再現可能性、自然の分離可能性を前提として、誰が試みてもおなじ結果が得られるような物事を中心に扱い、また、それを目指すことで「改善」が図ることができ、不確定なものを排除し、快適なコントロールが実現できるだろうと夢見られてきました。
しかし、その夢ももはや夢だとわかり、現実は理想のモデルを失い、明確な方向性を見出せずにいます。しかも、たちが悪いことに理想を失いつつもモデルそのものは形骸化したまま、動き続けているものだから、記述可能(再現可能)なモデルで将来の制御が可能であるかのように、マニュアルやメソドロジー(ライフハック!)、数値的な実証性を重視する傾向が空回りしているように思える今日この頃。
一方、機械論的なモデルを提出した当の科学のほうはといえば、
従来のしきたりでは個別を普遍に押さえ込むことができれば、一件落着、話がすっきりいく、とされていた筈です。ところが複雑系はそれとは逆のことをやり出した、つまり普遍的なものを個別的なものにもっていこうとしているわけです。松野孝一郎×津田一郎「複雑系のシナリオ」
池田研介、松野孝一郎、津田一郎『カオス』
という風に、むしろ再現不可能性や自然の分離不可能性を相手にしているように思えます。個別の差異を捨象してユニバーサルなものへと還元する方向から、ユニバーサルに存在するものそのものがもつ個別性に目を向けている。いったん、科学を信仰しつつも、このあたりの変更にきちんと追随せずに機械論的モデルを妄信し続けていることにいまの停滞の要因の1つがあるのではないかと最近思っているんです。
一価的、普遍的記述のやり方だけではすくいあげられないものがある
そういう意味で科学って真摯だなって思えます。ちゃんと思考を続けてるから。近代物理学は再現性のある実験事実にのみ注目することによって、自然過程として絡み合った現象を分節化し、力学、電磁気学、さらには熱力学の法則を帰納して行きます。そして、その結果発見された基本法則は極めて単純な美しい形をしている。池田研介「物理学とカオス」
池田研介、松野孝一郎、津田一郎『カオス』
この「極めて単純な美しい形」が近代以降の美しさの1つの基盤になっていたと思うんです。いわゆる普通にイメージされるような「単純」という意味ではなく、研ぎ澄まされて無駄を極限まで削り取られた末のシンプルさ。それが近代から現代に続く美しさの根底にあったものであるように思えます。
しかし、
民俗学や歴史学などにおいても、一価的、普遍的記述のやり方だけではすくいあげられないものがある。むしろすくいあげられないものに新しい意味が絶えず付け加わっていくようなモノの見方が必要である。池田研介「物理学とカオス」
池田研介、松野孝一郎、津田一郎『カオス』
「一価的、普遍的記述のやり方だけではすくいあげられないものがある」。カオスや複雑系を見つめる視点には、そうしたところがある。なんでもかんでも普遍的な記述により制御可能と考えてきた近代主義の思考とはまったく別の一回性や不確定性に着目する視点が、もっともそうしたものを苦手とする物理の分野でもきちんと行われているところに科学の真摯さを感じます。
普遍的なものを個別的なものにもっていく
ひるがえって古典物理学の機械的な世界に夢を見せてもらった近代的思考がそうした科学のシフトにきちんと追随できているかというとこれがイマイチ。まったくダメかといえば、そうではなくてデザインの分野でもエスノグラフィー的な視点や、普遍ではなくコンテキストを重視した方法論も取り上げられているように、機械論的な発想から脱却しようという試みも見られなくもありません。でも、そうした試みにさえ「ユーザー中心設計における行動分析の重要性と、分析不在のペルソナの危険性」で書いたように、そうした手法そのものを機械論的な発想で使おうとするクセが抜け切れません。ペルソナをつくる場合でも、あたかも人間というものを近代主義が前提とする個人モデルで固定的に捉えようとしてしまう傾向が根強くあります。
しかし、そうした視点でペルソナ/シナリオ法を使っても意味はありません。むしろ、「一価的、普遍的記述のやり方だけではすくいあげられないものがある」からこそ、スタティックな視点で分析的・分類的に人やその行動を捉えるのではなく、カオスの伝達において「全体を見渡してそれがどういうふうな位置でどんなふうに分布しているかは、それを人に教える、誰かに伝えるに際して、データそのものを出すしか仕方がない」というのとおなじ意味合いで、環境からの分割不可能性や再現・記述不可能性を理解したうえで全体的な記述が必要であることを理解しなくてはならないのだと思います。
それは必ずしも「極めて単純な美しい形」にはならないのかもしれません。しかし、そこからしか形骸化した近代モデルを乗り越えていくデザインの提案は生まれてこないのではないかと思っています。
世界から受ける受動的な刺激と、私が能動的に創り上げる表象。この二項対立は、モノと言葉、トークン(個物)とタイプ(類)、世界と観測者の対立です。ここにあるのは、もちろん、一方が他方の言葉で置き換えられるような単純な一元論ではないはずです。かといって、まったく無関係で通約不可能な二種類の概念装置が、対を成している、というだけでもない。これら二つの概念装置は、互いにうまい翻訳関係を持たないのに、なんらかの形で関与しあっている-とまぁ、多くの場合、話はここで終わる。それ以上でも以下でもない。
「互いにうまい翻訳関係を持たないのに、なんらかの形で関与しあっている」。そんな世界と観測者の相互依存性を視野に入れつつ、従来の個別を普遍に押さえ込む発想ではなく、普遍的なものを個別的なものにもっていくアプローチの研究・実践こそが求められているのではないかと思うのです。
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