日常の行為のなかの対話
なぜ対話なのか? それは対話が人が思考するうえで行っている基本的な行為だからです。ノーマンの「行為の7段階理論」ではありませんが、人は自分以外の外界のものと接するとき、対象となるものとの対話のなかで自分の行為とその目標のマッチングを常に行っているといえます。
わかりやすく例をあげると、楽器を弾く場合などがそうです。自分の楽器の操作(鍵盤を叩く、弦をはじく等)と楽器から出た音を常に比較しながら、自分の行為を修正・調整したりするのではないでしょうか。
それは自転車に乗る場合でも、ごつごつとした石が転がる河原を歩く場合などでもそうでしょう。自転車や河原のごつごつと常に対話をしながら僕らは身体を使っています。自分が一方的に行為を行うのではなく、対象からフィードバックを得て、自分の行為を調整する。ときにはフィードバックがもとで自分の行為の目標自体が変化することもあるでしょう。買い物に行くつもりで自転車で出かけたが、自転車に乗っていて感じる風が気持ちよかったからすこしサイクリングをしてみたといったように。
他人との対話
もちろん、それは他人と話す場合でもおなじはずです。相手に自分が言いたいことがなかなか伝わらない場合、言い方を変えてみることがあったりします。それは相手からわかってなさそうなフィードバックが返ってくるからでしょう。あるいは他人の反応を聞いているうちに自分の考え自体が当初のものからすこしずつずれてくることもあります。相手と話しているあいだに何かを学びとり、考えそのものが変わるのでしょう。
多くの場合、他人との話は自分が最初に考えていたようにはなかなか進みません。最初に考えていたのとおなじ結論にいたる場合でも、その道程自体は予定どおりに進むということはないはずです。
しかし、そういうなかでも人は予定外の反応をする相手にあわせて、自分の話を工夫して変えるなどして、どうにか自分の伝えたいことを伝えたり、相手との会話のなかで、当初考えていた以上のアイデアを見出したりすることができます。
もちろん、予想を超えた相手との会話のなかで、当初話そうとも思っていなかったことまで話題になったりして、そのこと自体が非常に楽しかったりすることもあります。
人の学習能力は対話型かつ遊び的
松岡正剛さんは『知の編集工学』のなかで、「私たちの学習能力はじつは対話型で、かつ遊び的なのである」といっています。対話型というのはここまで述べてきたのとおなじ意味ですが、遊び的とはどういうことでしょうか?続けて、松岡さんは「学習とは、自分が学習したいという欲求を満たすべき「舞台の設定」によって、いきいきと駆動しはじめるのである」とも述べています。
舞台というのは、記憶をしたり学習が進んだりするための、たとえば庭とか机のようなものをさす。そこで何がおこるかといえば、自分の学習の相手をすばやく見出し、その相手と対話するのだ。相手といっても実在の人物をさすわけではない。ノートの中の私でもいいし、となりのトトロでもいい、何でもが相手になりうる。松岡正剛『知の編集工学』
学習には、対話や遊びの相手が必要で、対話や遊びが成り立つ舞台が必要ということです。トトロと遊ぶには田舎の古い楠が必要なように。トトロと遊ぶことでサツキが何かを学ぶように、僕らは何かと対話し遊ぶことで自分が変わっていく。<「かわる」つもりがなきゃ「わかる」こともない>のです。
そして、対話の相手、遊び相手も自分の変化によって変わっていくと、対話や遊びはより楽しくなるのです。
キーボードVS筆 どちらが遊び相手として懐が深い?
その意味でこの話は以前書いた「iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い」というエントリーともつながります(そういえば、あのエントリーも松岡さんと茂木健一郎さんの対話にインスパイアされて書いたものでした)。紙やホワイトボードに文字や図や絵を描いて表現できる人と、キーボードを使わないと表現できない人では、創造性において大きな違いがあると思います。前者は「意識に呼び出しにくい記憶」と「意識に呼び出しやすい記憶」の両方を使って創造性を刺激することができますが、後者は極端な場合、「意識に呼び出しやすい記憶」のほうしか使えない可能性があります。
紙やホワイトボードという道具は、自分の使い方が変わることで、紙やホワイトボード側も表現可能性を変化させる柔軟性をもっています。一方のキーボードは、ブラインドタッチがうまくなって入力速度があがることはあっても操作によるアウトプットは固定されたままです。
筆で墨を使って紙に何かを書く場合にはそれとは比較にならない表現可能性をもっています。キーボードはこちらが変わっても相手が変わろうとしないのですぐにそこから学べることの限界に行き着いてしまいますが、筆であればこちらがその使い方に上達すれば相手はそれまでとは違う表情を見せてくれ、もっと別の学びの場を提供してくれます。その点ではキーボードよりも筆のほうが遊び相手としては桁違いな懐の深さをもっているといえます。
デジタルとアナログの許容範囲の著しい違い
これが「アナログな刺激のある暮らしに憧れて」で書いたデジタルとアナログの許容範囲の著しい違いです。デジタルの持つ非連続な性質は、人のあいまいなインプットの違いを無視して、すべておなじ目盛りのうえで表現します。微妙な表現を試みようとしても、それがツールの側があらかじめもつデジタルな目盛りに合わなければ、どんなに努力してもその要望は叶えられません。
一方の筆のようなアナログのツールは、人の微妙なインプットの違いをそのまま表現として受け入れます。はじめは微妙なインプットの違いをあまりにダイレクトにアウトプットに反映させてしまう繊細すぎる使い勝手に苦労するでしょう。
しかし、そうした手のかかる道具ほど、何かを学ぶための遊び相手としては懐が深いのではないでしょうか。
ゲームで遊んで楽しいのは、ゲーム以上に普通の人間がデジタル化してしまっていて遊び相手としての懐の深さを持ち合わせていないからかもしれません。知ってる人に訊くよりもネットや雑誌の情報を調べてしまうのは、雑誌やネット以上の情報を相手が与えてくれそうにないと思えるからではないでしょうか。
物を見るには物差など持出さずともよい
昨日の「直観とか感性とかについてもうすこし考えてみたい」で直観についての文章を引用した柳宗悦さんもこんなことを書いています。物を見るには物差など持出さずともよい。持出さぬ方がよい。持出せば物差で計れるもの以外は見えなくなってしまう。この世にはそんな目盛や長さで計りきれぬものが沢山ある。柳宗悦「民藝館の蒐集」
日本民藝館 監修『日本民藝館手帖』
デジタルにものを見ること、客観的な物差しに頼って学ぼう・考えようとすることには、その目盛りで計れる以外のものを見えなくさせるということを忘れているのではないかと思うのです。自分の感性でアナログに感じるのではなく、誰かのデジタルな目盛りで計ったものをただ頭に詰め込もうとする。その学びには対話も遊びもないのではないでしょうか?
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