少しく控え目な私的コレクションを描いた絵など見ても、アーリーモダンの博識家たちが普遍だの、包括だのということを信じていなかったことがわかる。その大なるか小なるかを問わず、いかなる貯蔵庫をもってしても、あらゆる学知をおさめることはできない。デジタルなデータベースにさえ、できない。バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』
どっかの大きなネット企業さんに聞かせてあげたいですね。
『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』を読みはじめて以来、バーバラ・M・スタフォードの解くイメージングの世界にはまってますが、なるほど絵で考えられる人って確かに、「あらゆる学知をおさめる」箱を作ることができるということがいかに妄想じみているかには早くから気づくことができたのでしょうね。
マーケティング発想ではヒットは生まれない
それが逆にテキスト人間、数字人間だとわからない。池田先生も書いてましたけど、マーケティングやってる人は数字や言葉を相手にしてれば、売れるものが作れると相変わらず妄想を抱いてるようですが、数字をいじったところで無駄はなくせてもヒットは生まれないですよ。それにはグッド・ルッキングな視覚の力で、執念深くプロダクト志向でものづくりに精を出す方向に回帰しなきゃ、ダメですって。アップルさんだけじゃなくて、GEだって、シックスシグマ(数字)のウェルチからものづくり・デザイン志向のイメルトに代わって業績上がってるわけでしょ。これね、シックスシグマの手法とデザインの方法をちゃんとよく吟味するとなぜなのかがわかります。数字じゃなぜダメで、ものづくり的な創造的発想がなぜ必要なのか。そして、両者の違いは何かということが。まぁ、答えは言わないのでそれぞれ考えてみてください。
まぁ、無駄をなくすのも利益をあげるひとつの方法ですけど、それ、やりすぎると「デザインの現場に元気がない理由?」でも書いたとおり、自分たちのものづくり能力をどんどん失っていくだけだと思うんですよね。きっとその無駄のほうが削減してる無駄より、よっぽど大きいはずなんですけどね。
いい加減、数字一辺倒なマーケティング発想に偏りすぎるのはよして、視覚の力を活かしたデザイン発想にシフトした方がいいですって(売れる商品をつくる側じゃなく、効率良く売れるようにする側のマーケティングはまだ行けると思いますけど)。「カオス/池田研介、松野孝一郎、津田一郎」でも紹介したように科学の分野はとっくに物事をやたらと切り刻むだけの分析的発想だけじゃ埒があかないことに論理的にも直観的にも気づいているわけです。数字を扱うのは何枚も上手な科学の分野がそうなんですから、そろそろねー。
おっと話が逸れましたね。「あらゆる学知をおさめる」箱はないって話でした。
言葉じゃつながらない。特にテキストじゃ
アーリーモダンの博識家たちは自分たちの博識が一個の箱にはおさまりきれないことを視覚で直観的に理解していた。なぜなら、自分たちの博識が視覚的にはネットワーク状につながっていること、しかも、それが静的なネットワークではなく動的で、しかも、観察者の観察がそのつながりに大きく関与するような形のネットワークとしてつながっていることを知っていたからだと思います。ようは、そのつながりは観察者の観察自体がつながりの要因のうちに含まれるアナロジーの力でつながっていたのだから。そうであるがゆえに、観察者を除外した計算・分析的な分類法だけでは「あらゆる学知をおさめる」ことはできないのは当然です。
言葉的な分類ではアナロジーによってつながったネットワーク状の要素を絡めとることはできません。これは普段から視覚的ものづくりに真剣にたずさわっている方なら無意識に感じていることなんだろうなということを、最近、視覚的ものづくりに関わる人とそうでない人の話を聞いていると感じます。
これが口頭で発せられるコミュニケーションだとすこし事情が違ってきて、テキストベースでは見えなかったつながりが、視覚ベースほどではないにせよ、発動するんですね。その意味で文字文化以前のオーラル・コミュニケーションの世界ってもっとアナロジーが機能する場面が数多くあり、いまとはまったく異なる論理体系で世界が回っていたんだろうなと考えられます。差異に着目してNOという世界か、類似に着目してYESという世界かの違いです。
Webのネットワーク上では本来的な意味でのセレンディピティは期待できない
そんなわけで「ゆゆしき人間中心設計者」で書いた話ともつながってくるわけですが、僕は最近、ブログはつながりをつくる的な発想の限界をはっきりと感じるようになりました。ブログだけじゃなくて、いまのWeb全体ですけど。このデザインじゃ見知らぬ遠くの者同士がつながることはあっても、領域を超えたつながりはうまれにくい。もうすこし正確に言うと共通言語をもたない者同士のつながりが生まれることを期待するのはほとんど不可能だと思ってよいでしょう。
共通言語っていうのは日本語と英語とかそういう意味じゃなくて、会話でおなじ話題ができるとか、喧嘩になろうとも議論ができるとか、そういう意味での共通言語です。そもそも、話が噛み合わない同士は、いまのWebのネットワークではつながりが生み出せない。それは検索の際に、最適な言葉が思い浮かばないと探しているものを見つけられないのと同じです。
20世紀末、共同体生活がずるずるになり、偏倚なカルトが次々花を咲かせて、自分の頭では考えないひたすらな黙認、それでいながら我は頑として離さない態度を人々に植えつけたために、差異を超えて話すこともまた、できなくなっている。バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』
まさにこの状態ですね。「へんいなかると」が何を指してるのかはよくわかりませんが、「自分の頭では考えないひたすらな黙認」とか「我は頑として離さない態度」はまさに現状をよく表してますよね。差異に着目してNOというばかりで、類似に着目してYESということができない。
こういう状況をより加速しつつあるWebのネットワークでは、本質的な意味でのセレンディピティって起こり得ないのだろうなと最近考えてます。普通に生活していれば、たとえば街中を歩いていて、ふと気づく、わかっちゃうような、そういう発見が起こりえないんですよね。
これには脳科学の分野も人工知能の分野も認知科学の分野も本気でアナロジーについて考えてこなかったという理由もあります。パースのアブダクション、ライプニッツの結合知ということをきちんと相手にしてこなかったツケが回ってきている。
なんかうまい説明の仕方が見つからないので、与太話的に書いていますが、ここで書いてることって全部つながってることだと思っています。
マーケティングではヒットは生み出せないこと。どんなデータベース・システムをもってしても「あらゆる学知をおさめる」ことはできないこと、そして、いまのWeb上のネットワークでは領域横断的なつながりや本来的な意味でのセレンディピティは期待できないこと。
この問題を解決できるデザインの方法、視覚的編集方法こそが必要なんだろうなと思います。
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