考える・暮らす・行動するをつなげて、自分のスタイル・歴史をつくる

自分の暮らしに興味がないんだから、人の暮らしの提案なんか、そりゃできないよなという話」というエントリーにトラックバックいただいた、インテリアハックさんのこのエントリー。なかなか言いえてるなと感じました。

「理想のライフスタイル」というものは、ある日突然、お金と引き換えにまとめて手に入る。というものでは決してありません。日々の生活の細かな所を少しずつ自分に合わせて良くしていった結果、いつの間にかその状態になっている。というのが本当のところなのではないかと思います。

上のエントリーでも、<情報やノウハウといったものは、自分で実践してみて始めて身に付くものである、というのは、多くのいわゆる「勉強本」などでも言われていることです。>とも書かれていますが、これはまさに最近書いた「「かわる」つもりがなきゃ「わかる」こともない」や「「わかる」ことは「かわる」こと/養老孟司、佐治晴夫」に通じる話ですね。自分の内側に知識や技術を身につけるのも、自分の外側に生活スタイルをつくりあげるのも、どちらも日々の学習や生活を「自分に合わせて良くしていった結果、いつの間にかその状態になっている」ということなんだろうなと思います。

 

あいまいなヴィジョンを明確なコンセプトに変える

上は週末の京都旅行での写真からピックアップしたものですが、何気ない小物や植物が暮らしにいい雰囲気をだしているなって思います。

先のエントリーの別の個所には<それでもなかなか生活が良くならない、または良くしようと動けないのは、その「理想のライフスタイル」というものが漠然としすぎている、もしくは少し上を見すぎているためではないか?>とも書かれていますが、イメージが漠然としていたら形にならないのは、生活スタイルでもデザインでも学習でもいっしょ。僕も今回の京都旅行で、自分のイメージが漠然すぎて結局買いそびれてしまったものがいくつかありました(迷ってるうちに時間切れで)。

そもそも僕がライフスタイルに考えるきっかけとなっているのは、現代のデザインってライフスタイルの提案ができていないよなという思いからきていますが、やっぱり人びとが生活のなかで使うものをデザインしようというならいかに暮らしのなかでそれが利用されているかが明確にみえていないとだめだろうと思うんです。それがどんな暮らしをしている人びとの生活に取り入れられることで、その人の暮らしをどう変えるのか。それが絵としてイメージできていないと、人びとが自分のライフスタイルをつくるものの一部としてそれが取り入れられるということにもなりにくいのではないか、と。

考える・暮らす・行動するをつなげて、自分のスタイル・歴史をつくる

だから、これは作る側にも使う側にいえることなんだろうなと思います。「かくれ里/白洲正子 & 白洲正子と歩く京都/白洲正子ほ」で引用した中沢けいさんの<「買う」よりも「誂える」というほうが、作る人と使う人が、気持ちの中で繋がっている感じ>という話とも通じて、使う人のセンスや暮らしに対する意識もここではとうぜん問題になってくる。双方がライフスタイルに対するイメージを研ぎ澄ませていかないと、それが現実のものになることはないのでしょう。それがなければ理想はいつまでたっても理想のまま。ヴィジョンは具体的なコンセプトにならないと、具体的なデザインの作業ができないのとおなじです。これも昨日の「「わかる」ことは「かわる」こと/養老孟司、佐治晴夫」で書いた「行動を変えないかぎり思考が変わらない。本音で行動しないと思考のほうも本音レベルでは変化しない」につながる話だと思います。
結局、知識を自分の生活やそのなかでの行動やそれを可能にする物理的環境と切り離して考えてもだめなんだという気がします。

自分で手にしたものには、自分の記憶や家族の記憶が宿ります。そうした記憶をぞんざいに扱うことには、吹きすさぶような空虚感を感じます。暮らしをつくることには、いつもものがともないます。ものは、わたしたちの暮らしをつくり、わたしたちの記憶つまり歴史と深くかかわっています。

こうしたレベルで考える・暮らす・行動するというものをつなげて、自分たちのスタイル・歴史をつくっていかないといけないんだろうな、と。

 

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