どういう世界を実現したいのか。そのために何が必要か。

どういう世界を実現したいのか。
それを具体的に考え、想像することって、いまの時代、すごく大切なことなんじゃないかと思います。

現状に対していくら文句は言っても、それを変えるための具体的な絵が描けなければ自分の不満さえ解消されません。実現したい未来のイメージが想像できなければ、問題点をいくら挙げ連ねたところで事態はいっこうによくなりません。

そういう意味で、いま問題なのは、よりよい未来を実現するための実行力が足りないことである以上に、よりよい未来のイメージを具体的に想像できる思考力・想像力が徹底的に不足していることなんじゃないかと思いはじめています。
イメージを形にする力」以上に、イメージを描く力が欠けているのだろうと。

曖昧な哲学、ヴィジョンではいけない

現状に安住してしまわずに、もっとよい暮らしやもっとよい社会、もっとよい自分の姿を具体的に想像すること。そのイメージがしょぼかったら、そりゃいつまで経っても現実がしょぼいままなのは仕方がない気がします。

どうしたいか、どうなりたいかを強く鮮明に描けるよう想像力や思考を使わなければ、どんなすごい技術があろうと何も実現できはしません。イメージが曖昧で具体性に欠けたらダメです。どういう世界を実現したいのかという哲学、実現のためには具体的にどんな道具・仕組みが必要なのかというヴィジョンが描けなければ、何も変わらないのです。

僕はよくユーザー中心のデザインの話をする際に、哲学とかヴィジョンとかいう言葉を使います。どんな世界を実現したいか、そのためのどんな道具をデザインするかが見えていなければ、誰をターゲットにデザインするのか、そのデザインの要件は何で、ヴィジョンをどうより明確なコンセプトに落とし込んでいけばよいかも決められないからです。

しかし、僕がいう哲学やヴィジョンはその言葉が一般にイメージさせるような曖昧なものではありません。むしろ、実際に目の前にあるものを見る以上に鮮明にものが見えていなければ、哲学ともヴィジョンとも言えないと考えます。

「哲学」とは実現したい世界そのもの、その状況。
「ヴィジョン」とは、その世界を実現するために用意しなくてはいけない道具や仕組みです。
何を実現したいか、そのために何が必要かを具体的に鮮明に思い描くことができなければ、何も変わらないのは当たり前です。

想像力を高めるための教育

そういう意味で僕は最近、実現するのももちろん大事ですけど、想像することもおなじくらい大事だなと考えるようになっています。

ただ、問題は、実現力を養う方法は世の中にいくらでも教育方法として確立されているいっぽうで、哲学やヴィジョンを想像する力を養う方法はほとんど確立されていないというところ。

これに気がついて僕はちょっと唖然としました。
想像力というのは、教えるものではないというのか。あるいは、想像とはどこかから自然と湧き上がってくるものだとでも思われているのか。想像力を高める教育方法は、芸術とかのごく一部の分野をのぞけば、そういうものが必要だと本気で考えられたことがないのではないでしょうか。
これはあらためて考えてみると、ちょっとゾッとします。

想像力は対話のなかに

で、僕は、じゃあ、想像力を鍛えるための教育方法としてどんなものをイメージしているかというと、それは他者との対話、外部の観察を重視した教育方法というのが1つありだろうと思っているのです。

想像力は対話のなかにあります。他者を想像し、ずっと目の前にいた他者のなかにこれまで知らなかった他者を発見するところに、未来はあると思っています。この他者は必ずしも人間でなくてもかまいません。自然や人工的なシステムでもいいと思います。

それから、対話ですので、一方的に相手の話を聞いたり、相手の動きを観察するだけではありません。対話ですから、とうぜん、こちらの側からの投げかけもあります。ただ、それは議論ではありません。相手をねじ伏せる必要はありません。それでは自分のなかにすでにあったものを他者にも与えるだけなので、新しいものは自分のなかに芽生えません。
対話が必要なのは、自分の投げかけと他者からの投げかけのあいだで何か新しいものを発見することです。そこに未来をイメージする種があります。

対話力の失われた現在

しかし、いまは老いも若きも、みな、こうした対話力を失っています。
他者との距離感が身体的にも精神的にもつかめない人が多い(だから平気で人にぶつかるし、細い道で前から来る人をよけられないし、他人の言葉を信じて行動することができない)と思います。

相手の距離がつかめず、相手のボールが見えないために、ラリーのような対話が成り立ちにくい。他人と接しているときにトキメクことが少ないんじゃないでしょうか。他人のボールを真正面で受け取れない人が多いのではないかと思うのです。
距離感をつかむこと、動くボールの軌道を見極めること自体、絵を描くための欠かせない視力なのですが、そうした空間把握、時間的推移の把握をほとんどの人が苦手としています。それじゃあ、どんなにボールを打ち返す技術があっても、ラリーにはなりません。

教育の現場もこれからは実現のための技術を教えるばかりではなく、何を実現するかを思い描く力に関しても教えていかなくてはならないのではないでしょうか。このあたりの問題意識が教育の現場にどのくらいのあるのかな?と。

   

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