松岡正剛さんが「千夜千冊」のサイトで、柏木博さんの『モダンデザイン批判』の紹介をしてるページです。
とんでもないものってのは、これ、これですよ。
なぜなら、これらの「もの」たちはその大半がすでに情報化をおえて、ただ都市店舗の棚と電子端末との棚で「待つだけのもの」にまで"化けもの進化"してしまったからだ。
これではリサイクルもエディティングもまにあわない。破棄がおすすめだ。そんなところを覗かないようにするしかない。
まぁ、デザインとかに関わっている人からすればとんでもないこと書いてくれてます。だって「破棄がおすすめ」、「覗かないようにするしかない」ですからね。でも、これがまた真剣にデザインを考えている人であれば同時に否定できないところでもあると感じると思うんですよね。
この文章はページの最後のほうにあるんですけど、松岡さんがこういう結論にいたるプロセスが全部読むとわかります(いや、わかならないかな?)。
近代化の実験もプロトタイピングだったと思えばいいんじゃないの?
"化け物進化"してしまった「もの」は「覗かないようにするしかない」というのは、僕自身、最近「ほんまに賢いゆうのはどういうこと?」や「木に学べ―法隆寺・薬師寺の美/西岡常一」なんてエントリーを書いたばかりなのでよくわかります。消費するとか云々というより、目に入った瞬間、ある意味、破棄したほうがいいものばかりが売られているし、生産され続けているって感じますから。
その意味では、失敗の要因をつくったスタート地点であったとはいえ、まだ、この頃のほうがマシだったのかもしれません。
1879年にキャサリン・ビーチャーがボストン料理学校を開校したこと、そのあとの校長のファニー・ファーマーが「すりきり一杯の計量」を提案したこと、そのあとの化学者のエレン・リチャーズがアメリカ料理を工夫して「ランフォード・キッチン」を提案したこと、一方でミース・ファン・デル・ローエが都市の均質空間を求めてユニバーサル・スペースを計画したこと、ヘンリー・フォードがT型フォードを実現したこと、そしてハーバート・バイヤーが「ユニバーサル・タイプ」というタイプフェイスを発表したこと、これらに共通するものがモダンデザインのコンセプトなのである。
「これらに共通するもの」ってわかります?
この辺に関しては明日か明後日あたり「ペルソナスクエア」の連載で話題にするので、そっちを参照してくださいな。
それにしても、そろそろモダニズムに変わる分母、哲学を真剣に見出さないとまずいですよね。いや、最近、僕はそのことに一番興味があります。
そのためにもまずは近代までの歩みをちゃんと理解しなきゃね。それこそデザインってのはそもそも失敗から学ぶのを得意としてるはずですから。近代化の実験もプロトタイピングだったと思えばいいんじゃないの?
ちなみに『モダンデザイン批判』自体は絶版なので古書を買うしかありません。
代わりのものとしては、『20世紀はどのようにデザインされたか』や『近代デザイン史』あたりがおすすめです。あるいは松岡正剛さんの『誰も知らない 世界と日本のまちがい』もいっしょに読むといいかも。
関連エントリー
- 近代デザイン史/柏木博編・著
- 玩物草子―スプーンから薪ストーブまで、心地良いデザインに囲まれた暮らし/柏木博
- ほんまに賢いゆうのはどういうこと?
- 木に学べ―法隆寺・薬師寺の美/西岡常一
- 庭と日本人/上田篤
- ふすま―文化のランドスケープ/向井一太郎、向井周太郎
- 日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで/土橋寛
- 「わかる」ことは「かわる」こと/養老孟司、佐治晴夫
この記事へのコメント
翔
僕もモノを生み出す側(学生ですが)として日頃、なにをなぜ作るかと考えていますので、とても参考になります。
僕は先日バウハウス・デッサウ展を観ても作品に興味を持てませんでした。
たぶんそれは大量生産のための製品だからでしょう。
僕の求めるものはそこには無かったのです。
僕は学校で工芸を学んでいるので、手作りの良さというのにやはり惹かれます。
「そろそろモダニズムに変わる分母、哲学を真剣に見出さないとまずいですよね。」
と仰られているように、僕もそこに興味があります。
それこそがモダニズムとは対極にあるような、僕が携わる「工芸」の道だと思うからです。
今後の展開、楽しみにしています。
tanahashi
翔さんが、バウハウス展でみたものは「作品」なのでしょうか? 「製品」なのでしょうか?
僕はいまの視点でバウハウスでつくられたものを見ても魅力的に見えないのは当然だと思っています。それは手作りとかそういう話じゃないと思います。
仏像は手作りです。じゃあ、薬師寺展とかを見て、「求めるものがそこにあるか」というと、たぶん違うでしょう。
モダニズムの対極に工芸はないと思います。工芸はモダニズムが拾い上げたものですから。アーツ・アンド・クラフト運動を見ても、北欧の近代デザインをみても、日本の民芸運動をみてもそうです。
仏像はたぶん、それがつくられた時代とおなじように真っ暗な闇のなかでろうそくを灯してみてはじめてわかるのだと思います。
僕は今の時代に手作りでものをつくることが、即「魅力的なもの」になるとは考えてません。ものはその時代の文化や生活、思想とつながってはじめて魅力的にうつるのでしょうから。逆に、魅力的なものが時代の思想や生活をつくっていくということもあるでしょう。
僕が「モダニズムに変わる分母、哲学を真剣に見出さないとまずい」といっているのは、手作りなら手作りでそれが時代にどういう哲学、行動につながる思想を生み出せるかということです。
翔
どうやら僕はまだまだ考えきれていないというより、考えようともしていないようですね。
頭を打つ思いです。
バウハウス展では僕はものの見方を間違っていたということですね、否定的にしか観れていなかった…。
「バウハウス誕生90周年を迎えようとする今、近代デザインの大きな流れを決定づけたバウハウスについて、もう一度、検証する時期が来たといえるでしょう。」http://www.bauhaus-dessau.jp/information.html ご案内文末より
という展覧会の意図もまったく無視していますね。
悔しいです。
「ペルソナ作ってそれからどうするの?」を読ませて頂きます。
確かにモダニズムによって工芸が形成されました。
ということは確かに対極とは言えないです。
僕が言いたかったことはなんだったのでしょう。
大量生産、大量消費、モノの記号化という現在のモノの運命、この記事で言われているように出来るものなら破棄したほうがいいと思えるものの対極としての工芸。
工芸という言葉の概念自体が既にモダニズムとして記号化の運命を背負っているのであれば、モダニズムに代わる何か、工芸に代わる何かを目指すことが僕の意見だ、と言えます。
(ポストモダンということでしょうか、やっと僕の思考が1980年代に近づいたのか…)
という事は、すこしでも何かを変えられるものを作れるようにならなくては。
tanahashi
でもね、工芸に惹かれている翔さんの感性は正しいだろうなと思ってます。
その感性を失わないよう、思考を鍛えてみてください。
「右脳に直観、左脳に方法をもって・・・。」