それに関連してもう1つ。今日は逆の視点で、観察者が違えば観察結果は変わるという話、それから、そこから導き出されるイノベーションのコツについて書くことにします。
観察している側、光があたっているところしか見えない
観察によって対象が変化するという話は量子力学的なイメージを想起させる話ですが、これ、実はごく日常的に起こっていることなんです。僕は仕事で、コンテキスチュアル・インクワイアリーという手法を用いた観察&インタビューでのユーザー調査をする機会が多いのですが、それをやってて感じるのもそれなんです。観察者・インタビュアーが変われば対象となるユーザーから引き出せるものが違うのです。
以前、僕はそれをスキルによる違いかなと単純に考えていたのですが、どうやら、それだけじゃないんですね。
観察の視点、インタビューでの質問の仕方自体が、観察対象であるユーザーそのものを変化させてしまうのです。月は光があたった部分で、かつ、観察者である僕らの向いている側しか見えなくて、月の裏側は僕らからは見えないわけですが、コンテキスチュアル・インクワイアリーでもそれと似たところがあって、観察&インタビューで明らかになるユーザーの行動は事実なんですけど、やっぱり一部でしかないんです。裏側はなかなか見えないし、光があたってない部分は見えない。
ただ、月と違うところが人間であるユーザーを調査する場合にはあります。
「私は私」なんて固定化されたものは人間にはない
月の場合は物質として確固としたモノが存在するので、視点を変えれば全体像がつかめます。でもね、人間であるユーザーには実は全体像なんてないんです。視点を変えたり、光を当てる部分を変えていけば見えてくる全体なんて、そもそもないんですよね。それは暗黙知が相手が変わると出てきたり出てこなかったりするのと関係しています。暗黙知はもともとあるというより、やっぱり相手との相互作用でその場で生成されるのですね。「暗黙知はどこにあるか?/情報は界面にある」へのはてブのコメントに「ひとりで唸ってても出てこないけど、人と話すとスッと言葉が出てきたり」というコメントがありましたけど、言葉が出てくる瞬間に自分自身が変わっているんだと思うんです。つまり、人間って固定化された全体像なんてなくて、つねに周囲との相互作用で変化し続けている。
「私は私」なんて固定化されたものは人間にはない。もちろん、「私らしさ」みたいなパターンならあるでしょう。ただ、それもパターンが類似するというだけで、パターンそのものを固定化した形で捉えるのはむずかしく、それを記述する言語はいまのところないはずです。
「私」というものがそもそも周囲との相互作用において常に生産され続けていると捉えないと、間違った人間像を抱いてしまうと思います。
まさに「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」です。
このあたりの話をもうすこし考えたい人は養老孟司さんの『人間科学』を読むことをおすすめします。
同じコンテキストなんてない
そもそも人間というものが相互作用のなかで変化するものですから、コンテキスチュアル・インクワイアリーでその人自身を知ろうと思って調査に臨んでしまうと、誤ったユーザー像を描くことになってしまいます。そもそもユーザー中心デザインの考え方ではユーザーをコンテキストのなかで捉える発想をしますが、コンテキスチュアル・インクワイアリーの場そのものがユーザーにとってのコンテキストです。観察者が変わればそれもまた別のコンテキストになります。そうしたコンテキストのなかで人間はインタラクティブに自分自身を変化させます。
だから、できるだけ会場での調査ではなく、フィールドワークを重視し、人びとの生活の現場、仕事の現場での調査を行うことが求められますが、それでも、結局はそれでも観察者がその場に入って光を当てる時点でコンテキストは変わりますし、そもそも現場のコンテキストが常に同じかといえば決してそんなことはないわけです。
よほどのルーティンワークですらユーザー自身が疲れてたり、まわりが普段よりうるさい/静かだったりするだけでコンテキストなんて変わるものです。そういう常に変化して、同じであることがないコンテキストのなかで人間は相互作用的に自分自身を変化させているのです。
ネットでのコミュニケーションの罠
リアルの人との付き合いと、ネットでの人付き合いを調査で比較してみると、結構おもしろいくらい、そのことを感じます。リアルだと人付き合いはとうぜんインタラクティブに相手とのコミュニケーションのなかで自分も変化していくので、相手とのギャップもそれほど発生しないのですが、ネットで画面を介したコミュニケーションだとそのギャップが見事なくらい埋まらないんですね。そりゃ、ネットでも常に埋まらないわけではないのですが、確実に埋まりにくいところはあるんです。
というのも、本を読んだりしててもそうだと思うんですが、基本的に固定化されたテキストの文章を読んでいるときって、その文章そのものが変化しないわけですからコンテキストって一定ですし、かつ、文章の理解というのは基本的に自分がすでに持っている文脈にあてはめて内容を理解する行為ですので、変化のないコンテキストを前にそれを自分のコンテキストにあてはめて読んでしまう状況になりやすい。
それでも本であれば、何かしら尖ったところがあるので、それが自分のコンテキストとのズレを明らかにし、別人のコンテキストであることを理解できたりもしますけど、ネット上の文章ってそれほど尖ってないので、意外と自分のなかのコンテキストのなかだけで他人の文章を読んでしまいがちです。
鏡に映る自分とのコミュニケーション
そうなると、どういう状況になるかというと、鏡に映った自分自身とコミュニケーションしているような状況になるんですね。もちろん、文章自体は他人が書いたものですから、あくまで読んでる本人は他人の文章を読んでるつもりなんです。でも、その読み方はもともと自分が持っている文脈、ものの見方で読んでしまうから一向に自分の外側には出られない。しかも、自分は他人とコミュニケーションしてるつもりだから脱出の機会はありません。そういう状況では、その文章の向こうにいる相手とは一生出会えないし、相手の考えに辿りつくことがありません。相手を理解するということができないので、結果、リアルの場ではそんなに人との論争にならない人までがネットだとすぐに論争になってしまったりするのではないかと思います。
ネットでのコミュニケーションは鏡に映る自分とのコミュニケーション
そういうことが、ちゃんと人間にはそれぞれ本当の自分があって、その本当の人間像を探るのがユーザー調査だと勘違いせずに、目の前のユーザーをあるがままに観察してるとわかったりします。こうした鏡に映った自分とのコミュニケーションというクローズドループを抜け出すには、意図的に自分自身の立ち位置、文脈を変えてあげる必要があるのですけど、普通の人は「私は私」と信じていて、複数の自分(というか、常に変化する不定形の自分)を想起できないので、この自分で自分の文脈を意図的に変えるということができません。
前に「危機感・問題意識創出のためのプラクティス その5つの軸」で書いた自分の軸を変える実践的な方法が身についていると、そういう状況に陥ったときでもクローズドループから抜け出せるんですけど。
「私は私」なんてものはないのにね。
ペルソナはコンテキストともに固定せよ
この考え方はエスノメソドロジーの見方に近いと言えば近いと言えると思いますが、ちょっと違うところもあると思っています。エスノメソドロジーが社会学の方法なので当然といえば当然なのですが、人間を社会的生物という視点から捉えているので、社会的生物としての人間が社会において不変ではないことを説明しているのかなと僕は認識しています。ただ、ここまで書いてきたのは、そういう社会的な、という制約を抜きにして、そもそも生物である人間は常に環境のなかで変化するもので、固定化された「私」なんてものはないし、その人自身の姿なんてものもないということです。
ペルソナをつくる際、使う際にもここを誤解しているとユーザーというものを大きく誤解することになります。
ペルソナ/シナリオ法に関心を持ってくれる人とかって、ペルソナに固定化されたユーザー像を期待していますよね。ですが、それがペルソナという手法に対する実は大きな誤解なんです。
そもそもの人間が不定形で「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」な存在なわけですから、そこで固定的なペルソナという人間像を想定してもダメなわけです。だって、そんな固定化された人間なんて実在しないわけですから。
鍵と鍵穴はいっしょにつくれ
じゃあ、どうやってペルソナを固定化(情報にするわけですからもちろん固定します)するかといえば、それは人に変化を生み出すコンテキストといっしょに固定する必要があるんですね。つまり、鍵は鍵穴といっしょにつくらないと意味がないってことなんです。ペルソナは、ペルソナが使うモノとそれが使われる状況といっしょに固定化して描かないと意味がないのです。鍵と鍵穴がぴったり合った状態で描くのがペルソナ/シナリオ法です。
これ、何を言ってるかわかりますか?
ようはモノといっしょに、モノを使うユーザー自身を創出しなさいっていうことなんです。もちろん、人間そのものを作れるわけじゃないですから、いまいる人間に自分たちがデザインするモノを提供することで、ペルソナとして描いたようなユーザー像になるよう変化を生み出しなさいってことです。ペルソナがそういうものだって気づいてないでしょ?
これこそがペルソナ/シナリオ法やユーザー中心デザインがイノベーションに向いている何よりの理由だと思います。そして、これは「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」で書いたことにつながっていくわけです。モノが変わるから人が変わるのです。新しくモノを生み出すのと同時に、それを使うユーザーそのものを創出し、かつ、それが使われるライフスタイル・ワークスタイルが生み出される。これが鍵と鍵穴はいっしょに生み出しましょうの意味するところです。
合鍵をつくるだけなら、ペルソナもユーザー中心デザインも特に必要ないわけです。
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