二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑/佐治晴夫、松岡正剛

なんで、いままで、この本を読まなかったんだろう。そんな後悔をしてしまうくらい、読んでよかったと思える本でした。

松岡さんの対談は、これまで内田繁さんとの『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』や茂木健一郎さんとの『脳と日本人』を読みましたし、佐治晴夫さんの対談も養老孟司さんとの『「わかる」ことは「かわる」こと』を先日紹介したとおり、どれも面白く、とても興味を惹かれる内容でした。

でも、この本はそのどれにも増して、素敵な一冊でした。20世紀の終わり(この本の元になった対談は1997年の3月から1998年の3月の1年間で6回に分けて行われています)に1日の終わりに位置する「トワイライト」を1つのキーワードにして行われた対談は、佐治晴夫と松岡正剛という2人の人間による声の重なり以上の、ポリフォニックな多声の響きを感じる、対話によるオーケスレーションになっています。



宇宙のはじまり、生命の進化、意識の謎から、恋愛や感性のトキメキ、数学の美しさや失望の香ばしさなど、幅広い話題を絶妙なオーケストレーションで1つに紡いでいく流れは、読んでいて引き込まれてしまいます。

恋愛はシュレーディンガーの猫?

例えば、恋に関する話題でも、

松岡 「箱を開けるまで、それがどうなっているかわからない」という、あるいは「『ただいま』と言ってドアを開けるまで、中の人が病気なのか元気なのかわからない」という、それと同じような状態になっているので、「恋」というのは上出来なのではないですか。つまり、「思っていてくれるのかな、ダメなのかな、どうなのかな」という両方を考えざるをえないという、確率振幅の世界ですからね。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

という松岡さんの声に、

佐治 その「そこはかとない」ところが、とてもトワイライトなんですよね。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

と、佐治さんの声が重なっていく。
そうした「シュレーディンガーの猫」のような恋愛観を共有しつつ、

松岡 いまの社会は、「私のこと思ってくれないのかな」ということが、だんだんなくなって、「恋」には不安と期待が入り混じらなくなっている。
佐治 ほんとうに好きだったら「こうしてくれるはずなのに」というふうに思ってしまう。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

と、「好きなのかな、違うのかな」というドキドキな確率振幅を失って、○○だったら××のはずという因果律の固定された恋愛に、「失うことの怖れ」がどこか足りなくなっていることをともに指摘します。

科学と文学、論理と感性、情報と生命、技術とコンテンツなど、さまざまなものが分離されてしまい、それらの軸を対立構造に追いやるばかりで、対立する軸をともに捉えることができなくなった、二十世紀という時代の終わりを、さまざまな話題から浮かび上がらせていきます。

自分はいろいろな数列からできている編み物

すでに「トキメキについての感性がない」というエントリーで引用したように、

佐治 やっぱり事象のなかに自分を重ねることができなくて、遠くから見ているんでしょうか。自分を重ねるのが怖いんでしょうね。 
松岡 オペレーション(処理)してしまって、ドライブ(能動)していない。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

現代において、海外旅行について話すのも、ブランド物について、政治や経済について、映画について話すのにも「自分のトキメキや、こだわってしまった自分にもとづいた発言」をすることができず、「事象のなかに自分を重ね」たり、自分の感性と他者の感性を重ねてみたりすることができなくなっているのでしょう。

その裏返しとして、客観的な情報の組み合わせを、あたかも自分の考えのように固定してしまい、感性を欠いた頭のなかだけの思考にそぐわないことがあると、必要以上に否定せざるを得なくなっているのではないでしょうか。自分の枠組みに当てはまらない他者の思考を簡単に否定しまうので、自分の思考の枠組みを広げることができなくなっているのではないでしょうか。

松岡 ついつい自分の思考パターンにだけ合わせて考える人が多いですからね。どこかに別の系があることを想定しないんですね。そういうクセのある人は、せめて自分が一個の数列だと思わずに、むしろ自分はいろいろな数列からできている編み物だと思うといいんです。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

自分以外のオルタナティブを考える力が欠けている点については、このブログでも「言葉の意味とは?:オルタナティブを考える力」や「レオナルドは未来である:オルタナティブを考える力2」などのエントリーでも書いてきたことですが、とにかく「自分はこうだ」と思ったら、それ以外の思考を展開することができない人が多くて、視点をいろいろ切り替えて、さまざまな角度から考えて、総合的な思考を展開するということができません。

自分を含む視線-世界との相互作用を感じること

「自分探し」より大事なのは「もう一人の自分」をみつけること」では、世阿弥の『花鏡』にある言葉、「見所より見るところの風姿はわが離見なり。わが眼の見るところは我見なり」を引用しつつ、自分を含めた舞台をみる「もう一人の自分」を見つめる能の視点を紹介しましたが、僕らは何かを思考する際に、自分を除いた世界を批判するばかりで、そこに自分の影響をみない傾向があります。

しかし、

佐治 私が吐いた息をみなさんは吸っていらっしゃるし、キリストの肺の中をとおった酸素も吸っていらっしゃる。自分はどうして自分になるかというと相手がいるからだし、私のこの細胞をつくっているものたちは星の中でつくられたわけですし、そうなってくるとさきほどの遺伝子の話になってきます。だから自己というのは、私が「これだ」とは限定はできないと思いますよ。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

という視点もあれば、

松岡 小鳥にえさをやるときには、小鳥に向かう手や指先がどこか小鳥のようになっていくわけです。蝶々をつかむときは、蝶々がほたほたほたと手の中にあるかのように、もう自分が蝶々になりながら手が動いていく。どこからか鉛筆化して、どこからか蝶々化している。どこからか記憶化して、どこからか宇宙化して、どこからか生命化しているわけです。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

という視点もあります。

そういう相互作用のなかで自分たちが生きている、存在しているということを、僕らは忘れている、感じられなくなっているのではないかと思うのです。

時間はいくつもある

佐治さんが<やっぱりみんな「感じる」ということが少なくなってきていますよね。曖昧な表現だけど、学生諸君なんかを見ていると、「感じる人」というのはものすごく伸びますよね>というとき、その発言は<多忙の中では、余暇の時間は自分がつくるものであるなどと表現もしなますが、基本的には、時間とはどこからか与えられるものなんでしょうね>という別の発言とも共鳴します。

時間は、一定に時を刻んでいるのではなく、なにかとともに時間もまたやってくるという感覚。

佐治 さきほど松岡さんが「場所」という座標で指定されましたけど、「時間」という座標もあるわけですね。「いま! いま、撮らなきゃいけない」という時があるんですね。だから、「いま」がわかるかわからないかということが、やっぱりプロとアマのカメラマンの違いなんでしょうか。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

この話が道元の『正法眼蔵』に描かれた時間の話にも及びます。

松岡 その中の第20巻「有時」の巻の中で「時は存在そのものだ」と言っている。そして「松も時なり、竹も時なり」と言い放つわけですね。でも一方で、「時」を見ている自分が「時」に犯されているというか、包まれているものからズレていくという感覚を、世界の哲学でも初めてだと思いますが、描いているわけです。これが透体脱落です。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

この「いま」という感じは、時計の時間だけに身をゆだねているだけでは決して感じることはできないわけです。
それこそ「どこからか鉛筆化して、どこからか蝶々化している」世界とのインタラクションの感覚を「いま」という時の感覚として感じられる状態に身をゆだねられなければ、それは「感じる」ことができないのでしょう。

みんな機械にまかせてきてしまった

その意味で、この「いま」はアフォーダンスの話ともつながっています。松岡さんは「隠れた目盛り」という言葉を使って、さまざまなアフォーダンスを生じる人とものとのヒドゥン・パラメーターにも思いを寄せています。

しかし、こうした自然物と身体のアフォーダンスを媒介にした関係そのものが、機械と意識との記号的関係に変わってきてしまっています。いや、それどころか、僕らはかつて身体が保持していたはずの知識や感性を機械に受け渡して生きています。

松岡 私たちは「物を見る」ということについては、カメラから胃カメラまで技術は発達しましたが、どうもそれをもう一度、「経験資源」として自分の内側にフィードバックするという能力が衰えてしまっているんです。二十世紀の後半、いろんなことをしながらも、みんな機械にまかせてきてしまった。たとえばマッキントッシュでやっていることが、頭の中でもうクリヤーできないんですよ。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

もちろん、Macに受け渡しているだけではありません。物理的な機械だけが問題ではないでしょう。「なぜ目に見えない青が写真に写るのか?:情報と感覚についてのちょっとした考察・前篇」でも書いたとおり、僕たちは写真という情報に写った世界と、自分の目で直接見た世界の区別さえできなくなっているのですから。
「経験資源」を自分にフィードバックするという意味では、機械の存在も問題ですが、それ以上に日常に氾濫する情報、データのほうがもっと問題なのではないでしょうか。

こんな風にこの本はここに書いたことだけでも多くの示唆に富んでいます。いや、実際にはここでは書ききれないほどの示唆を含んでいます。だからこそ、最初に書いたように「なんで、いままで、この本を読まなかったんだろう」という後悔を感じたのです。

みなさんにも、GW中にでも、ぜひ読むことをおすすめしたい一冊です。



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