ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか

ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか。
それはものづくりやデザインに関わる人にとって非常に重要なことではないかと思います。

マーケティング的発想やユーザー中心のデザインというものを誤解していたりすると、ユーザーにはもともと不満やニーズというものがあると想定してしまいがちです。なるほど、調査をしたり、ちょっと話を聞いたりすれば、人は自分が使っているものや自分が置かれた環境に対する不満をいろいろ述べるかもしれません。時にはもっともらしい話で、ある時、○○をしようと思って××をつかったら、△△の問題があってうまくできなかったという話をあなたに聞かせてくれるかもしれません。それを聞いたあなたはなるほどユーザーには「○○をしよう」というニーズがあるんだと考えるかもしれません。

でも、ちょっとだけ結論を急ぐのを待ってほしいんです。

というのは、「○○をしよう」とユーザーが思ったのは、実は「××」というものがアフォードして生まれたニーズなのかもしれないからです。ユーザーがそれを不満に感じたのは、「××」が「○○をしよう」と思わせるようなアフォーダンスを持ちながら、実際には「○○する」ことを妨げるような「△△の問題」があったからで、実は「××」が「○○する」ことをアフォードするようなデザインになっていなければ、そもそもユーザーは何も不満を感じなかったし、それどころか「○○をしよう」なんてことすら思い浮かばなかったし、その必要もはじめからなかったのかもしれないからです。

人とものとの関係はそもそもインタラクティブ

昨日紹介した『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』のなかでバーバラ・M・スタフォードも指摘していることですが、従来の主体-客体という関係性のなかで人-ものをみる思想においては、あたかも人の側に最初から固定的にものを使う理由や目的、ニーズといったものがあって、それを叶えるものとして道具があるという風に考えがちです。

しかし、実際はここまで書いたように、人とものとの関係はそもそももうすこしインタラクティブで、以前、「人生においてタギングは不可避」や「ブランドとは何か?:1.A Model of Brandとパースの記号論」でも紹介したようなチャールズ・S・パースの記号論(Semiotics)における三項論理のように、人-もの-ニーズ(用途)という関係が成り立ちます。人が変わっても、ものが変わっても、ニーズ(用途)は別の解釈が成立する関係です。

ようするに、ニーズ(用途)というものがそもそもアプリオリに存在すると考えるのが間違いなのでしょう。いまあると思われるニーズは現実にある環境やものが生み出したものだし、逆の見方をすれば、あるものをつくることでニーズそのものをつくることができるとも考えることができます

道具は使う人の作業自体を変える

このことをうまく表現しているのが以下の文章です。

ノーマンは、メモやチェックリストの使用を例に次のように指摘する。メモやチェックリストを作業で使用している場面を第三者的に外から眺めた場合には、それらの道具は記憶と作業の遂行の両面を補助し、強化するもののように見える。しかし、作業を遂行している人にとっては、メモやリストを使うことそれ自体が新たな作業であり、しかも、その作業はそれらを使わずに行うのとはまったく異なる作業であると。このように、道具は、使う人の認知を強化するわけではなく、作業自体を変えている。
川床靖子『学習のエスノグラフィー』

メモやチェックリストは、認知をサポートすることで作業を効率化しているのではなく、メモをする・チェックするという作業を新たに追加することで、作業全体の問題点を別のものに変えているというわけです。覚える・記憶するという作業を、記述する・記録するという別の作業に変えることで、人間の行動目的とその方法そのものを変質させているわけです。

最初に「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」ということを問題提起したのは、こうした意味でです。

ユーザー中心のデザインからイノベーションが生まれる場合とそうでない場合

ユーザー中心のデザインのアプローチで、最初にユーザーの行動やそのコンテキストを、エスノグラフィーやコンテキスチュアル・インクワイアリーなどの手法を用いて観察・インタビューする際にも、パースの参考論理的な人-もの(環境)-ニーズ(用途)のダイナミックな関係が想定できていないと、見たまんまの現象から誤ったユーザーのニーズや製品などのデザインの問題点などを固定化してしまう可能性があります。

それでは今あるものの改善はできても、イノベーションは生まれてきません。そこがユーザー中心のデザインのアプローチをイノベーションに用いることができているIDEOなどのアメリカのデザイン現場と、おなじアプローチをせいぜいユーザビリティの改善にしか用いていない日本のデザインの現場の違いなのでしょうか。

ものづくりを行ううえで「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだ」という発想をもち、それを踏まえたうえでのものづくり哲学をもっていないと、人のニーズと道具の関係が固定化された誤った図を描いてデザインをしてしまいがちだと思います。

繰り返しますが、それではイノベーションは生まれえません。

道具は身を入れて使え!

特に最近では、ものづくりやデザインにおいて、手法や技術が必要以上にクローズアップされている印象があります。手法だの技術だの勉強するのはもちろん大事ですけど、学生じゃないんだから、どっしりした哲学もってものづくりしなさいって思います。
いやいや、これは実際に手を動かしてもの作ってる人だけじゃなくて、ものづくりに関わる調査や企画してる人にも言えることです。自分の腹に哲学がなきゃ、いくら手法だの技術だの習得したって、作るべきものの形は見えてきやしません。

別に手法や技術の習得に明け暮れるのが悪いって話じゃありません。むしろ、勉強はどんどんしていい。一生し続けていいし、しなきゃだめだとも思います。積極的に新しいものを身につけていこうとする姿勢の人が僕は好きですし、自分もそうしようと思っています。

でもね、やっぱり自分の仕事がどこにどうつながってて、そのつながりにおいて自分は何であろうとするのか、自分の仕事が何をもたらすのかということを、そのネットワークの中で哲学として持てているかいないかで、取得した手法や技術の身に付き度合いがぜんぜん違ってくると思うんです。自分の仕事が世界をどう変えていくのかを意識できていて、そのうえで自分の仕事にどのような哲学をもって臨むかの覚悟がないかぎり、うわべだけ手法や技術を習得したって、それらがまともに役立つことはないでしょう。すくなくとも、そもそも手法や技術を考えた人たちにはそれなりに哲学をもって、それを実現するための道具を生み出したんだと思うんです。その哲学には関心を示さず、うわべだけでそれを使っておいて、なんだよ、使えないなんて文句を言ってみても仕方ありません。

道具はしっかりとした哲学がつまった身を入れて使わないかぎり、まともな答えなんて導き出してはくれません。「身体の一部としての道具という発想」が必要なんだと思います。しかも、しっかりとしたものづくり哲学をもった身体に道具はつながっているのだという発想が。
道具を使う手に魂がこもってないかぎり、道具や技術がどんなに進歩したところで、昔も今もよいものづくりなんてできるはずはないと思っています。

ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか。
それはものづくりやデザインに関わる人にとって非常に重要なことではないかと思います。

   

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