『ペルソナ作って、それからどうするの?』といっしょに読みたい参考文献:4.脳と意識、生物編

いよいよ明日発売の『ペルソナ作って、それからどうするの? ユーザー中心デザインで作るWebサイト』。書店によっては今日から店頭に並んでるところもあるようです。献本した人からもらった最初の「読者の声」。「ケーススタディがおもしろかった」だそうです。確かにあそこは人によってはおもしろいと思う。僕自身、小説仕立てのあそこが書いてて一番おもしろかった。

さて、発売日直前に最後の「いっしょに読みたい参考文献」の紹介。
これまでの紹介はこちら。


では、さっそく。

脳科学・意識

ユーザー中心のデザインを考える場合には、脳科学や意識についてもある程度知っておいた方がよいでしょう。参考文献としてはこんなものを挙げています。

  • 脳は空より広いか―「私」という現象を考える/ジェラルド・M・エーデルマン [書評]
  • 赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由/ニコラス・ハンフリー [書評]
  • 「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤/下條信輔 [書評]
  • 脳と創造性 「この私」というクオリアへ/茂木健一郎 [書評]
  • 脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか/茂木健一郎 [書評]
  • 天才論/茂木健一郎 [書評]

『脳は空より広いか』。脳神経科学者ジェラルド・M・エーデルマンが、神経細胞群選択説=TNGS(Theory of Neuronal Group Selection)とダイナミック・コア仮説により、意識とクオリアの謎に迫る一冊。エーデルマンが提唱するTNGSという理論は、ダーウィンの進化論における中心的テーマである"集合的思考"を神経、ニューロンに適応したモデルであり、従来の脳をコンピュータやチューリングマシンになぞらえた既存のモデルとは大きく異なり、個体に固有のクオリアが意識になぜ宿るのかについてとても納得いく説明を可能にするもの。脳内のニューロンのネットワークのような複雑系において、再入力と呼ばれる縮退のしくみをもったプロセスが働くことで、「ひとまとまりに統合されていて脳内で構成される」「膨大な多様性をもち、次々と変化する」などの特徴をもった意識が生まれる。エーデルマンはこれをベースにクオリアを説明する仮説を提案しています。

『赤を見る』。ニコラス・ハンフリーの『赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由』は、スクリーンに映し出された赤い光を見るという行為の中に生まれる感覚とその性質、それが進化してきた過程を探りながら、人間の意識の謎に迫ろうという大変おもしろい試みを、実際に2004年春にハーヴァード大学で行なわれた講演をベースに再構築して書かれた本。感覚は主観的で、かつ、私秘性をもちます。知覚されたものは客観性をもち、主体が関わるかどうかに関わらず、そこに存在します。それは他者との交換が可能ですが、感覚それ自体はきわめて私秘性が高いがゆえに他者の交換、共有が厳密には不可能といえます。感覚は、主体その人がつくり出すものであると、同時に、ハンフリーは感覚こそが主体を作り出しているのだと考えます。

『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』。錯視や錯誤を手がかりとして、脳と意識、意識と身体、環境などの深いつながりについて考察している本。下條さんは意識を脳が身体、環境と相互作用する中で生じてくるものと捉えています。脳の来歴という言葉は、意識が脳と身体や環境との相互作用の結果を蓄積し、それらに適応していく中で生じてくるものだということを示すものです。そうした蓄積による環境適応が錯視や錯誤を生むわけです。意識を生み出す脳は、身体に、環境に、そして、脳がこれまで辿ってきた歴史につながっていて、それらの相互作用によって、いまある世界を主観的に見ているのであって、そこには客観的な正解という図像は浮かび上がってこないことになります。意識や自由意志といったものを、身体や環境から切り離して考える還元論的な思考がもはや機能しないことがこの本を読むとよくわかります。

『脳と創造性』。「他者の存在が、自分自身が何者であるのかを発見する、あるいは新しい何かを創造する上で重要な役割を果たすことは、会話において典型的に現れる。」会話とはいうまでもなく脳にとっては外部の存在である言葉をもって行われます。茂木さんが言うように、他人に話すことは同時に自分に話すことでもあります。しかし、他者に向けて脳の外へと外部化される言葉は、脳の中だけにとどまる独り言とは違い、常に予期せぬ返答が返ってきたりします。自分の思っていたことが他者の目に晒され、他者の読解によって新たな他の感情を帯びた言葉となって自分の目の前に再度あらわれると、もはやそれは最初の自分の言葉が元になっているとは思えない外部性を秘めて自分に突き刺さってくるように感じることがあります。そのとき、はじめて他人に話していたつもりが実は単に自分に話していただけなのかもしれなといと感じられたりします。ここに創造性の発露がある。「創造性の最高の形式の1つは、自分自身が変わることである。」

『脳とクオリア』。この本を読んでの一番の感想は、茂木健一郎さんというのは物理学者なんだなという印象をもったこと。心の機能である認識、意識、理解、そして、クオリアなどをすべて「ニューロンの発火」から説明しようとする徹底したアプローチは、とても物理学的な印象を与えるものでした。ニューロンが個別で認識を生み出すのではなく、ニューロン相互の関係における自己組織的な活動を通じて生まれてくるということと、その自己組織化の過程において「相互作用連結なニューロンの発火は(固有時τにおいて)同時である」という「相互作用同時性の原理」によって説明が可能になります。もちろん、これは茂木さんの仮説であり、それが証明されたわけではないにしても、この物理学的な発想は従来の考え方をきわめてラジカルに覆すパワーをもっているという印象をもちました。

『天才論』。茂木さんがレオナルド・ダ・ヴィンチについて考察しながら、天才とは何か?ということや、天才と総合力の関係について、ご自身の考えを述べた本。茂木さんは、レオナルドが「ふたつの目」で世界を見ていたであろうという考察しています。「ふたつの目」とは、生涯30体以上の解剖を行い、機械としての人間、人体を機械としてのパーツに分けて描いたレオナルドと、『モナ・リザ』に代表されるように見るものに謎めいた不安感を与える絵画を描き遺したレオナルドという、異なる2つの面をもつレオナルドの特異性を称したものです。ひとりの人間のなかでそのふたつは「ふつうは相容れないものではないでしょうか」と茂木さんは言います。そのふつうでない「ふたつの目」を同居させていたのがレオナルドの天才性であると茂木さんは見ています。

   
 

生物学・生命

人間も生物です。生物学もかじっておいたほうがよいでしょう。

  • 生きていることの科学/郡司ペギオ-幸夫 [書評]
  • 系統樹思考の世界/三中信宏 [書評]
  • 祖先の物語 ドーキンスの生命史/リチャード・ドーキンス [書評]
  • 本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源/マーク・S・ブランバーグ [書評]
  • デクステリティ 巧みさとその発達/ニコライ・アレクサンドロヴィッチ
  • 動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ/池上高志

『生きていることの科学』。僕たちが「わたし」という質量性をともなう肉体を介して行っている事前における部分と事後において後ろをふりかえった場合にみえる全体の結びつきは、実は事前における一人称的な見方と事後におけるある意味自身の行動を客観視した上での三人称的な見方が混在することが成立しています。そして、この本来結びつきにくい両者を結び付けているのが「わたし」という質量性をともなう肉体の介在であり、その肉体が事前から事後へ移る過程で感じる「痛み=傷み」という体験だと郡司さんは考えています。携帯電話などの複雑なシステムにおいて部分情報問題が問題になるのは、この予期としての知覚をインターフェイスが誘発しないことに起因するのでしょう。そして、それは「痛み=傷み」のような主体にとって価値のある経験をあたえる情報の欠如があるからだと考えられます。

『系統樹思考の世界』。三中さんは典型的な科学が用いる2つの推論様式(「演繹」と「帰納」)に対する第3の推論様式として、記号論の創始者であるチャールズ・S・パースの用いたアブダクションという方法を導入することを提起しています。アブダクションとは、与えられた証拠のもとで「最良の説明を発見する」という推論方法であり、理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する方法です。専門領域を分類するにしても、単に領土の取り合いのように平面的に境界線を区切って色分けするようなやり方ではなく、系統樹的な歴史を含む分類法により個々の分野の関連性も含めた分類を心がけたほうがよいように思います。そうでなければ、メビウスの輪にはまったエッシャーのネズミ達を自由な世界に解放してあげることもできないのではないか?(これは昨日の「a href="http://gitanez.seesaa.net/article/98352150.html" target="_blank">ヒット商品、データベース、そして、言葉の壁」で書いた問題にも通じますね。)

『祖先の物語 ドーキンスの生命史』。ヒトから進化の系統樹をさかのぼって、生命の歴史を探索する本。歴史はそれが物語であり、その物語という線形的な語り口の性質からして、終わりを目的地に据えて語られます。しかし、ドーキンスが見るように、人間中心的に進化の歴史を時間の進行どおりに語ってしまうと、進化が人間を目的として実施されてきたという誤解を招く可能性があります。実際には人間は特別な目的地でもなければ、進化の最終形でもないわけで、ゾウから見ればゾウを目的とした進化の物語を語れるわけですし、すでに絶滅したヒト科の祖先ホモ・エレクトゥスをゴールに据えた物語も、私たち自身の存在を無視すれば実は可能なわけです。ドーキンスは本書を通じて、この類の「不連続精神」なるものに警告を与え続けています。それは直接、「不連続精神」について語られる<サンショウウオの物語>では、貧困と富裕の不連続性、教育現場での成績のレベル分けにおける不連続性、伝染病であるものとそうでないもののあいだの不連続性についても言及されています。

『本能はどこまで本能か』。マーク・S・ブランバーグは、本書の目的を「行動と認識に関心をもつ読者のために、適切な視点を提供すること」と記しています。時計と変わらぬ、また、それ以上に複雑なしくみをもつ生物が、ただの自然選択だけで実現できるはずもなく、そこには優秀な時計職人のような設計者の意思や思考が必要なはずだという進化論の自然選択に対する批判としてある。しかし、著者はこの考えをまったく裏返しにする形で反論を行います。フォークやナイフ、本や本棚などの人工物の進化を研究するヘンリー・ペトロスキーなどの著作なども引用しつつ、そもそも人間のつくるデザインそのものがひとりの天才がその卓越したひらめきによって生み出したものなのではなく、たくさんの人が関わる歴史のなかの失敗と改善の繰り返しのなかで自然選択的に優れたデザインが残ってきたのだということを明らかにするのです。

   
 

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