「わかる」ことは「かわる」こと/養老孟司、佐治晴夫

考えない、行動しない、他人の心を想像しない。だから、わからないし、変わらない。

養老 つまり、その人の行動なり、考えなり、世界観なりがその段階で変わっていない。言ってみれば、小手先を変えればすむと思っているということです。
佐治 「わかる」ということが、「わ」と「か」を入れ替えて「かわる」ということになっていない、ということですね。
養老孟司、佐治晴夫『「わかる」ことは「かわる」こと』

佐治さんが<知るというのは「わかる」の「わ」と「か」を入れ替えて「かわる」ことだと思っています。>といい、養老さんが<変わらないけど頭に入っているものを「ただの知識」というんです。>と受ける。ともに還暦を過ぎた解剖学者と理論生物学者による対談は、宇宙のこと、音楽のこと、生物のこと、意識・言葉のこと、教育のこと、学習のこと、そして、男と女のこと、脳のこと、数学のことと話題は多岐にわたります。

しかし、そこに通底しているのは、137億年の宇宙と生物の歴史を汲んだ「わかる」ということ、「考えること、行動すること」、そして、「かわる」ことに対する2人の共通した思考だという気がします。

「じゃあどうしたらいいんですか」

なかでも僕がこの本を読んでいちばん共感したのは、養老孟司さんの次の発言です。

養老 私がさっき言いましたが、「本当の私がある」というような考え方がこういう間違いを起こしてきたでしょう、と言ったときに、「じゃあどうしたらいいんですか」というのはまったくの間違いなんですよ。その考えを変えた瞬間からやることは変わってしまうんだから。「じゃあ具体的にどうしたらいいんですか」という質問は、実は人の言うことを聞いていない証拠なんです。
養老孟司、佐治晴夫『「わかる」ことは「かわる」こと』

この発言の前に養老さんは、<日本のかたは「そういう考え方は間違っているでしょう」と言うと、「じゃあどうしたらいいんですか」と来るんです。それはどういうことかというと、思想が行動に影響するという考え方がまったくないんです>と言っていて、その発言が上の引用につながっています。

これは非常によく「わかる」。僕も本当によくそれを感じることがあります。

僕も仕事で人にユーザー中心のデザインの方法を教えたり、このブログ以外にもいろいろ文章を書かせていただいたりするんですけど、考え方や方法について主に説明しているのに、そのあと、「具体的にどうしたらいいんですか」とか「事例を教えてください」ということが非常に多いんです。そういう瞬間は、養老さんじゃないですけど、本当に「あなたは何を聞いていたんですか?」と感じてしまいます。

いまの問題を指摘して、それを変える方法を説明しているのに「じゃあどうしたらいいんですか」はないですよね。「説明がわかりにくかったので、もうすこしここのところを教えてください」とかいうのならわかります。でも、そうじゃなくて「じゃあどうしたらいいんですか」とくる。ああ、この人はまったく自分で考える気がないんだな、人が話したことを行動に移してみるという力がないんだなと感じます。

本音で語る

本当に「わかる」ためには自分の行動を変えてみて「かわる」ことで「わかる」しかないことがわかっていない。逆に思考が変わってしまえば、行動も変わらざるを得ないということがわかってないんですよね。だから、知識が自分をすこしも変えずに「ただの知識」になってしまう。

「じゃあどうしたらいいんですか」じゃなくて、いま言ったことをまずはやってみてくださいって思います。やってみて何か具体的にやり方がわからないなどあれば質問に答えることはできますけど、僕自身の体験も含めて何から何まで言葉だけで聞いて、つまり知識の詰め込みだけですべてを「わかる」なんてことはできないですよと言いたい。まあ、僕の場合は僕自身の説明がうまくなくて、そうなってしまっている場合も多いと思いますので、いいのですが、ほかのシーンでも他人の話を聞いて「まずやってみよう」とか「考えてみよう」と自分を変える人がすくないのは本当に気になります。

佐治 最近の学生は「考える」ということをあまりしませんから、考えさせるような試験を出してみるとよくわかることがあります。それは短歌を、あるいは俳句をつくれ、という試験なのですが、これは本音が出てくるなあという感じがしますね。限られた字数で何かを表現しないといけない。たとえば宇宙論だったら「宇宙の中の私」でも何でもいいのですが、そうするとかなり本音が出てきて、考えるということは何かということに少しは気づいてくれるかな、と思いましたね。
養老孟司、佐治晴夫『「わかる」ことは「かわる」こと』

ブログなどを書いていると、たまに他の方とのあいだで誤解を生じたりすることがあります。
でも、これはある程度仕方がないことです。もちろん、他人のことを想像して書く配慮は必要ですが、言葉にして書くこと、しかも限られた文字数で表現する際にはどうしても誤解が生じる可能性は避けられません。でも、だからといって、誤解を必要以上に避けて本音を隠してしまうとブログを書いている意味というのは半減してしまうと僕は思っています。

本音で行動する、本音で考える

本音で考えないとダメなんですよ。じゃないと考えたことにならない。そして、もっと重要なのが本音で誰かとぶつかることです。これはブログを介してよりも、むしろリアルなコミュニケーションにおいて。そこに「かわる」機会がある。自分とは異なる外部を理解することを通じて、自分が外にはみだし、そこで自分が変わるんだと思います。

もちろん、本音でぶつかるといっても別に言い争いをしろというのではないんです。自分の考えていることの本心を伝え、そして、相手の話していることをも本音として聞く。そういうなかでこそ自分のなかに変化が生まれ、いままでわからなかったことがわかってくるんだと思います。それが本来の学びかな、と。

そして、結局は自分で実際に行動する以外に「わかる」ということはないと思います。行動を変えないかぎり思考が変わらない。本音で行動しないと思考のほうも本音レベルでは変化しないんですね。それを本音を隠した状態で情報処理的にうわべだけで操作してしまうから、わかるということにはならず、ただの知識だけが蓄積されるのでしょう。それで自分は変わらないとかいっても、それは変える気がないだけの話です。
逆にいえば思いが詰まってなかったら行動も薄っぺらで何も動かすことはないし、人生も薄っぺらになるということです。それくらい思考が行動に影響するのだし、行動が変わらなければ考えを変えられたことにもならないということです。

本気で変えること、変わることを信じて行動しなければ

自分が変わらなきゃ何も変わらない。当ブログでは、以前から状況を変えたいなら、他人ではなく自分が変わることが必要と書いています。

ぜんぜん状況が変わらないと嘆いてもダメなんですね。何故なら、あなたがどんなにその状況を嫌がっても、その状況があるということを認めている・信じているのですから。認めるもの、信じるものが目の前に存在するのはとうぜんです。それは神や仏を信じした時代からとうぜんのことだったんだと思う。どういうわけか、現代人はその「とうぜんのこと」を忘れてしまった。だから、自分が信じる存在が存在することを嘆くというわけのわからないことになる。
存在をあらためたければ真っ向から疑うこと、信じるのをやめること、そして、それを行動で示すことなのでしょう。本気で変えること、変わることを信じて行動しなければ何も変わらない。それは当り前のことだったのではないかと思うんです。
そして、その当たり前を信じるところに、教育も学習もあったのではなかったか? 変わり、変えることを目指して教育も学習もあったのではないかと思います。それは決して知識の詰め込みではなかったはずです。

そういう当たり前のことをこの本は思い出させてくれます。



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この記事へのコメント

  • ふくちゃん

    『ほんとうの環境問題』から
    こちらのページにつきました。
    良いコメント読ませていただいて
    早速購入しました。
    ありがとうございます。
    2008年06月02日 16:02
  • こうきしん

    はじめまして、わかるとかわる。
    これって本質をついていることだな~と
    思います。佐治さんの検索からきました。ありがとうございます。
    2008年12月14日 01:36
  • tanahashi

    コメントありがとうございます。

    関連エントリーとして

    わかること。それはガイドブックも道案内もない冒険の旅
    http://gitanez.seesaa.net/article/111294821.html

    を追加しました。
    2008年12月16日 01:12

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