アナログな刺激のある暮らしに憧れて

最近ぼんやりと考えていることが2つあります。

  • このまま、いつまでも東京に住んでいてよいのか、もっと自然が多いところで暮らすことも考えた方がよいのか
  • 何か趣味でできるものづくりがしようと思うが何がいいかな

という2つのことです。
前者はまだ先の話で、後者は割と直近の話かな。いまのところ、候補は水墨画か木彫りなんですけど。これはもうちょっとイメージを固めてからはじめようか、と。とりあえず、それまでは写真を撮ったり、絵を描いたりでつないでおこうか、と。

感覚を刺激するアナログな情報のある暮らし

そんなことを思うのはやっぱり今の暮らしって感性を磨くための刺激が足りてないなってつくづく思うからです。このあいだ、京都に出かけて強烈にそう感じました。こりゃ、暮らしの環境と暮らしのなかの行動を変えなきゃダメなんじゃないかと思ったわけです。

 

とりあえず松岡正剛さんの真似して、危険のない道を目をつぶって歩いてみたり、交差点で目を閉じて信号が変わるのを待ったりしたりもしてます。

今の暮らしには思考の刺激はあっても感覚の刺激は少ないように感じます。感覚なんて刺激さえあればいくらでも活性されるはずと思っていますが、逆に刺激がなければ不活性化するのではないかとも思います。
環境の方はとりあえずどうしようもないので、まずすぐにできる行動を変えてみているわけです。目をつぶって歩くとか道具がなくてもできることにプラスして、アナログなものづくりで素材に触れることから刺激を得られる生活に変えられればというのが今のたくらみ。環境の方も東京にだって感覚に刺激を与えてくれる場所はあるはずと思って探索中です。
まぁ、素材や環境との対話です。

もうちょっと明確にイメージができないと、まだ、どう動けばいいかが見えてきてない段階。私的なレベルではこのあたりが自分にとって昨日書いた「どういう世界を実現したいのか。そのために何が必要か。」に関連している課題です。

デジタルとは何なのか

さて、話はちょっと変わった感じになりますが、先日、中央大学で働くある人が学校ですごいスピーカーの音を聞かせてもらったと興奮気味に話してくれました。定年をすぎた先生が趣味でつくってるスピーカー(中央大学のある人から訂正が入りました。「もともと趣味でやっていたものを今はメインの研究テーマでやってる」人だそうです)だそうですが、そのスピーカーで聞くと、デジタル録音された2枚のCDの音を聞き比べると異なって聞こえるそうです。
デジタル録音されたものをコピーしているわけですから、理論的にはおなじでなければならないはず。しかし、それが違って聞こえるそうです。

どうしてそうなるのかを教えてもらったわけではありませんが、僕なりにその理由を想像すると、「おなじ」という場合の視点の大きさの違いによるものだと思いました。

デジタルというのは、本来連続である情報を、切り刻んで分割することで非連続な記号化したものです。たとえば、ものさし自体は物理的に連続でも、そこに刻まれた目盛りは非連続でデジタルです。
もともとデジタルの語源はラテン語で指をあらわすデジットです。指と指のあいだは見てわかるように、非連続です。非連続であるからこそ。指折り数えることに指を使うことができます。それと同様にデジタルにすることで、ものさしにはデジタルな目盛りが付いているからこそ、あるものを10cmとか10.5cmとか計測できるようになります。ただし、計測可能な内容は目盛りの刻みの大きさに依存し、1mm単位の刻みであれば、10.51cmと10.49cmはともに10.5cmとして計測されるでしょう。メモリがついていなければ、ここからここまでとかなり誤差を含んだ表現になります。

デジタルのなかにあるアナログ

おなじデジタル録音された音源をコピーした2枚のCDが違って聞こえるのも、ここに理由があるのではないかと思うのです。
デジタルに「おなじ」と判断する面では誤差として無視される小さな違いが、そのスピーカーでは「違い」として判断しその違いを明確に表現されるのではないかと。そのスピーカーはデジタルな目盛りよりもっとミクロな差異をはかれるようになっているのではないかと思ったわけです(もちろん、それがどのような差異かはわかりませんし、僕の関心は実際にどうかを知ることではなかったりします)。

理論的には、点も直線は面積も幅ももちませんが、実際に描かれた点や直線は必ず面積や幅をもちます。デジタルである記号も理論的には「おなじ」ものとして扱われたものは必ずおなじはずですが、実際に記録する際には記号も面積や幅のような違いをもたざるを得ません。物理的に違いがある(いや、実際には物である以上、違いがないものはありません)なら、その違いを増幅させて違いとして目に見えるようにすることはできます。

先のスピーカーはデジタル表現された"0"や"1"の記述の微妙な違いを「おなじ」ものではなく「違い」として表現してしまうのではないでしょうか。視点を変えれば、点や線のようなデジタル情報も、物理的な量をもちはじめます。

生物である人間は、このデジタルな記号と記号そのものが不可避的にもつ物理量の入れ替わりをうまく利用して思考し、生きているフシがある。このあたりは、郡司ペギオ-幸夫さんが書かれた『生きていることの科学』に詳しいので、そちらを参照ください。

計測した数値の大きさが必ずしも感覚的な大きさには一致しない

この話に関連してもう1つおもしろい話があります。デジタルに計測した数値の大小が必ずしも、人の感覚が受けとる大小とは一致しないという一例です。

いちばん私が気になっていたのが、自然風を再現するために、羽根を通常の扇風機の三枚羽根から五枚羽根に増やしたんですが、すると羽根が空気を切る頻度も増すから、ブゥーンという雑音も物理的に大きくなる。それで最後まで、もうちょっと雑音が小さくならないかなと思いながらも製品として出したのです。でもアンケートのカードを読むと、「いままでの扇風機より、とても静かです」とあるんですね。物理的に計測するとうるさいはずなんです。なのに静かになったとある。さあ、何だろうということになって、扇風機の風切り音を計測したら、これが潮騒の音と同じパターンだった。だから木にならなったんですね。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

トキメキについての感性がない」でも引用した、佐治晴夫さんと松岡正剛さんの対談集『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』で佐治さんが話している内容です。物理的に計測した音の大きさが必ずしも人が感じるうるささとはならないという話です。
実際、人はノイズがない状況より、適切にノイズがある状況のほうが落ち着くといいます。無音よりいわゆるホワイトノイズと呼ばれるノイズがあるほうが落ち着きます。

1/fゆらぎ

また、この本には心地良さを感じるものには1/fゆらぎがあることも紹介されています。赤ちゃんの肌、年輪をもつ木肌など。もともと1/fゆらぎは自然界にあるものだから、それがあると人は心地良さを感じるのかもしれません。

人が感じる心地良さだけでなく、法隆寺がつくられた頃に使われていたカンナを再現して使うと、木の細胞がもつゆらぎにそってカンナがかけられることがわかったそうです。一方で電動カンナを使うと細胞がズタズタに破壊されるそうです。前者が木を生かすのに対し、後者は木を殺しています。どちらが千年もつ建築物に適した道具かはわかりますよね。

こうした人が本来もつ感覚を無視したり、自然に存在するゆらぎを生かすよりもなくしたりする方向で、ものづくりをしたりしていれば、人間自身の感覚そのものが失われていくような気がします。

風を読めない僕たち

何よりショックだったのは松岡さんが語るこの話です。

京都の染め物屋の例なんですが、染めた物を乾かします。いまはどうかわかりませんが、「風が吹いているから乾く」とは思っていないんです。実は母もそれを知っていました。だから、洗濯物は「今日は風があるから干そう」ではなくて、「何々の風が今日はあるから色物の乾きがいい」とか「ネルは、比叡山からおろしてくる風のときには、いくら晴れているからといって乾かない」とか言ってましたね。結局、いまや僕も含めて、みんなも風が読めないと思うんです。洗濯物は太陽があって風があればすんでしまうという感じでね。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

これはショックでした。僕らはもう風が読めない。ナウシカにはなれないんですw こんなレベルのセンスしかないのに、センスのあるものづくりなんてできないよなーと思うわけです。

「洗濯物は太陽があって風があればすんでしまう」と松岡さんは言っていますが、実際はもっとひどくて洗濯指数を頼りに洗濯日和かどうかを判断してるんじゃないでしょうか。アナログな自分の肉体の感覚よりも、デジタルな指数を信じてしまう。
その傾向が賞味期限の偽造とかいう話につながっちゃってるわけです。

こんなことも絡んで、最初に書いた2つの考え事がもっぱら僕のいまの関心事だったりするわけです。

   

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