目に見えるものだけでなく、普段感じていないものに関しては、感覚を失ってしまうし、そもそも、感じたことがないものに関しては、知識では得ていても、その存在を認めにくくなってしまう傾向があると思っています。
長いあいだ、木々の生い茂った山々に足を運ばなかったりすれば、すぐにその山の空気が都会の空気とどれほど違うかは忘れてしまいますし、しばらく美味しいものを食べずにジャンクフードばかり口にしていると本当に美味しいものがどんなだったか忘れてしまいます。積雪の多い場所で暮らした経験がなければ、そこでどういう暮らしを営めばいいかは想像がつかないし、盆地の夏の暑さを経験したことがなければ、夏場に備えてどんな準備をすべきかもわからないでしょう。
目に見えないものを想像できる力がないと思考パターンが単調で狭くなる
こうしたことはわからないまでも想像力を働かせることで、その場になんとか意識をつなげることはできます。しかし、それが普段目の前になければ意識を保つことさえむずかしい。それはそれで仕方がないことだと思います。ただ、問題は意識から消えたそれらのものの存在を本当に忘れて、まるでそれらが本当に存在しないかのような枠組みで思考してしまうのは、どうにかしないといけないでしょう。その場に存在しないものをいかに想像して、それらの存在を思考の枠組みに含めて思考を組み立てること。そういうことが必要な場面は往々にしてあります。にもかかわらず、多くの人が自分の思考パターンにだけ合わせて物事を見てしまって、そこに本来存在するものを思考の枠組みに捉えることができなかったりします。
結果、思いやりにかけたり、自分たちさえよければいいとか、いまさえよければいいとかいうような近視眼的な思考になったり、人間中心的思考になったり、いろいろ問題が出てきます。
繰り返しますが、人間って本来そうなりがちな傾向をもっているのだから、そうなってしまうことがあるのは仕方がないことです。ただ、そうなりがちだからといって、それは良くない結果につながるケースが多いのだから、それを注意して避けることはできるし、失敗をすぐに認めて修正することもできるはずです。
問題はそれができなかったり、そのこと自体が問題であることにすら気づかないでいることです。
つまりは「ギリギリの経験が高めるアンテナの感度」で書いたように、自分と過去や異なる空間をどれだけ関連付けて、他人ごとではなく自分ごととして感じて思考することができるかなんですけどね。
時間を空間とおなじように感じとって見つめられる視点をもつ
これって空間的に自分のまわりに存在しない物事や人などを枠組みから抜いて考えてしまうということだけじゃなくて、時間的にみても同じことです。いま存在しない時間における現実を、あたかも存在しなかったように考えてしまい、想像力の上にのせることができなかったりします。現代がこうだからという視点でだけ考えて、過去にどうだったかということを思考の枠組みに入れて考えることができない人がとにかく多い。
寺の仏像や須弥檀を見るのに、昔もいまと同じように電気の光でライトアップされた状態で見ていたかのように考えて疑わなかったり、活字ではなく手書きの文字で書かれた書物を読むということにおいて文字がもつ力がどういうものだったかを考えもしなかったり、いまは存在しない過去の生活において、その生活における行動の違いを成り立たせるのに、どれだけ異なる思考や思想を必要にしたかをまるで想像できないし、また、想像しようともしません。
現代の当たり前を、まるで普遍性をもった当たり前であるかのように思い込んでしまい、それを疑いもしないから、いったんその「当たり前」をカッコに入れて思考するってことができないんですね。とうぜん、それでは思考の範囲は狭くなって、問題を現代というパースペクティブの中でしか考えることができず、視点を移動して別の軸を据えて問題のパースペクティブを構築し、その遠近法のなかで思考するということができないわけです。
僕らはアインシュタインの相対性理論とはまた別の意味で、時間を空間とおなじように感じとって見つめられる視点をもつことが必要です。
伝統そのものを残す必要はこれっぽっちもない
それが「身体の一部としての道具という発想」や「アニミズムすぎるくらいがほんとうのアフォーダンスでは?」、「日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで/土橋寛」で書いていることの本質です。過去がどうだったからいまもそれに従うべきだなんて発想はまるでないし、伝統なんてものは端からまるっきし信じてません。むしろ、このエントリーの最初から書いているように、人間なんて目の前にあるものだけが現実だとか思いがちなわけだから、そんな生物に伝統なんてものを期待しても仕方ないと思っています。
僕がこのところ、日本の伝統文化に関する興味をもっているからといって、伝統を守ることとか、昔はよかったなんてことを考えてると思ったら、そういう意味で大間違いなわけです。
だって、いつも書いてますよね。
うまくいかないと思ったら、まわりをどうにかすることを考えるんじゃなくて、自分をどうにかしましょうって。それって隣の庭の芝が青く見えてしまうのは無視して自分の庭をいかにして青くなるかを考えましょうってことです。
伝統そのものになびくんじゃなくて、自分自身が伝統とおなじか、それ以上になればいいじゃんってことです。
悪いけど「伝統礼賛」なんてクソくらえですよ。
その意味で岡本太郎さんが『日本の伝統』において、日本の伝統に対して示した姿勢は基本的なところですごく納得できます。有名な話ですが、この本のなかで、岡本太郎さんは「法隆寺は焼けてけっこう」と言っています。
だが嘆いたって、はじまらないのです。今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。
自分が法隆寺になればいよいのです。岡本太郎『日本の伝統』
これには僕もまったく同意見です。「自分が法隆寺になればよい」と思っていますし、なんで、なろうとしないの?って思います。僕が嘆くのはむしろ「法隆寺になろうとしない」ことのほうです。
モノが重要なんじゃなくて、それを想像し企画し実現する力があるのかってこと
それは「木に学べ―法隆寺・薬師寺の美/西岡常一」で紹介した西岡常一さんの「飛鳥の技法みたいなものはなくなりません。(中略)自然というものを理解さえすれば誰でもできますわ」という感覚と同じものだと思っています。あるいは、ブルーノ・ムナーリが『ファンタジア』のなかで書いている、保存されるべきものは、モノではない。むしろそのやり方であり、企画を立てる方法であり、出くわす問題に応じて再びやり直すことを可能にさせる柔軟な経験値である。
というのと同じことだと思っています。
問題は伝統文化そのものが失われることなんかじゃまったくありません。失われたらもう一回つくればいいだけの話です。真の問題は、もう一回つくらばいいじゃんと考えて、実行しようとする意欲、そして、伝統文化におけるモノ以上に、それを実現する能力自体が失われたことをなんとも思わない鈍感さでしょう。
岡本太郎さんもこう書いています。
失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりももっとすぐれたものを作る。そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。岡本太郎『日本の伝統』
岡本太郎さんがこの本で展開している話は、いま読むとそれって岡本さんの生きた時代に固執しすぎている面があるようなところが鼻につくところもありますが、基本的なところでは、過去の偉大さを感じる力があるならモノの消失を嘆くひまがあったら、その偉大さを自分たちがもう一度実現できるようになればいいだけでしょというところでは非常に共感できます。
僕らって勉強の仕方をわかってないですね
そして、僕は過去において現代より優れた知恵や思考があったこと、過去に生きた人の誰もが現代に生きる僕らよりよっぽど勉強熱心だったことを感じて、それに負けてていいの?という疑問を常に感じているわけです。だって、ふつうに考えたら僕らのほうが後だしジャンケンなんですから、過去以上であっていいはずなのに、どういうわけかそれらを自分たちの思考の座布団にできてないわけです。過去の教訓に学べないとか、過去の偉大な先人の知恵にあやかって自分の力を高めようとかしないって、どう考えてもアホな気がしちゃうんですよね。それって普通に勉強の仕方がわかってないですよね。
自分たちがすごいという近視眼的な思い上がりがあるのか、最初に書いたようにいま存在しないものが見えなくて、見えないものを想像できずに井の中の蛙になっているだけなのか。
『日本の伝統』はだいぶ前に読んだ本だったのですが、いまあらためて岡本太郎さんの「法隆寺は焼けてけっこう」という言葉の意味に共感できた気がしました。
もちろん、趣味的なところ、モノに対する欲望という意味からいえば、昔ながらのモノには残ってほしいモノが多いんですけど、それとこれとは話が別です。
ようするに、自分たち自身のものを考える思考力、世界を感じ取る感性、世界の動きを捉える想像力、そして、それらを捉えた上で世界そのものに統合的な視点で変化を生み出す構想力や創造力が、あまりに現代っていう狭い枠組み、パースペクティブのなかだけでおさまっちゃってしまうのはもったいなさすぎると思っているわけです。過去から盗みとれる物はどんどん盗めばいいと思ってますし、過去の世界を想像するための情報として、過去の文献や資料にはどんどん目を向けたほうがいいだろうと考えるのです。
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