そもそも言語や文字や画像というものは、その社会のその出来事の連続と変転の、その風土のなかで示された「興」と、そこに属している民族や部族の「体」が対応したものとが、一種の“抜き型”になって発生し、確立してきたものだった。
(中略)
これがITデジタル社会に変じたときに、さて、どういうことを感じるべきかといえば、そこに身体を感じるより、むしろ人工的サイバー感覚の極致をこそ感じたほうが、つまりはレプリカントになったと思ったほうがずっともっともらしいのだ。それをむりやりユーザーフレンドリーで、環境にやさしいコンピュータ・ネットワークがありうるなどと思うのは、本末転倒というより、事実誤認もはなはだしい。
僕が人間中心設計やらユーザー中心デザインという名のもとにデザインを考えつつ、いわゆる西洋型の人間中心設計=ユーザー中心デザインの手法だけでは、決して突き抜けられない壁だと感じ、何か別のもっと生物中心設計あるいは情報中心設計のようなものが必要だろうと感じているのは、まさにこの「事実誤認」を捨て置くことはできないと感じているからです。
ゆゆしき人間中心設計者
松岡さんは、上記の引用に続けて、こう書いています。「コンピュータやITメディアがゆゆしいというのではない。それらに使われているわれわれが、ゆゆしいのだ」と。まさに「ゆゆしい」のはコンピュータやITメディアを利用している僕らの身体であり、その身体が蓄える知識です。そんなになんでもかんでも外部化して、身体側への蓄積なしで済ませていることに危機感を感じないんでしょうか?ここを誤認したまま、「人間中心」とか「ユーザー中心」とか言ってるようでは、いかんなと思うのです。ここに疑問さえ感じない人間中心設計者ほど、ゆゆしきものはないでしょう。
機械に人間をあわせるのか? それとも人間の可能性を引き出す機械を考案するのか? それには人間に対する理解が足りない。人間の体験ということ1つとっても。
今日、世の中は「情報猟犬」(インフォメーション・ハウンド)時代に席巻されている。グーグル検索の力は侮れない。けれども、その検索感覚がいくら高速で、クリックボタン・ムーブがいくら柔らかくてカジュアルになっていても、そこにいくら田園や人体の擬似餌がついていても、それをもって、そこに「タッチイン」や「フィールイン」の感覚や、ましてや「ガットフィール」(内臓感覚)が感じられると思ってしまうのは、いささかやばい。
いくら接しても情報が蓄積されるのは機械の側で、人間の側に蓄積が起こらない。この感覚が非常にやばいなと思うのです。「iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い」ほか、何度も書いていますが、筆や楽器という道具であれば、人間の側に身体的な意味も含めた知恵の蓄積が起こります。しかし、iPhoneのさわり心地がどんなに良くてもそれに触れ続けたところで人間の側に蓄積は起こらないというところの問題に気づかないのはどうしてでしょう。
それはWebでも同様で、向こう側に人間がいるやりとりであればまだしも、単にニュースやアーカイブされた情報を読むだけでは知識の蓄積が起こりにくいという問題がある。これのどこが「人間中心」なのか「ユーザー中心」なのかと疑問を感じない人間中心設計者はかなり鈍感なのではないかと思うのです。
人間の身体をレプリカント化した状態で、いくら使いやすさや、単に使い心地という意味でのユーザーエクスペリエンスを追及しても仕方ないということに気がつかないのはどうしてなんでしょう(UXを「おもてなし」と言いかえてみたところで、その人間的なあまりに人間的な狭隘さはすこしも変わりません。だって、どう考えても老舗旅館のおもてなしのほうが行き届いているし、そこにはもっと身体に染みわたるような蓄積が得られる可能性が秘められているのですから)。それ以前にいまあるデジタル機器やITメディアのユーティリティこそをまず疑うべきではないかという気がしています。human-information interactionというものをこれまでとは別の視点で見つめる必要があると思っています。
なんかこれはすごく根が深い問題で、「デザインの現場に元気がない理由?」で書いてるようなことや「ユーザー中心設計における行動分析の重要性と、分析不在のペルソナの危険性」で書いてる問題につながるところなんですよね。いや、それ以前に思想・哲学の見直しがやはり必要ですし、やはり、近代以前と近代以降から現在の違いというものを含めて、広い視野で生物や宇宙というものにおいて情報というものがどういう役割を果たしてきたかというところからやりなおした方がいいのではないかと思っています。
このゆゆしき事態をまるで感じてさえいない人間中心設計者がいるとしたら、その鈍感さは度を超えているか、もしくは単に不勉強なのか。
「『ペルソナ作って、それからどうするの?』といっしょに読みたい参考文献:3.日本文化・ものづくり編でも紹介していますが、松岡正剛さんが『花鳥風月の科学』や『日本数寄』で書いているような意味での「マルチメディア」ということをもっと真剣に考えないといけないのでしょうね。
うーん。それにしても、ああいうもの読んじゃうと、なんか焦りますね。
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