暗黙知はどこにあるか?/情報は界面にある

今日は情報デザインフォーラムの第1回のお披露目会でした。

100人以上が集まっていただき、大盛況。ありがたいことです。
各自20分しかないので内容が薄くなってしまうかなと思ってましたが、どの先生も結構きちんとプレゼンテーションされてておもしろかったです(特におもしろかったのは、ただ訊いただけでは何も答えてくれなかったご老人がバスの模型を前に話を訊くと、バスに対する不満を次々話してくれたという小池先生の事例は「なるほど、そうだろうな」と思いました)。
講演後の懇親会もみなさん残っていただき、いろんな場所でいろんな会話が飛び交ってました。
詳細な報告はおそらく情報デザインフォーラムのほうのブログに掲載されますので、そちらも参考に。

さて、そんな情報デザインフォーラムで前職の同僚にひさしぶりに会って話をしました。
そのなかで僕自身にとっては大事な発見があったので、それについて今日は書いておきます。

暗黙知はどこにあるか?

その同僚T君がいうには、僕がいなくなって、僕のもっていた暗黙知の再発見・再構築みたいなことを社内でやられているそうです。

で、それを聞いた僕の口から自然と出た言葉は「いや、俺自身、昔もっていた暗黙知が失われているのを感じるよ」でした。

そうなんですよね。
以前使えていた暗黙知がいま使おうとしても使えないことで困ることがここ最近よくあるんです。ちょっと前までは怠けていたからスキルが落ちたのかな?と思ってたんですけど、どうも違うんですね。

そのことを最近になって気づきはじめていて、今日、ようやく言葉にできたんです。
僕が昔使えていた暗黙知をいま使えなくなっているのは暗黙知の在りかと関係しているのだと思っています。

暗黙知は界面にある

では、その暗黙知の在りかというのはどこか?

先の言葉に続けて僕の口から出た言葉はこうでした。

「俺ね、自分が持ってた暗黙知って実は自分のなかにあったというより、E・YさんやH・Yさんとコミュニケーションするなかに存在してたんだと思うわけ。それがいまE・YさんやH・Yさんがいないと出せない。もちろん、暗黙知を外下するときは俺の口から出てたんだけど、ただ、それには話し相手としてのE・YさんやH・Yさんがいないとだめなんだよね」

そうなんです。
僕はそのとき、暗黙知って実は他人とのコミュニケーションのなかで生じるものだと思ったんです。「生じる」というと無から生まれるようなので、ちょっと言い換えると暗黙知をそれを有する人が外下するには、他人とのコミュニケーションが必要なのだろう。そう、いまは考えてます。

その意味では暗黙知はもともと僕のなかに確かにあるんだけど、僕ひとりの力では取り出せない形であるのだろうと思うのです。すくなくともそれを言語化して形式知に変えることはほぼ不可能。
暗黙知を引き出すには対象が必要で、暗黙知のまま使うのなら対象はモノやある問題なんかでもよくて、それらを目の前にすれば自分では使えるんですけど、言語化するためにはやはりそれを引き出せる人間の相手が必要なんですね。

先に「E・YさんやH・Yさん」といっしょくたに書きましたけど、「E・Yさん」とのコミュニケーションで出せる暗黙知と「H・Yさん」とのコミュニケーションで出せる暗黙知はまた別ものだったりもします。

僕らはまだ知識や情報というものについてほとんどわかっていない

あー、暗黙知というのはそういう外部との界面・相互作用のなかで外下される性質のものなんだなと感じて、それは僕にとっては今日一番の発見でした。

という、その発見自体も実はおんなじで、今日話した元同僚のT君とのコミュニケーションでしか出せない情報だったのかなと思ってます。

その意味で、知識だとか、情報だとかの在り方って、実は僕たち自身、ほとんどちゃんと理解していないのだなとも思うわけです。だって、僕が気づいたこの暗黙知の在りかだって、ふつうは暗黙知ってそれを持っている人のなかにあらかじめ知という形で存在しているかのように考えてしまいますよね。
でも、実際はすこし違って、暗黙知を所有する人のなかに確かにあるんだけど、それは知という体をなしていない形で存在していて、それを所有している本人でさえ、何らかの対象がなければそれを使えないし、言語化するには他者とのコミュニケーションを必要とするものなんだと思われます。

そう考えると、ふつうに僕らが情報だとか知識だとか思っているものって、おそらく本来、情報や知識に含めていいはずのもののほんの一部だと思うんです。

UCDの未来、デザインの未来

今日のフォーラムでは、ユーザー中心デザインの話をしてきましたが、その意味で現在のUCD、情報デザインの方法が扱うことが可能な情報・知識というものもほんの氷山の一角だという気がしています。
このあたりはある編集の方との会話の中での「UCDは今後も変わる」という話とも関連してくるところ。UCDが変わるというよりデザインが変わります。これからもっとどんどんと。

それは今日の暗黙知に関する気付きからもそう思えますし、バーバラ・スタフォードの著作や高山宏さんの本を読んでいてもすごくそう感じる。直観とは何か? アナロジーとはいったい何か? はたまた、これまで僕らはビジュアル・コミュニケーションやその歴史を軽視してきたけど、それってマズイんじゃないのとか?

逆にそういう手つかずの部分が残っているという意味でも、情報デザイン、情報システムの未来ってまだまだ面白くなりそうだなと思っています。

  

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この記事へのコメント

  • コビー

    やっぱり「場」が重要ってことですよね!
    2008年06月05日 10:34
  • 聴衆者1

    昨日はお疲れ様でした。講演に参加した一聴衆です。はじめまして。

    暗黙知を引き出し、形式知として落とし込むことの難しさを現場で感じた経験があります。
    団塊世代の大量定年で生じる、技能伝承行為の機会損失についてです。

    もったいないな、と感じるのは、
    後輩に技術を盗まれることを恐れて、暗黙知を言語化するという練習をしてこなかった人材が多いのです。
    先生としてヘッドハントできるくらい喋れれば問題ないのですが、実際はそのレベルに達していないことが殆どです。

    あと教える内容が「時代に即さない」ということもありますよね。
    その人が一生をかけて取得した技能がテクノロジーの進化で無用のモノとなった時、
    その人の蓄積そのものが全否定されます。

    例えば、かつては改札口で切符を一枚一枚すばやく切り捌くノウハウでステータスを持った人材の尊厳は、
    自動改札化に取って代わることのような。

    切符切り技能も、もしかしたら昇格者研修のワークショップなどで何か可能性があるかもしれません。
    それをどう引き出していくかは、経営側の施策が重要ですが。

    良い本を見つけました。

    「インクス流!」山田眞次郎著
    ダイヤモンド社

    携帯電話の金型は非常に短いサイクルで開発されています。
    そのノウハウの蓄積には熟練の金型職人の暗黙知が必須でした。
    インクスはその形式知化に成功したという内容です。

    #もし既にお読みでしたらご容赦願います。

    2008年06月05日 11:44
  • 盆暗

    確かに最近暗黙知できなくてストレス感じてますよ^^
    初の単著おめでとうございますをこの場を借りて言わせてください

    参考になるというより懐かしくなる本でした
    2008年06月05日 22:04
  • tanahashi

    >盆暗さん、

    「懐かしさを感じる」ってコメント、
    あの同じ星の人とまったく同じだけど、大丈夫?
    2008年06月05日 22:21

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