なぜ目に見えない青が写真に写るのか?:情報と感覚についてのちょっとした考察・前篇

最近、ひそかに続けているのは夕刻の暗くなる時間を写真に撮ることです。

別に被写体はなんでもいいんです。その時間に写真を撮るのが目的です。いまのところ思い出した時に撮ってるので時間はバラバラですし、写真を撮るのを忘れてしまうこともあります。
何がおもしろくて、そんなことしてるかというと、その時間に写真を撮ると目には見えてない青が写真に写るからです。

 

綺麗な青を探してそんなことをしてるわけですが、いまのところ、京都で撮ったこの青が一番好きかな。

20080417_2.jpg

偶然撮れたこの色が撮りたくて、こんなことを続けてるんですけど。

なぜ目に見えない青が写真に写るのか

ところで、こんな風に目に見えない青が写るだけじゃなくて、それとは逆に、写真って「あっ、この風景きれいだから撮ろう」と思っても、実際撮ってみたらイマイチってことありますよね。あっ、これは撮影したものをその場で確認できるデジタルカメラの話ですね。デジタルカメラだと撮った写真をモニターで見ると、明らかに目に見えている色とは違う色が撮れたなと感じることは少なくないと思います。

『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』で、佐治晴夫さんがベネズエラですさまじい皆既日食の光景をみた話をしているんですけど、「濃紺の夜空に真っ黒な穴があいている感じ」がして、「その穴の周りは実にきれいなコロナが、白銀の髪の毛のように細い光芒として見えている」と話すその光景は写真ではうまく撮れないといっています。

なぜ写真では撮れないかというと、眼では暗い部分と明るい部分とを同時に見ることができます。でも写真の場合はシャッターを押しても、そのシャッターにあった明るさの部分しか撮れない。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

僕が撮ってる夕刻の青も実はそれとおなじ。写真に写ってる部分は実は暗い部分なんです。ほとんどの写真が実際に目で見ているより暗く写ってるんですね。

写真には本物の風景が写らない

で、ポイントは佐治晴夫さんが先に引用した話に続けて「だからみなさんがご覧になる日食の写真は本物ではないんですね」と言っている部分です。写真で見る光景は、実際に見る光景とは違うということです。

それは先に書いたとおり、写真を撮る人なら誰でも経験上、知ってることです。
でも、どうでしょう。撮った写真をあとになって見るとき、そのことを意識してますか? 僕もそうですけど、撮ったときは実際の光景と違うものが写ったなと認識していても、あとで写真を見返す場合にはその写真に写ったものを現実のものとして当たり前に見てしまうことが多いのではないかと思うのです。

ましてや、自分が見ていないものを他人が撮った写真だともっとそうなんじゃないでしょうか。その写真に写っているとおりの景色があって、それを相手の人は見てきたんだと考えてしまうのが普通だったりするのかなと思います。
でも、その写真はみなさん自身も知っているとおり、本当の形式を写せた写真ではないのです。だって、そもそも写真には本物の風景が写らないんですから。

僕らにとって実際の景色って何?

写真に関してはもう1つ、おなじく『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』では松岡正剛さんが、桑沢デザイン研究所で写真を教えていた頃に行っていた「作品を見る」ワークショップの話をしています。そのときにやった演習の1つに、学生が松岡さんに写真を見せにきたときに、その写真をぱっと伏せて、何を撮ったのか聞くというのがあったそうです。

たとえば学生が「ショーウインドウを撮った」と言えば、ショーウインドウの中には何があったかを聞く。帽子だと言えば、どういう帽子だったとか、ショーウインドウの周りには何があったのかとか聞いていくんです。すると、たいていの学生は細部まで憶えていない。それくらいカメラに頼ってしまって、どういう写り方をしているかもわからずにシャッターを押しているんですね。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

この演習自体はカメラうんぬんの前に、どこまで意識してものを見ているかということでもあって、よくある記憶ゲームのように、いくつかのアイテムが並んでいる絵などを見せて「○○は右から何番目にあった?」と訊くのとおなじことでもあると思います。とはいえ、確かに写るものが意識されていなかったら、いったい、何を撮ってるの?という話でもあります。

ただ、問題は写真を撮ってるとき、撮ってるものを意識していないために記憶にも残らず、かつ、先のように写真に写ったものを何の不思議もなく実際の光景とおなじものとして認識してしまうとしたら、僕らにとって実際の景色って何?ってことになるのではと思うんです。

情報と感覚の違いはどこへ消えてしまうのか

よく知っているはずの街を歩いていて、ふと建築工事現場に出くわすと「あれ、ここ前、何があったっけ?」と思うことはよくあります。あるいは、会社の同僚が週明けに髪を切ってきて「あっ、髪の毛切ったんだ」とは思うものの、じゃあ、切る前の髪型を覚えているかというとあやしかったりします。

人は視覚的な変化に対して敏感でも、どこがどう違うのかを考える際に、いま目の前にあるものではない、それ以前の状態を思い出すというのが苦手なのかもしれません。

そうなると、写真という情報、いや、写真に限らずカメラで撮られた映像という情報は結構やっかいなものだなと思うんです。実際に身体的な器官を通じて感じるものとは異なる景色を簡単に捏造できてしまうわけですから。実物をみたことのない人に、写真や映像だけみせれば、それが実際の光景だと思ってしまうことは多いでしょう。

はじめから現実性を疑ってかかる広告写真の類なら別ですけど、素人写真やコマーシャル的な要素が少ない報道写真、学術的な写真だとそういうこともあるかもしれません。これも『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』に書かれていることですけど、意外に多くの人がNASAが着色した地球の写真を本当の地球の色だと思い込んでしまっているように。

これって賞味期限の捏造なんかより、たちの悪さは上かもしれないって思うんだけど。だって、こんだけ写真や映像があふれてるわけですから、世の中、偽物だらけなわけですよ。

情報と、目をはじめとする自分の身体で感じたことが異なるにも関わらず、普段その違いを忘れてしまって情報そのものを事実として受け止めてしまうというのは、もちろん、写真や映像に限ったことではないでしょう。何より、言葉というものがその典型でしょう。そんな前ふりをしつつ、この続きの言葉に関する考察は「後編」で。



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この記事へのコメント

  • momo_dev

    はじめまして、通りすがりのものです。

    CANON等のデジカメメーカ各社は、画素数の様な機能では差別化できないため、「心象風景」のように「あの日あの時見た景色を写真として残す技術」の研究に力を入れているみたいです。

    見たままに撮りたいときもあれば、holgaやlomoのように明らかに見たままでない画になるのが良かったりすることもあり、写真は奥深いですね。
    2008年04月27日 19:11
  • supezou

    興味深い洞察、いつも楽しみにしています。
    写真がいろんな意味で嘘をついているというのは、その通りですね。私も写真を撮るのですが、色はやはり操作します。撮ったままを現像・プリントするのでなければセコいという意見もありますが、撮る時点でも、現像・プリントの時点でも、なにかしら色への操作は加えているわけです。本人が意識する/しないは別として。であればいっそ割り切って、効果的な表現を目指すのがよいのではないかと、私は考えています。

    以下、ご存知だったらすみません。見えない青が写るというのは、色温度の関与ですね。お気に入りの京都の写真で言うと、二階部分の白壁が青っぽくなっています。撮影に使われたカメラは白壁の下の玄関灯の光(本来赤みがかっていたはず)を白く移そうと色温度を調整しました。結果、白壁が相対的に青っぽくなったわけです。
    2008年04月28日 19:24
  • Nuts

    「見えない」というより「認識していない」あるいは「脳が補正している」もありえますよ。
    日差しの強い、抜けるような青空の下の影の色をよくみてみると、かなり青いんです。
    でもよく見ないと気がつきません。
    脳が「ただの暗い場所」と認識してしまっているだけで、世の中の影はだいたい青いです。
    2008年04月29日 15:50
  • tanahashi

    みなさん、コメントありがとうございます。
    参考になります。

    問題は「見えるもの」の複数存在する差異に対する感覚(のなさ)であって、どれが本物かとか、青く見えるかどうかではないわけです。
    とうぜん、写真が悪いとか、つまらないとかいう話でもなく、むしろ、自分が撮るもの、あるいは撮られたものを見る際に、何が意識され、何が感じられているか、を問題にしたいなと思ってるわけです。

    ということもあって、タイトルが「情報と感覚について」の考察なわけです。
    2008年04月29日 20:39

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