愛と青春のユーザビリティ(あるいは「デザイン、その統合的な視点」)

愛情が不足している。
デザインに関する愛情が。愛情からくる情熱が。情熱とともに沸きあがる悦びが。
もっとシンプルにいうと、興味、関心が。
そういう諸々のものが不足していると感じる今日この頃。

僕は、デザインとは物事を全体的な視点で捉える1つの方法だと思っています。
また、何ごとか必ず成り立たせる基盤をもっている物事の、その基盤のうちの人為的な部分を成り立たせる仕事をデザインと呼ぶのだと考えます。

デザインに関する愛

物事には必ずシステムがある。石ころにも、生物にも、宇宙にもそれが成り立つためのシステムがある。それらのシステムにはいまのところ人為的なデザインの関与する余地はありません。

でも、人工物には必ず何かしらのデザインがあるはずです。人工物を人工物ならしめる意思としてのデザインがなくては物事は成り立ちません。

そうした人工物のシステムを成り立たせるデザインに関する知識体系を、ハーバート・A・サイモンは"artificial science"と呼んで模索しました

自然科学は、自然の物体と現象についての知識の体系である。それでは、人工的な物体と現象に関する知識の体系である「人工」科学("artificial science")というものは、はたしてありえないだろうか。

また、利休の茶碗をつくったことで知られる楽焼=長次郎の15代目となる樂吉左衛門さんは、火という人のコントロールが及びきらないものの力を陶器をつくるうえで<デザイン>という言葉を逆説的に捉えます

自分の焼物ができるだけ<デザイン>でないことをもって、評価するようなところがあります。<これ、デザインになってないからいいなぁ>といった具合なんです。焼物においてここが膨れ、あそこがへこんでいることに意味はないわけですが、その意味を造形的に貫徹し、整理していくとデザインになります。そういうふうにわたしは<デザイン>という言葉を使います。

正反対にみえる考えではあるものの、どちらも物を支えるデザイン(人工)と非デザイン(自然)の両方の力がつくりだすシステムに魅了されている意味では、おなじ方向を向いているように思います。どちらにも物(あるいは「ものづくり」)に対する哲学や科学を感じることができます。僕はそれをここでは「愛」と呼んでいるのです。

デザインにおける対話

その意味で僕は、デザイン的な物にも、非デザイン的な物にも惹かれます。後者は最近では盆栽に対する愛情です。

ただし、実際には、真に非デザイン的なものは自然物として存在しても、完全にデザイン的な人工物は存在しません。ハーバート・A・サイモンが書いているように人工物の科学は自然物の科学に従います。
物であれ、情報であれ、事であれ、何かをつくりだすために行うデザインという作業を実施する際には、人はデザイン的なものと非デザイン的なものとのあいだで葛藤することになります。素材との対話です。

昨日の「物を見るには物差など持出さずともよい」では人が生きる上で対話は非常に根源的なものであると述べましたが、テリー・ウィノグラードの編集による『ソフトウェアの達人たち―認知科学からのアプローチ』に所収された「素材との自省的対話」というインタビューで、プロのデザイナー(都市計画者、建築家、ソーシャル・ワーカー、ジャズ・ミュージシャン)などを長年にわたり研究してきたドナルド・ショーンは、

デザイナーはあらかじめ答えを頭の中に蓄えていて、実際にはそれを翻訳するだけというようなことは滅多にありません。たいていは、前進的な動きの中にあって、作業を進めながら判断していくのです。このデザイナーの判断は、まるで対話をしている間柄のような親密なもので、使っている素材から反応を受け、どうなっているかを知り、自分が作ったのは何なのかを見て、そのレベルで判断を下すのです。

と言っています。また、

「デザインとは何か?」という疑問を推し進めていって突き当たる問題のひとつは、複雑さへの感覚です。人工物、システムあるいは状況を全体として見ると、そこにはさまざまな要素が含まれます。素材、デザイナーが見た目的意識や制限、デザインのプロセスの結果生まれる人工物を最終的に使う人々など。

と言い、デザインが挑む物事の複雑な様相とそれへの感覚について述べています。

デザインというのはこうした複雑でバラバラな物事に対峙しながらも、それらと対話を続けることで総合的な視点で判断を下すことで、最終的に人工物を使う人にとって有益なシンプルな回答を導き出す統合的なプロセスに基づく作業だと考えます。

分断されたデザインへの愛

しかし、実際にものづくりに関わっていない人には、このものづくりへの感覚が理解できないようです。いや、ものづくりの現場にいる人でさえ、その作業工程があまりに分断されすぎてしまい、デザインの一部にしか関われないため、総合的な視点で物事を見ることができなくなってしまっていることもあります。

そうなると、どうなるかというと、ユーザビリティの効果を調べたいとか、カラーリングを評価したいかいうことになる。なんという還元主義的発想でしょうか。それが科学的な視点だと勘違いしている人のでしょうか。そういう人には、ハーバート・A・サイモンの『システムの科学』を読んで、考えをあらためてもらいたい。ものづくり、あるいは、人間と物との関係を宇宙のはじまりまで遡って見つめなおしてもらいたいなんて思います。

あるいはこんな文章でもいいでしょう。

私が言いたかったことは、科学というのは分析をしていくだけではわからないということです。なぜかというと、ヨウカンを細かく細かく切っていくと、全部切りしろがなくなってしまって、食べるところがなくなってしまう。だから、細かく細かく分析することによって、対象がなくなってしまうという危険性があるわけです。
佐治晴夫「生と死の共存」
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

ヨウカンが食べられなくなるくらいならあきらめもつきます。でも、細かく細かく切り刻んだあげく、デザインへの愛情や関心が失われてしまうのはあまりに悲しい。デザインへの愛情が失われれば、とうぜん、まともな物事は存在しなくなる。すくなくとも、まともな人工物は。「対象がなくなってしまうという危険性」に対して、あまりに無意識すぎる人が多すぎます。

そんな状況で、部分的にユーザビリティなど捉えても仕方ありません。どんなに調査・分析をしようと、ものづくりへの統合的な視点での愛情や意思がなければ、徒労に終わります。

愛情も何もない状態でつくるくらいなら、愛情と青春の勢いだけで突っ走ったものづくりのほうが、結果としてできるものはきっと愛せるものになるでしょう。そして、愛せるものなら使いこなすのはそうむずかしくはないはずです。ものづくりの「も」の字も知らずに、頭でっかちにユーザビリティをこねくりまわすくらいなら、愛と青春のあやまちでものづくりをしてる人たちのほうが僕は愛しやすい。

   

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