津田 マクリントックというトウモロコシの遺伝子の研究者がいました。彼女がやったことは何かと言ったら、顕微鏡で観察するだけなんです。しかし中へ入ってしまうわけです。遺伝子の中へ自分が入ってしまう、そういう感覚を持つんです。それで予想していくんですが、彼女の予想はほとんど当たっています。(中略)私が複雑系の技術として直観を養うという言い方をしているのはまさにそういう意味なんです。だから本来ならそこは記述できないわけです。記述できないんだけれども、その中に同化するというプロセスは我々には出来る。脳はそういう作用を持っているわけです。松野孝一郎×津田一郎「複雑系のシナリオ」
池田研介、松野孝一郎、津田一郎『カオス』
こういうことが科学の文脈のなかで語られていることがすごいな、と。
インターフェイスを問題にする
昨日の「普遍的記述のやり方だけではすくいあげられないものがある」でも取り上げた『カオス』という本ですが、外側からの記述と内側からの記述がつねに矛盾を抱え込みながら内外を行ったり来たりするインターフェイスを問題にしているところが、僕には非常に興味深く感じられます。津田一郎さんは「インターフェイスをとおして出てくるのがロジックであって、中にも外にも実はない」とか、「行為に伴って出現する何ものかをロジックと呼んでいるのだとすると、言葉も似たようなものだろう」とかいう際=境界面での話は、なるほどなーという感じ。実際、松野さんもアフォーダンス理論との関連を言及していますが、「中にも外にも実はない」とか「外に出てくる時に、一緒に」という感覚は、アフォーダンス理論における情報の位置とすごく関連しているように思います。
記述不可能な内部を直観で見る
あるコンテキストの只中で、あるひとつの個別が行為として選択される際に、ロジックも、言葉も、情報も生まれてくる。その普遍から個別へのインターフェイスにカオスの関係をみて語られるのが本書ですが、この過程は、結果を機械論的に外部から記述することは可能でも、内部的な選択の過程を記述することはこれまでのしきたりに従ってはいては不可能です。それを見ようとすれば、トウモロコシの遺伝子の「中へ入ってしまう」しかない。いや、実際に入り込むことはできないのだから、そこで直観が必要になる。これはものすごく納得がいく話です。客観的な記述が不可能だからと言って無視してきたのがこれまでの科学だとしたら、外部記述の限界を知ったうえで、直観的な内部観測に賭けるのはいさぎよい。むしろ、科学のような分野でこれほどまでに記述の不可能性を理解したうえで直観に賭けるということが試みられているのに、より記述不可能性が高いビジネスの分野で、やたらと数字ばかりを頼りして因果関係から予測をたてることに躍起になり、直観でものを見ようとしないのは単に腰がひけてるようにしか思えないんですよね。まったくいさぎよさに欠けます。
外部記述が可能なのはすでに起きてしまった事柄のみ
外部記述が可能なのは過去にすでに達成されたものに限られます。ある状態が別の状態にすでに移ってしまったあとでなら、そこに因果性をみる機械論的な発想が可能になります。それはドラッカーがビジネスの世界において、数字で理解できるのは過去の事柄だけだという旨のことをいったのと何ら変わりはありません。そこにはその結果を生み出した当事者の内部記述がみられません。他人事のように外部から結果をみてあとで記述しただけのものです。
しかし、カオスの状態においては、よく知られるように初期状態の違いが結果に大きな相違をもたらします。そこに機械論的因果関係を読み取るのは「風が吹けば桶屋が儲かる」という笑い話を本気で信じるのとおなじくらい馬鹿げています。また、これだけ複数のパラメータが存在する環境において、直線的な因果関係を想定すること自体、馬鹿げているし、それが計算可能だと考えること自体、無知というしかありません。
もちろん、機械論的発想がすべてダメだというわけではありません。機械論的なモデルを想像することにも意味があることは非常に多い。特にそれによって何か新しいことを考え出そうとする場合は大いに機械論的な因果関係のモデルを利用した方がよいと思っています。
むしろ、僕はアフォーダンス理論やエスノメソドロジーがあまりに機械論的発想を無視してしまっていることの極北的な発想に不満をもったりもします。ただ、無垢な機械論的ユートピア発想に比べれば、「中にも外にも実はない」という見方の方が親近感をおぼえますし、何も生み出そうともせず、ただ自分たちの自己弁護のためだけに機械論的因果関係を想定するのなら、それは時間の無駄でしょう。
内と外を、行ったり来たり
「ゆゆしき人間中心設計者」というエントリーでもすこし触れたことですが、いまの情報デザインというのはあまりに情報というものをスタティックに考えすぎていて、それゆえに脳に溜まる成果よりも、機械の側に延々とアーカイブができるだけのデザインになってしまっているように感じられます。それは情報というものが「中にも外にも実はない」という感覚に欠けるからなのでしょう。しかし、脳にとっての情報というのは、そういうものではありません。
脳は環境の情報を「内部」に取り込むが、それだけではなく脳自身が作り出した文脈に従いその情報を変更する。脳は環境情報そのものは見ていない。むしろ脳自身が変更した環境を見ているのである。従って、情報の意味では脳は環境に影響を与えたとみなすことができる。このような脳活動によって影響を受けた環境情報が、また脳活動のありかたを変更する。津田一郎「カオスの起源-数理神経哲学からのアプローチ」
池田研介、松野孝一郎、津田一郎『カオス』
この内と外が複雑に絡み合って行ったり来たりを繰り返す情報のインターフェイスにおいては「脳と環境とが情報の意味ではもはや独立ではないことを意味する」とみなされます。
このような視点から情報というものを捉えていかないと、情報が人体に意味のある影響を及ぼしうるような情報デザインというのは考えられないだろうと思っています。
さて、次はこれ読もうっと。
関連エントリー
- 普遍的記述のやり方だけではすくいあげられないものがある
- ゆゆしき人間中心設計者
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