この「道具は自分の肉体の先端」っていう考え、すごく大事だと思うんですよね。先端じゃなくてもいいんですけど、道具を身体の一部として感じ、扱うという感覚が。
身体から切り離された道具
最近だと、落としたり、ぶつけたりしても、壊れない。そういう頑丈さを売りにしてるものがありますよね。それってちょっと違う気がするんですよね。だって、自分の身体だとしたら、そもそも落としたりぶつけたりします? それ以前に、落とさないように、ぶつけないように気をつけるでしょう。だって、痛いもんね。落としたり、ぶつけたりしても大丈夫というような道具を粗末に扱ってもいいみたいなことを普通に考えられちゃう神経からどうにかしないといけないんでしょうね。それでいて、そういう粗末な扱いには強くても、長く使うとすぐにだめになるものを平気でつくったりしてるんだからおかしな話です。しばらく使ってると、動作が遅くなったり、バッテリーの持ちが悪くなったり。自分の肉体の一部だとしたら、どっちかっていうと逆でしょ? 慣れればうまくなる、仕事が早くなるっていうのが筋です。それが逆なんだからどうしようもないですよね。
だから、1000年以上もつ建築技法よりも25年しかもたない建築技術がありがたがられたりもしています。これは相当おかしな話だと思うんですけどね。
とにかく、道具が身体の一部であるっていう感覚がこれっぽっちもなくて、道具が身体から完全に切り離されてしまっています。人間がものに近寄ってみることができず、遠くから他人ごとのように眺めるしかないんですね。ものを欲望するにも、まず誰々が評価してるとか、売れ筋の商品だからということでしか評価できなくなっていたりもします。
デザインの発想の仕方、ものに対する距離の取り方・扱い方が根本的にズレちゃってるんでしょうね。
個は世界とつながっていたし、ものは身体の一部だった
昨日の「"化けもの進化"したものは破棄がおすすめ。」で紹介した松岡正剛さんの「千夜千冊」での柏木博さんの『モダンデザイン批判』紹介のページには、このような150年にわたったモダンデザインのコンセプトをさがすことは、けっして難しくない。「みんな同じものが手に入ります」ということに尽きている。それによって「生活が便利にもおもしろくもなります」というメッセージに尽きている。近代資本主義がつくった「もの」は最初から「広告」なのだ。
ということが書いてあるんですけど、ものが広告、記号になっちゃってるというのが染み込んじゃってるのがいまのものと人間の関係をおかしくしてしまっている最大の原因だと思うんですね。
道具が身体の一部と書きましたが、そもそも近代化以前の感覚はむしろ人間が自然の一部だったんじゃないかと思うんです。
前に夕占のおもかげの話をしましたが、顔の見えない黄昏(誰そ彼)時にふと耳に入った声で自分のたち振る舞いを決めるというアイデンティティの持ち方は、いまの独立した固定した個があるという発想とは違って、もっと個自体が世界とネットワーク化されていて、かつ幅をもっていたのだろうという気がしています。個は世界とつながっていたし、ものは身体の一部だった。
真面目にそういう「アニミズムすぎるくらいがほんとうのアフォーダンスでは?」って思います。
根本的な線の引きなおしが必要?
そういう感覚が失われて、ものの使用価値よりも交換価値が有難がられる現在では、ものが自分の身体から切り離されただけでなく、現に身体の一部さえ交換可能なものになっています。輸血、臓器移植、人工臓器など。科学という客観的な視点でものを見ることも大事なのですけど、それは科学という分野のなかだけのことにしたほうがいいと思うんですよね、最近。それを応用して科学技術に走りすぎるのがよくない。学問は学問として、ものづくりはものづくりとしてちゃんと線を引きなおしたほうがいいと思います。
おまけにマネジメントの分野もいけませんよね。科学的管理とかいって生産性や効率化を数字だけで測ろうとするからわけがわからなくなってしまっています。テイラー・システムをいったいいつまでそのまんま引きずってくつもりなんでしょうか? あまりにもディテールを削り落すことに慣れてしまっているので、本来のものや自然がもつ肌触りの違いを感じ取れなくなってしまってるのではないでしょうか?
自分の身体というか、自分という存在自体が世界のなかでどう存在しているのか? ものと自分がどういう関係にあるのか? 時間と自分の関係はどうあるのか? という根本的なところまでいったん戻って考える必要が出てきてるんじゃないでしょうか?
じゃないと、この"化けもの進化"したものだらけの社会はどうにもならないような気がしています。
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