2008年04月29日

アニミズムすぎるくらいがほんとうのアフォーダンスでは?

僕もそれがほんとうだと思う。

松岡 かつて才能というものは日本の場合、「才」が全部物質の中にあったんです。それを「才(ざえ)」と呼びましたけれど、石に才があり、木に才があり、花に才があり、釘に才がある。それをはたらかせるというのがモーメントとしての「能」という字なんです。それが、やがて能をはたらかせる人に才能があるというように、どこからか変わってしまった。でも、石に才能があるほうが、ほんとうだと思うんですよ。

さっき盆栽に水をやろうとして手を滑らせて鉢を割ってしまったような僕のような人間にとっては、どう考えても「才」が自分の側にあるとは思えない。それどころか、モーメントとしての「能」の力のかけ加減も間違えて鉢を割ってしまうんですから。



石に才があり、木に才があり

鉢を割ってしまったショックで、結構ブルーですけど、それでも気を取り直して考えてみると、この「才」と「能」の関係は、いわゆるアフォーダンスが非常にうまく行った状況なんだと思うんですよ

上の引用での松岡さんの発言は、中世の庭づくりの技術書である『作庭記』には「石の乞わんに従え」と書いてあること、石が置いてほしいといっているように置いてやれというのが技術として書かれているということからつながる話なんですが、これ、結局、高度なアフォーダンスでしょ。わかる人だけにわかるアフォーダンスというか、石の声が聞こえる人だけにわかるアフォーダンス?

手を滑らせて鉢を割るような人がいうのもアレですけど、盆栽とかやってると樹がどっち向きにどういう傾きで植えてくれと言ってるかというのがなんとなくはわかります。あいにくまだまだ耳が悪いので、ちゃんとその声を寸分たがわず聞いてあげられてるかというと、そうじゃないと思いますが、それでも樹が声を発して、指示してくれてるくらいはわかります。実際は未熟な「能」しかないので、だいたいで植えてますけど。

アニミズムすぎるくらいがほんとうのアフォーダンス

佐々木正人さんは『アフォーダンス-新しい認知の理論』のなかで、こんなことを書いています。

デザイナーは、道具の要素となる「形」の専門家ではなく、まずは道具を介したときに、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはいけない。
佐々木正人『アフォーダンス-新しい認知の理論』

石がこう置いてくれ、樹がこう植えてくれっていう声は、結局、石や樹が人にどう見られたいかという要望を聞いてあげることだと思うんです。こう書くと人間中心すぎかもしれませんが、それはそれおなじ生命同士(いや、石は生命ではないか)、もちろん石や樹のことも尊重してあげるべきでしょう。法隆寺の宮大工が南に生えていた機は南に使うように。そうすると千年もちゃんと建ってる建物ができる。

<人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカー>って実はそのレベルまで達する必要があるんじゃないかと最近思いはじめてます。ちょっとアニミズムすぎるでしょうか? でも、そのほうがよりリアル、ほんとうっぽいと思うんですよね。

松岡 もともとモノが動くということと、私たちの脳が動くということと、あるいは感じるということは、ほんとうは"対"あるいは"多対"の現象になっていて、それを今日的な目で見るとアニミズムっぽいとか、シャーマンぽいとかいう話になるんですが、そっちのほうがほんとうなんです。

僕もそれがほんとうだと思う。

自分も他人もすべて入った入れ子状態のものを「環境」と定義する

むしろ、石や樹の声も聞こえないほうがよっぽど人間中心的で、かつ、ある意味では自分たち人間の本来の力を忘れてしまった非人間中心的な思考のような気がしてます(ちなみに僕の最近のテーマは「人間中心設計を超えて」ですけど、気づいてます?)。

昨日の「二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑/佐治晴夫、松岡正剛」では、佐治晴夫さんの「やっぱり事象のなかに自分を重ねることができなくて、遠くから見ているんでしょうか。自分を重ねるのが怖いんでしょうね」という言葉を引用しましたけど、この事象の枠の中から自分を排除した見方があまりに一般的になりすぎてるけど、それって昔の日本人の自然観とはまったく異なっているんですよね。

以前、「ファウンド・オブジェクト(found object)」というエントリーで、深澤直人さんにとっての環境の見方を紹介しました。

自分は、昔は自分の身体の外側、自分をさておいた何かを「環境」と定義していましたが(図A)、のちに自分も他人もすべて入った入れ子状態のものを「環境」と定義し直しました(図B)。

environment


「我見」まみれの僕らにいま必要なのは世阿弥の「離見」

環境を内側から見るのではなく、自分を含めた環境を客観的に外から見る。そこに、無意識の記憶、人の行動の痕跡という「見えない形」を発見する。主観ではどうしても見落とされがちな無意識の運動を客観的な環境におけるレイアウトの変更として捉えることで、そこにデザインの種子を見出す。

これ、昨日も「隠れた目盛り」というキーワードに関連して書いたけど、世阿弥の「見所より見るところの風姿はわが離見なり。わが眼の見るところは我見なり」とおんなじなんですよね。「我見」まみれの僕らにいま必要なのはこの世阿弥の「離見」なんですよ

というわけなんですけど、そういうものの見方というか、感じ方というのができなくなっちゃってるわけですよ、僕らってば。
早いとこ、これに気づかなくっちゃまずいよねと思うんですよね。

まぁ、こんなこと書いても伝わらないか。なんかもっとうまく伝わる方法、編み出さないとな。

   

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posted by HIROKI tanahashi at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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