デザインの現場に元気がない理由?

そんなこと思うの僕だけなのかな、とか思っていたら、やっぱりいまの世の中、プロダクト系のデザインが元気がないと感じている方はいるそうです。

元気がなくなるのはとうぜんで「売れるものをつくる」ということ以外に行動哲学がないわけだから、身体が元気よく動くはずもないんですよね。数字ばっかりいじくりまして、未来予想の出来そこないのようなことをしても、「何を作るのか?」という答えなんて見つかるはずはないですから。デザインの場合、未来を予測するんじゃなくて、自分たちがつくる未来を想像することが大事なんですから(「どういう世界を実現したいのか。そのために何が必要か」参照)。

もちろん、数字をいじくるなとかいうことではないんです。それはそれでもちろん必要です。デザインばかりが仕事の方法じゃないのですから、それはそっちでやっててくれればいい。ただ、それだけではものをつくるためのデザインを考える上では役に立つ情報とはならないことをちゃんと理解して、デザインの現場に必要以上に数字を持ち込むなということです。役に立たないものを仕事場に持ち込まれることがどれほど非効率化はそれこそ数字でわかるでしょう。

行動をうながす哲学がない

デザインには「売れるものをつくる」以外の行動哲学がなければ、実際にデザインをする作業につながる行動のモチベーション・元気など生まれるはずもないと確信しています。数字なんて過去の静的な状況しか表せないわけですから、動的にものごとの変化を捉えることが必要とされるデザインには向かないわけです。
もちろん、数学的に高度なモデリング発想ができる人なら数字もデザインに役立つでしょうけど、ほとんどの人はそうじゃないわけですから、もっと言葉で考え組み立てることやものそのものや現象そのものを見つめるようにしないとだめでしょって思います。
ようは哲学・思想を生み出せる人がいないってことですね。

そんな元気をなくしたデザイン現場の状況を微力ながらすこしでも変えられればという思いでやってるのが、先日から連載をはじめているペルソナスクエアでの「ペルソナ作ってそれからどうするの?~ライフスタイルを提案するユーザー中心のデザイン~」だったりします。
今日、「1-3.家政学とテイラー・システム」が公開され、いったん1区切りがついて、いい機会なので簡単にまとめてみようかと。

1-3.家政学とテイラー・システムhttp://www.personadesign.net/square/2008/05/13.html

人びとの暮らしとデザインの関係の歴史的変遷を探る

そもそも今回の連載では2つのテーマをもうけています。その1つが「人びとに具体的な生活様式を提案するものとしてのデザインの役割を考える」というものでした。ようするに、新しいデザイン哲学・デザイン思想を模索するってことです。

人びとの生活様式とデザインの関係をあらためて考えてみることで、なぜいまペルソナ/シナリオ法やユーザー中心のデザインというアプローチによりデザインを考える必要があるのかという点を明らかにしようと思っています。その上で、どのような意識でペルソナ/シナリオをつくればよいか、それをどう活かせばよいかという点を考えていこうというのが1つ目のテーマにフォーカスした第1部の主意です。

それを考えるためには、これまでの歴史においてモノのデザインと人びとの暮らしがどのように関わってきたかを知ることが必要だと考えます。5月30日に発売予定の著書『ペルソナ作って、それからどうするの? ユーザー中心デザインで作るWebサイト』でも、デザインをする際には「モノの歴史についてデータを集める」ことの必要性について書いていますが、デザインと暮らし、あるいは、その時代ごとの思想とデザインということを考える必要性があると思うのは、以下のような意味合いからです。

状況やコンテキストを作り出すことと認知的行為や学習を組織することは、一方が他方の要因であるといった関係ではなく、むしろ、互いが互いを形成し合う関係にあると見るのである。
川床靖子『学習のエスノグラフィー』

インタラクションというものの捉え方が従来の一般的な捉え方では間違っているということです。主体と対象みたいな形で双方を固定したスタート地点をもつものとして捉えるのではなくて、状況やコンテキストははじめから独立してそこにあるわけではなく人々の関与によって立ち現れるという風に捉える必要があるということです。エスノメソドロジー的な発想ですね。
さらに人々の側はそれ以前の状況、コンテキストによって、その人自身、異なる複数の状態に置かれているので、状況と人々が織り成す相互作用の結果はきわめて確率的なシュレーディンガーの猫のような状態にあるわけです。

そういうネットワークのなかで道具というものの捉え方も単にある目的を達成するために用いられるサブ的なものとして捉えてしまうと間違ってしまうんですね。道具を単に目的-ゴールの線形の枠組みに押しやってしまうと現実を見誤ってしまうのでしょう。

道具というものを捉え損ねた近代デザインの間違い

そうではなく、道具が1つ増えれば作業そのものが変わるわけです。道具によってゴール設定そのものが変化するのですね。
いまのマーケティングで人びとのニーズを探るとかいう調査をする場合でもここの発想に間違いがある。穴埋めじゃ決してないわけですよね。はじめから穴があいてるわけじゃなくて、むしろ鍵穴と鍵の両方をいっぺんに作りだすっていうことが必要。そんなのデザインによってしかできないことだと思うんです。数字をいじっても出てきません。

モダンデザインは機械的な発想で、ある目的を達成するためのゴールを目指すための道具を機能主義的にデザインしてきたわけですけど、結果、多くの道具が生み出されたことで作業そのものと同時にゴール自体が想定したものと変わってしまったわけです。

この歴史的な誤りをもうすこし詳細に知っておく必要があるだろうと思っています。デザインとは失敗から学ぶものですから。

連載。ここまでの流れ

もうひとつ逆説的ではありますが、人々の行動は人々の思想・哲学に左右されるということもあります。道具と環境、人びとの関係は、状況やコンテキストとの相互関係のなかで、さまざまな形をとる可能性をもっているわけですが、ただ、それは決して自由な選択が行われるというわけではなく、あくまでネットワークのリンクがあらかじめできている選択肢のなかでしか選択が行われないわけです。そのリンクの結びつきを左右するのが、思想・哲学です。

デザインとはある意味では、人々の思想と行動の関係が描く輪郭を観察によって理解し、その関係を固定するしきりを具体化する作業を指すのだと思います。

その思想の歴史的な変遷を知るというのも、連載の目的の1つとなっています。

では、ここまでの3回の連載はどうなっているかというと、おおよそ以下のような流れで近代デザインの流れを遡って概観しています。

  • 1-1.近代デザインが描いた未来のライフスタイル
    1956年にGMが製作したフィルム『デザイニング・フォー・ドリーム』で描かれた、電子的に制御される全自動キッチンや、ハイウエイを走る全自動自動車ファイアーバードのイメージなどの夢の夢のライフスタイルの設計案。それが50年代半ばから60年代半ばにかけてのテレビに出現してきたホームドラマの原型となって、実際の家庭におけるライフスタイルを決定していく。近代以前の封建制や階級制度、宗教に結びついたデザイン、生活スタイルの呪縛を取り除き、モダンデザインはそうしたものに縛られない「誰もが自由に自らの生活様式を選択できる」ユニバーサルなデザインを模索し、そのなかで近代の新しいライフスタイルを提案しはじめる。
  • 1-2.バウハウスとユニバーサル・デザイン
    1919年にワイマール国立の美術および建築に関する総合的な教育のための学校として設立されたバウハウスは、近代デザインの方向性を数々の具体的なデザインの提案(ミースの「ユニバーサル・スペース」やグロピウスの大量生産可能な積み木型住宅など)によって先導していくことになる。その影響は現在のISO13407:人間中心設計プロセスの考え方やイリノイ工科大学"Institute of Design"が掲げる"Human Centered Innovation"にも受け継がれている。近代化する社会、工業化・資本主義化する社会において「既存の問題全体を解決し既存の現実を変革し新たに世界を統合する理念と計画。それが近代のプロジェクトに求められていた」状況で、デザインによって1つの回答を提出したのがバウハウスであり、ユニバーサル・デザインのコンセプトだった。
  • 1-3.家政学とテイラー・システム
    バウハウス初代校長グロピウスはフォードから大きな影響を受けていた。住まいの領域でのフォードを目指したともいわれている。フォードがベルトコンベア生産方式でT型フォードの生産をはじめたのが1913年だった。また、1925年にエルンスト・マイとマルガレーテ・シュッテ=リホツキーが「最低限の生活のための住居」というコンセプトの集合住宅の計画として提案した「フランクフルト標準」にはアメリカの家政学者クリスティーヌ・フレデリックの1913年の著書『新しい家事管理』に多大な影響を受けた「フランクフルト・キッチン」が含まれていた。フォードのベルトコンベア生産方式にも、フレデリックの科学的な家事管理法にも影響を与えたのが、現代の生産管理の基礎を築いたフレデリック・テイラーのテイラー・システムだった。テイラーは1898年から所属していたベツレヘム・スチール社での生産管理の現場において科学的管理法を生み出し、1911年の著書『科学的管理法の原理』の中でまとめている。テイラーの科学的管理法においては、仕事に従事するオフィシャルな時間とそれ以外のプライベートの時間を明確に分けることや、道具や手順などの標準化によって生産効率の向上が目指される。そうした考え方が近代における個人の確立や「効率」を重視した仕事や家事の現場でのデザインを方向づけていく。

この続きで日本の近代におけるデザインの変遷もみていくわけですが、近代から現在にいたるまでのデザイン・コンセプトは一言でいえば「改善」なわけです。生活の「改善」ですし、仕事の「改善」です。それも近代においては機械的な意味での「改善」でしたし、現在はさらに情報技術的な意味での「改善」です。

ただし、現在においては近代デザインの失敗からそれほど「改善」がデザインを支える思想にはなりきれていない。むしろ、その思想がにわかには信じられなくなっていて、それでも、それにとってかわるものがないから信じることもせずに、それに従っている状況でしょう。そんな状態でデザインをする元気なんか起こるわけありません。

その意味で、『ペルソナ作って、それからどうするの? ユーザー中心デザインで作るWebサイト』やいまの連載で書いてることって「ペルソナ作って、それからどうするの?」であると同時に、「いきなりペルソナ作ってどうするつもり?」ということでもあるんですね。哲学も思想もないのに、ペルソナ作ったり、デザインしたりってできないよね?っていう思いがあるわけです。

そんなことを思いつつ、こんな大それたお題に果たして答えが見いだせるのかなんて不安も覚えつつ、連載を続けている状況でしょうか?

   

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