、死角があります(ちなみにイカの眼は人間とよく似ているものの、神経伝達域が眼球の外側にあるので死角がありません)。死角は普段は脳内で補完されているために気づきません。 このサイト(Motion Induced Blindness)にあるような画像で、真ん中の緑色の点を注視していると、まわりの黄色い点が消えてなくなります。 それが死角が可視化される瞬間というわけです。 このMotion Induced Blindnessにおける黄色い点の消失を、まわりに赤い円を表示するような一過性の刺激を与えることで、妨害することが可能かというのが実験されていました。 結果としては、一過性…

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意識の中心と周辺

アイトラッキング調査をしていると、人が見ているものとその人の意識が必ずしも一致していないんだなということに、あらためて気づかされます。 目はWebの画面を追っていても、実際には見ているという意識がないことがあるんです。 調査結果のホットスポット分析の画像で長く注視していたポイントについて、被験者に尋ねても、そこを見ていたという記憶がなかったり。また、何かの記事を読んでもらっていて、視点の移動が時々、前の段落に戻ったりすることが見られますが、そういう場合も単純に読み直したくなったというケースもあれば、他のことを考えてしまって読んでなかったことに気づいて戻るというケースがあったりします。 なので、アイトラッキングの目の動きだけを見て、どこを見ていた/見ていなかったを判断するのは危険で、必ずユーザーへのインタビューやアクセスログ解析の結果などと組み合わせた分析が必要になってきます。 意識の構造そもそも、こうした視線の動きと意識の不一致は、被験者の注意力の散漫さなどに原因を求めるのではなく、ヒトの意識の構造に原因があると考えるべきなのでしょう。 下條信輔さんの『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』では、ヒトの意識には「中心と周辺」があるということが述べられています。 たとえば、運転しながら哲学の問題を考えている状況を想像してください。考えに夢中になると、ほとんど意識しないうちに、あるいは運転しているという自覚なしに、いつの間にか無事に家まで帰り着いている、というこ…

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脳の来歴

昨日も紹介した下條信輔さんの『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』という本では、そのサブタイトルにもあるように、意識をもつ脳を単独の器官として捉えるのではなく、身体や環境とつながった、さらには身体的経験や環境における経験の履歴との強い連携(カップリング)をもったものとして扱っています。 脳だけでは意識は生まれないこれはジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論―宇宙の意味と表象』でも示されていたことです。 ホフマイヤーは、意識をつかさどるのは、通常考えられているような神経系の特権ではなく、自己と外部の区別を認識することではじめてその機能が成り立つ免疫系もまた、ヒトがもつ意識の形成に大いに影響を及ぼしていることを強調しています。 先日、紹介したジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』でも同様の見解がみられます。つまり、『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』でも「身体に根ざしていない脳の機構、環境とその歴史に結びついていない脳の機能は、そもそも無意味」という見解は「最近多くの認知科学者、認知哲学者、人類学者などによって、さまざまなかたちで述べられて」いる、ある程度、一致した見解となっているようです。

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無秩序や因果関係のなさを嫌うヒトという生物

前からそういう傾向はあったものの、最近、富に認知科学的なものへの興味が増しています。 認知科学への興味僕が仕事としているマーケティングやブランディングでも、はたまたWebユーザビリティにしても、インフォメーション・アーキテクチャの問題にしても、ヒトの認知について知ることは非常に有益だと思っています。 でも、最近、僕が脳科学や進化心理学などの認知科学の分野に興味をもち、ニコラス・ハンフリーの『赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由』やジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』などの「ヒトの意識」についての本を読んでいたり、勢いで"Human Information Interface lab"などを開設してしまったのも、そうした有益性を超えた興味がここ最近非常に強くなってきているからだったりします。 あるいは、逆にいうと、もともとこういうことに興味があったからこそ、マーケティングなんてものを仕事にしているのだし、このブログのタイトルで"DESIGN"という言葉を入れているんでしょうね。

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ダイナミック・コア

ダイナミック・コアは、脳神経科学者ジェラルド・M・エーデルマンのグループが提唱したTNGSで使われる用語で、脳内で機能クラスターとしてふるまう「相互採用する系」を示す。主に視床-皮質系で営まれ、コアは信号を主にコア自身の中でやりとりをし、その再入力性の信号のやりとりが意識状態を生み出すと考えられている。 ダイナミック・コアの再入力性の神経活動は、外界や脳自体の信号を、それらクオリアの感じる状態、つまり、「X(ヒト、コウモリ等々)であるとはどのようなことか」へと「現象変換」する。(中略)ダイナミック・コアの活動からクオリアへ、という現象変換が起きるということは、コアの神経活動によって高次元の識別がもたらされるということであり、言い換えれば、コアの活動なくして高次元の識別はないということでもある。つまり、その現象変換(すなわちたくさんの区別が重ね合わされた高次元の識別)は、コアのその神経活動によって必然的に引き起こされる。いや、厳密に言えば、その活動によって引き起こされるのではなくて、その活動と同時に生まれる特性というべきだろう。 ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』 以上。自分用のメモとして。 関連エントリー 神経細胞群選択説(Theory of Neuronal Group Selection)自分で学ぶ未来へ。Arrivederci al prossimo anno!赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由/ニコラス・ハンフリー主観、客…

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神経細胞群選択説(Theory of Neuronal Group Selection)

神経細胞群選択説=TNGS(Theory of Neuronal Group Selection)は、脳神経科学者、ジェラルド・M・エーデルマンのグループが提唱する、中枢神経系の多様性と統合性を説明する脳の大局論。 以下の3つの原理からなる。 発生選択:胎児の脳が一応の解剖学的構造を整えるまでの期間に発育していくニューロンが後成的な影響を受けながらさまざまな結合パターンのレパートリーを構成するプロセス。経験選択:主要な解剖学的構造ができあがった後に、個体が行動するなかで環境からの様々な入力を得ながら、シナプス結合に多彩な結合強度を生み出していくプロセス。再入力:時空間的相関および意識の統合性を可能にする最重要プロセス。 エーデルマンは、脳をコンピュータやチューリングマシンになぞらえたモデル、プログラムやアルゴリズムという教師が存在するという前提のもとに成り立つモデルに対する対照的なモデルとして、ダーウィンの"集合的思考"に基づいたモデルとして、TNGSを提唱している。 集合的思考に基づいたモデルは、多様な要素(状態)からなる豊富なレパートリーの中から、特定の要素(状態)が選択されるという考えのもとに構成されている。 ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』 以上。自分用のメモとして。 関連エントリー 自分で学ぶ未来へ。Arrivederci al prossimo anno!赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由/ニコラス・ハンフリー…

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主観、客観、そして、クオリア

先日、買ったニコラス・ハンフリーの『赤を見る―感覚の進化と意識の存在』という本がこれまた興味深い本でした。 いま3分の2くらい読み終わりましたが、タイトルにあるとおり、「赤を見る」という行為の中で生まれる、自分は「赤をしている(reding)」という感覚の観点から、意識の謎に迫ろうとしています。感覚の進化を追いながら。 一人称と三人称、主観と客観この本では、S(主体、SubjectのSですね、きっと)という主人公がスクリーンに映った赤を見ることからはじまる単純でありながら、「感覚とは何か」「意識とは何か」という視点からみればとても複雑な物語を中心に、考察が進められます。 Sがスクリーンに映った赤を見た際の感覚と知覚の関係って普通はこんな風に考えられていると思います。 スクリーンに映った赤がSの感覚器官に刺激を送るSはこの感覚刺激をもとに低次元の複製としての感覚を作り出す(赤する、reding)Sはその感覚の属性(それは視覚的感覚だ、など)を読み取る最後に読み取った結果を元に、外界の事実としての「スクリーンの赤」を再構築する ようするに、まずは先に感覚を受け、そのあとで知覚が可能になるという順番ですね。 この感覚と知覚は、主観と客観という風に言い換えることができるかもしれません。 感覚というのは、Sだけが独自にもつもので、Sという主体が存在しなければ同時に存在しえないもの。それゆえに主観的で一人称的であるものです。 一方でスクリーンに赤が映っているという知覚は、S…

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