2008年05月27日

グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ/バーバラ・M・スタフォード

「去年、来てたあのワンピース。ほら、花柄のやつで・・・」といわれても、まったく思い出せないものでも、「ほら、あんな感じ」と指さされた実物のワンピースがあれば、それが実際にはほとんど似ていないということまで含めて思い出せたりする。百聞は一見に如かず、とは言うけれど、視覚の力はまさに直観を呼び覚まします。

これまでも「最初にパッと<映像がしっかり浮かばない>と」や「レオナルド・ダ・ヴィンチの絵のような緻密さで顧客のコンテキストを描く」なんてエントリーを書いてきましたけど、言葉で理解することと視覚的イメージで理解することはまるで違うことだと思っています。言葉の秩序には不可能な、領域を超えた秩序をいとも簡単に高速で感じさせることができる。計算ではどうにも解けないロジックを、視覚的イメージを扱える生物の脳は簡単に見抜いてしまいます。百聞は一見に如かずどころではなく、どんな膨大な計算でもかなわない直観を呼び覚ます力がイメージにはある。

元々、そういう考えがあったからでしょうか。
「電子の未来、知は片はしから曖昧になり教育は大混乱するだろうという声に抗って、イメージは良い形で介入することができることを示したい」とするバーバラ・M・スタフォードの『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』を、amazonがしきりに「これ買えよ」っておすすめするので騙されて、同著者の『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』といっしょに思わず買ってしまったのかもしれません。普段は「買えよ」と言われても買わないのだから、それなりに惹かれるものがあったわけですが、読み終えてみて、やっぱりこの本は買って良かったなと思いました。

イメージの復権と超分野

正直、読みやすい本ではありません。著者が「イメージの復権」を掲げて奮闘しているのはわかるのですが、その奮闘の様子をうまく捉えることがむずかしかった。でも、読み進むうちに、読みにくさは消えないまでも、著者の論点が徐々に理解できてきました。

本書は超分野の既に名のある、これから名を得ようとするイマジストたちに、イメージというもののイメージを再創造する根本的な仕事に取りかかれと呼びかけようとする。ただの消費ゲームだ、堕落だ、まやかしだ、倫理と無縁だと叫んで止まぬ大雑把そのものの支配的論法からグラフィックな表現を救えというのは、芸術、人文諸学、そしてもろもろの科学の境界を超えざるをえない課題であろう。
バーバラ・M・スタフォード『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』

著者は、この本で「イメージの復権」を示すのに18世紀の博物学、幻燈などの光学的投影装置、医学の分野における観相学や骨相学、そして、顕微鏡でとらえられた解剖されたカエルの中身や微生物などのイメージが、中世までのテキストの支配による分類の枠を大きく超え出て、超分野的に芸術・人文学・科学をつないでしまったことに焦点をあてています。
「ずっと学問の世界を動かしてきた言語中心的パラダイムを、人びとが使える総合された多元的なパターンをうみだす空間にデザインし直すことの積極面を敢えて表に出すことをもって結論としたい」という著者は、まさに膨大なテキスト情報によってこれまでなく微細に引き裂かれ、かつ、分野横断の共通言語を失って、息絶え絶えの「芸術、人文諸学、そしてもろもろの科学」をつなぐものとしてのイメージングの力の復権を訴えているのです。

コレクション、そして、コネクション

この本にはたくさんの図版が紹介されてはいますが、正直、18世紀の博物学といっても、僕たち日本人にはピンと来なかったりします。これが読みにくさの1つの要因になっているのかもしれません。

僕自身は以前、17世紀から20世紀初頭に到るフランス絵画界における美術カタログの歴史を探求した島本浣さんの『美術カタログ論 記録・記憶・言説』を読んでいたり、遠い昔、大学時代には澁澤龍彦さんの本を読み耽っていた時代もあったので、なんとなくイメージできましたが、そこで実際にも作られたし絵にも描かれた驚異博物室の「エキゾティックな動物、奇態な貝殻、面白い形をした石、珍しい花の絵」が並置された光景は、日本で言うなら伊藤若冲の「動植綵絵」や「樹花鳥獣図屏風」を彷彿とさせます(若冲もまさに共振するように18世紀の人です)。

バロックの驚異博物館、即ち特別な箱だの珍品満載の凹部だのを持つ記念物品用の魔の容器に典型を見る、人を呆然たらしめる諸物並置をなぞるかのように、このプラグマティックきわまる歴史再構成の形式は、同時代における範疇化の諸体系のいかに不確実、いかに穴だらけなものをあばきたてた。(中略)人工物か、天然物か、異教の物かキリスト教の物か、普通の物か異国の物かは問わず、ともかくそうした物どものは、見出す行為そのものがいかに偶然と雑然のわざくれであるかを即教えたわけである。精妙に三次元化されたこのさ寄物陳思のコラージュを眺めてみると、いかに我々の学習が断片を闇くもに集め、編集する骨折りによって成り立っているものかがはっきりしてくる。
バーバラ・M・スタフォード『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』

18世紀博物学の超分野的蒐集による三次元的コラージュが、現代のテキスト主体のグーグルの検索結果やSBMのホットエントリーとは異なるのは、コレクションされたものがコネクションを直観的に想起させる点でしょう。これはテキスト情報だけではどうにもならない。イメージの価値を見直す理由はここにあります。
著者はこの本の終わりで、イメージが起動するアナロジーにライプニッツ的な結合知(アルス・コンビナトリア!)を見てとりますが、それは集合知が問題にされる現在に情報社会での主要な論点とは明らかに異なるところを見ています。

イメージング新世紀へ

領域横断的に集めて並べることで、アナロジー的なつながりが直観的に想起される仕組み。

僕がこの本に惹かれたのは、そんないまと異なる情報システムの未来の方向性をこの本が指し示してくれるように感じたからです。
この方向性はちょっと追いかけてみたいので、続けていっしょに買った『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』もさっそく読み始めましたし、訳者の高山宏さんの本も2冊ほど入手したりしました。

最後にいくつか気になった点を未整理なまま、引用しておきましょう。

  • 芸術も人生同様、どっちつかずの世界が相手である。そうやって本来が測定不可能なものだということを弁えた倫理的美学をつくりださない限り、数とか言葉とかで云々できる精確さに欠けている、即ち腐敗のしるしとする見方がこれからも威張ってまかり通るだろう。
  • 想像的な再編集が必要とドーバントンが考えたのは、計算ずくで配された事物ばかりずっと見続けるのは知的に危うい事態に違いないからである。そうした余りにあからさまに構造化された条件下では見る人間の反応は、有無を言わせぬ全能の方法に予め統御されているだろう。システムというものは世界を探索し発見しようという目玉人間の好奇心を刺激しないし、事物そのものを研究してみたい欲望を鈍らせてしまう。
  • 要するにイメージというものは、情報を一度に小空間にディスプレーしながら、それをミニチュア化し、圧縮し、組み合わせる力を持っている訳である。
  • コンスタンツ大学の生物学教授であるフーベルト・マークルは"gene" "genus" "gender" "generation"そして"genius"といった語が共通の語源を持つことに注意を促している。人文寄りの生物科学の国際的スポークスマンたるマークルは、こうした語群を「命を与える現実の原理、あらゆる存在のgenuineな核」と結びつける。
  • ビジネスの世界で独立企業が次々潰れ、簡単な合併の経済で動くひと握りのグローバルな巨大連合企業ができていったのを考えてみればよい。多様な分野間の架橋、それこそまさしくデザインの問題なのであって、混成のイデオロギーが自動的にもたらした結果であったり、ましてや金がないという悲しい現実の行きつくところというのであってはならない。
  • それ以上還元不能な線ヴェクトル、対応する原色が、可触のコンテクストから抽象されて形づくるライプニッツ的組み合わせ術、というかベーシックな視覚言語から、さまざま発見されたり発明されたりしてコミュニケーションが引き出されてくるのだ。と同時に、これらのデザインは混沌の時代のアナーきーと苦患に直面した見る人間の心理状態を絵にとどめた歴史の記録であった。

先にも書いたとおり、読みにくい本ですが、「ゆゆしき人間中心設計者」あたりに書いたことにピンときた人はぜひ読まれることをおすすめします。



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posted by HIROKI tanahashi at 00:39| Comment(1) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
若冲と江戸絵画展 に行けたことは 最高のめぐりあいでした。
Posted by 村石太仮面&流 竜馬 at 2010年09月18日 16:38
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