ただ、それはネタがないんじゃなく、ネタを見つける感性が足りないんだと思うんです。
自分が興味をもって考えることができる、そういうものを日々の生活のなかで見つける感性が育てられていないということなんではないでしょうか。とうぜん、それはブログのネタが見つからないという局所的な問題ではなく、自分を成長させるとか高めるとかいう点で大きな問題だったりします。
ネタが見つからないのは、世界を見る視点、感じる感性を育んでいない自分自身の問題
それこそ毎日生きていれば世の中にはブログのネタにできそうなことなんて山ほど転がっています。それが見つけられないというのは視力の問題です。山ほどネタが転がってる世界を自分自身で感じることができずに、貴重なネタをスルーしてしまっているだけです。ネタとは世界をどう見るか、どう感じるかですから、ようするに世界に目を向けていない、感じていないということだと思います。それは世界のほうに問題があるというより、世界を見る視点、感じる感性を育んでいない自分自身に問題があると考えたほうがいいはずです。
結局、最近、繰り返し書いていることですが、やはり「事象のなかに自分を重ねることができなくて、遠くから見ている」んだと思います。世界に存在し、生起しているいろんなものごとを自分と関連づけて感じることができないのでしょう。
道端に転がる石の声、日常のシステムの軋む音、近くにいる人の無言の嘆き耳を傾ける力がないんだと思います。あるいは、そうした声・音を聞いてしまった自分を、どう動かせばいいかを即座にイメージできないため、聞こえる音声に自分を重ねて考えることをできなくさせているのでしょう。ようは感じる力の問題であると同時に、感じたことを思考に展開する力が弱いのでしょう。
自分の変化を確認する棚卸し作業をしているか?
といっても、最初に書いたように、ブログのネタがないくらいは大した問題ではありません。本当の問題は一日ひとつのブログのネタにできそうな発見もできない感性で毎日過ごしていて、それで自分を変えていけるの? どうやって高めることができるの? ってことです。日々の生活において、成長のネタとなる機会をことごとくスルーしてしまっているのに、どこでどうやって自分を高めるきっかけを得ようと考えているのかということです。
そもそも、自分自身の変化を定期的に確認する棚卸しのようなことをみなさんしているでしょうか?
僕自身のことでいえば、毎年の正月や年度の変わり目に、この一年で自分が新しく何を手に入れ、自分がどう変わったかの棚卸しを必ず自分のなかでするようにしています。これをやってるとたいていは前の年からの積み上げがあるのを認識できるし、その一年の自分のやってきたことの意味を再確認でき、次につながる行動や思考のベクトルも見出しやすくなります。
そういう過去の振り返りが未来につながる扉を開けてくれるんだと思うんです。しかも、反省よりも、プラスの材料を見つけることのほうが大事です。できなかったことやできない理由をいくら見つめなおしても仕方がないんですね。それよりプラスがどれだけあって、何からそれが生まれたかを再確認したほうが未来を築くためには重要です。
地球が太陽の周りを一回転する時間にあわせる必要はない
ただ、その変化をもたらすために年初や年度はじめに僕自身が明確な目標をもって望んでいるかというと、まったくそんなことはありません。もちろん、今年はこういう方向でやっていこうかなくらいは考えます。でも、それに縛られて一年過ごすということはまったくしません。僕の感覚では、結果を測る一年ごとのスパンと自分を高めるための行動のスパンってうまく合わないものだと感じます。何かを成し遂げようとするタイミングって、決して地球が太陽の周りを一回転する時間になんかあってくれないんですね。むしろ、機会があったときがやるべきときで、それは時計の刻む時間とは何の関係ももたないと思っています。
だから、年始や年度はじめというランダムなタイミングで決めた目標なんかに縛られるよりは、しかるべき機会に目標と定めたものに向かうほうが自然だし、目標達成のための行動・思考を行いやすいと思っています。「機を見るに敏」ってことです。
機会を逃さず加速できるか?
だからこそ、日々の生活のなかで機会をきちんと捉える感覚が重要になってくるわけです。機会というものは、地球の自転や公転にあわせて恣意的に決められた時計の時間とはまったく無関係に、不意に訪れます。機会は、地球の自転や公転なんかより、もっと自分自身と深いかかわりをもった時の流れ、環境の変化というタイミングでやってきます。
それが機会という時間ですから、その訪れ=音連れの音を聞き逃さないように自身の感度を高めておかなくてはなりません。相手が話したがってるときこそ、聞き時です。それは相手が人間であっても、ものであっても変わらないはずです。対象が何かしらの話をしてくれているタイミングで、自分の側もぐっとアクセルを踏み込んでその話に入り込んでいけるか。その加速ができるか、あるいは、その急激な加速への耐性があるかが、実は感じることや感じたことから思考を展開するうえでは重要なことだと思います。それが「機を見るに敏」です。
ギリギリの経験が高めるアンテナの感度
そうした加速力、加速への耐性を身につけるためには、自分をどれだけギリギリのところに追い込んだ経験をもつかが重要な分岐点となります。自分をギリギリのところに追い込む経験を何度も繰り返していれば、感性なんか自然に良くなってきます。逆にいえば、口でうまいこと言ったりして自分がギリギリの状況に陥るのを回避してばかりいれば、いつまで経っても感性なんて育つはずはないのです。
ギリギリの状況で、自分がそれを成し遂げられる自信なんかこれっぽちもないのに、それでも最終的には根性で何らかのアウトプット・結果を出す。そういう自分が完全にその状況に巻き込まれた状態でこそ、繊細な感性が研ぎ澄まされます。
そのときはいい結果が出せなくても、そこで開かれた感性のチャネルはそれ以降、普段の状態でも使えるようになります。普通の状態での感性のレベルがそれまでより高い状態となるのです。
そうなれば、ギリギリの状態に入る前の、普段の状態での感性が敏感になっているので、機会に応じて加速した際になだれ込んでくる膨大な情報の海を泳ぐ場合の苦労も軽減されます。それが加速への耐性です。加速に対して身体が馴染めば、加速した状態で注ぎ込まれる膨大な感覚情報に対しても、余裕をもって対処できるようになります。つまり1つ1つの感覚情報の意味を自分のなかで消化できるようになる。これこそがアンテナの感度を磨くための方法だと思います。
ネタがない? だったら、無理してでも一日に数件はネタを見つけて公開するという、背伸びした状態を自分に課す訓練をしてみてはいかがでしょうか?
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