2008年04月14日

トキメキについての感性がない

他人事と自分事。
ものや情報、そして、他人と接していて、その対象にどれだけ「近さ」を感じることができるか。それがものづくりにおいても生きていくうえでも大事なことじゃないかと思いはじめています。

愛着、恋、親しみ。まぁ、なんでもいいのですが、自分が接する相手(人でも、ものでも、情報でも)にどれだけ身近さを感じられるか。他人事ではなく自分事として感じられるか。一体感でしょうか。それがないとものづくりも、人生も

トキメキについての感性がない

すこし前に養老孟司との対談集『「わかる」ことは「かわる」こと』を紹介した理論物理学者の佐治晴夫さんが松岡正剛さんと対談した『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』という本のなかにもおなじことに触れた掛け合いがあります。
はじまりは松岡さんのこんな発言から。

松岡 たまたま、その年齢に該当する女性たちと話をする機会がありました。お金は持っているんですね。海外旅行はしているし、村上春樹と村上龍の違いも詳しいし、もちろんブランド物はものすごく詳しい。政治や経済についても、適当に判断力をもっている。ところがトキメキについての感性がない。映画についても話せます。話せるけど、自分のトキメキや、こだわってしまった自分にもとづいた発言ではないんですね。これはちょっとショックでした。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

「その年齢に該当する女性たち」とは、結婚をしていない28歳くらいの女性を指しています。ただ、もちろん、これは「結婚していない28歳くらいの女性」にだけ言えることではないでしょう。
トキメキがない、こだわった自分に基づく発言ができないのは「言葉にするのを恐れちゃいけない。それは自分の財産をつくるために必要だから。」で書いたことにも通じるところです。

オペレーションしてしまってドライブしていない

この発言には佐治さんと松岡さんの次のような掛け合いが続きます。

佐治 やっぱり事象のなかに自分を重ねることができなくて、遠くから見ているんでしょうか。自分を重ねるのが怖いんでしょうね。 
松岡 オペレーション(処理)してしまって、ドライブ(能動)していない。
佐治晴夫、松岡正剛『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』

仕事でものづくりをする際、企画・デザインをする際でも、その作業が単なるオペレーションになってしまっていることが多いのではないでしょうか? 能動的にやれている仕事が自分のなかにどれだけあるか?

仕事に限ったことではありません。日々の生活における選択や受容などの行動においても、客観的な計算づくの行動で、みずからの行動さえ自分からすこし離れたところで行ってしまっていることがあるのではないでしょうか。何をおそれているのか、何を不安に思っているのか、わかりませんが、どこか自分の選択や行動にすら距離をとったオペレーションで日々をこなしてしまっており、心から自分の生活をドライブできていない面もあるのではないか。そんなことを感じます。

情報から自由になり愛着をもつために

明らかに、日々、目や耳に飛び込んでくる情報におどらされていて、自分自身の欲望に動かされた主観的な判断ができなくなってしまっているようです。

飛び込んでくる情報にもまず先に根拠や信憑性を疑い、素直に感性で応えることができなかったりします。ものの見方そのものよりも、そのものが何が客観的な裏付けに支えられているかばかりを気にしてしまいます。自分の感性より客観的な信憑性を重視してしまうのです。

そういうことを続けていると、新たな情報に出会っても興奮することがほとんどないのではないでしょうか。あまりに貧しい感性だとしかいいようがありません。さらに呆れたことに、そうなってしまっているのを情報の過剰な社会に求めたりします。

そんなわけはない。他人のせいにするのではなく、責任を自分に求めることができれば、もっと情報から自由になれ、もっと素直に愛着がもてるものを増やせるはずです。愛着を感じたものに裏切られたとしても、それを乗り越えてこそ未来はあるのではないでしょうか?

ひどく感じにくい人間

僕のこの感覚は、松岡さんの『フラジャイル 弱さからの出発』を読んだときから、つよく意識されるようになったことでした。

耳をすませば遠い風鈴が聞こえるかもしれず、手をかざせばステレオの音を聞けるかもしれず、歩くときは全身をフルにつかって歩くのだということを、われわれはどんなときにも、どんなところでも絶対に教わってこなかった。われわれが教わってきたことは、民主的であれということ、泣きごとを言わないこと、戦いは正々堂々とすること、付和雷同しないこと、個性を磨くこと、男は黙ってサッポロビールを飲むこと、ただそれだけである。そのうちに、われわれはひどく感じにくい人間になってしまったのだ。

「われわれはひどく感じにくい人間になってしまったのだ」。
これは「かくれ里/白洲正子 & 白洲正子と歩く京都/白洲正子ほか」でも引用した次の言葉とも重なります。

昔の寺院は、自然を実にたくみに取入れているというか、まわりの景色の中にすっぽりはまりこんで、人工的な建造物であることを忘れさせる。寺院だけとは限らない。神社も住居も、あたかも自然の一部のごとき感を与える。これは彼らがあらゆる物事に対して、敏感だったために他ならない。現代の生活は、人を神経質にさせるが、決して敏感にはしてくれない。
白洲正子『かくれ里』



僕らは客観的なもの(情報、人)の見方に頼りすぎてしまっていて、主観的に自分に「近い」ところでものを見ることができなくなってしまっているのではないでしょうか。
客観的に物事を判断してオペレーションすることはできても、自分の心が強く求めるものにドライブされて日々を過ごすこと、他人やもの、情報に身をゆだねることができなくなっているのではないか。

拒まれることがこわいのでしょうか?
拒まれても望みつづける力を僕らは失っているのでしょう。


でも、拒まれることをおそれていたらトキメクことなんてできるはずもないのです。

  

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posted by HIROKI tanahashi at 00:26| Comment(0) | TrackBack(1) | デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Excerpt: 独り言のような、でもちょっと深いお話。 トキメキについての感性がない(DESIGN IT! w/LOVE) http://gitanez.seesaa.net/article/93267147..
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