うーん、そういう意味では想像力に欠けた人がつくったのかなと疑問に思うデザインのものって多いんですよね。想像力の欠如がそのままデザインの品質に影響しちゃってるし、生活スタイル・ワークスタイルに何の提案力をもたないものができあがっちゃう。ちゃんと考えてつくってます?って感じてしまうんですよね。
考えるというと、普通、すごく論理的な考え方をすることばかりを想像しちゃうと思うんですけど、僕はそこに「絵柄を想像する」「動きをイメージする」「実体を感じる」みたいなことが同時に起こってないと、何かが「考える」ということから抜け落ちちゃうんじゃないかという気がしてます。
何かが抜け落ちた考え方をしちゃうからデザインに抜けが出ちゃうんじゃないか? 想像力を欠いたモノが生まれてしまうのかなって思うんです。
考えさせる教育、感じる教育
養老孟司さんと対談している『「わかる」ことは「かわる」こと』のなかで物理学者の佐治晴夫さんが小学生を相手の特別授業で分数の割り算を教えたときのことを紹介してくれています。通常、学校では1×1/2の計算を行う場合、1/2をひっくり返して2/1を掛け算するように教えますが、「なぜ反対にして掛け算するの?」と子どもに聞かれたら答えられません。しかし、佐治さんは割り算は「単位の大きさを変える」という意味を明確にしたうえで、つまり、6÷2は、6を2という単位で考えるといくつの単位があるのかということだという割り算の意味を明確にしたうえで、次のように子どもに教えたそうです。
佐治 それを理解させるために僕は、『不思議の国のアリス』じゃないけれども、きみが小人になったと思いなさい。同じものがあるときに、きみが10分の1の大きさの小人になったら相手は10倍に大きく見えるでしょう? と。こういう教え方をしたら、みんなとてもよく理解してくれました。そのように考えさせる、というか、同時に「感じる」教育も必要かもしれない。
養老孟司、佐治晴夫『「わかる」ことは「かわる」こと』
これは確かに単にルールとして覚えるしかなった分数の割り算を、子どもにも「感じる」ことができる状態に変換しつつ、割り算の意味を子どもに理解しやすくしています。
これまでも「みんなで手を動かしながら考えるということを図にしてみました。」や「Fw:本当に考えたの?(それは「考えた」と言わない。)」などのエントリーで手を使いながら考えることの重要性を指摘しましたが、まさに考える際に「手を使う」ようにするのは、「考える」と同時に「感じる」ことができる状態をつくることにほかなりません。
考えることのプロセス
僕のイメージだと「考える」というプロセスは単純化すると、こんな風になってるんじゃないかと思うんです。- 対象と自分の関係から何かを感じる
- 感じたことを情報化して整理する・構造化して意味づけを行う
- 整理したことを伝達可能な形で表現する
この考えることのプロセスの3つは同時に考えるために必要な作業要件です。「感じる力」「情報を整理して構造化する力」そして「表現する力」の3つの作業要件。この3つがうまく組み合わさって「考える」ということになっているのではないかと思うんです。
ただし、このプロセスは必ずしもきれいに順番に進行するわけではありません。
情報を整理するのはまず自分がわかる形に表現できないといけないし、それに整理したものから意味を読み解くには整理した構造から何かを感じないといけないから。絵を描いたり楽器を演奏するのに近いのかなと思います。
自分が感じたことを表現するには表現力がないといけない。表現力があっても感じる力、感じたものを整理して表現の対象を見極める力がないと表現できません。表現力だけじゃ、楽譜に書かれたそのものを演奏することはできてもそれを自分のものにすることはできないんじゃないかな。
考えるというのもそれと似てる気がしてます。
考えることと感じることを連結させる
結局、「デザイナーであると同時にスタイリストであればいいのかも」で書いたデザインする人たちのライフスタイルの提案の欠如って、生活のなかで自分たちがつくったものがどう使われるのかということがイメージできていないのかなと思うんですね。それはまず日常において「考える」ということと「感じる」ということの連結を行う訓練ができていないということにもつながると思うんです。それは理系と文系を分けてしまう発想につながっているのかなという感じもします。
今日、浅野先生と「システム開発者でもメタ認知が欠けている人がいる」「システム開発者でも優秀な人は自分たちの仕事はクリエイティブな仕事であるのをわかっている」ということを話していたんですけど、わかってる人は考える/感じるを連結させているし、理系/文系の枠など軽々と飛び越えて論理と情緒の融合ができていると思うんですよね。
逆の意味で狭義のデザインをしている人には論理的な思考に欠ける人がいて、しかも、自分はクリエイティブな仕事だから論理的思考は必要ないと思っていたりします。
さっきのプロセスの1つに「感じたことを情報化して整理する・構造化して意味づけを行う」という要素を入れましたが、結局、そういう人はこのプロセスがないんですね。それじゃあ、デザインを自分で考えることはできません。
考えることとヒトという生物
このブログではずっと考えることとはどういうことなのか?を1つのテーマに書いてきているわけですけど、「考える」という行為は結局こむずかしいことなのではなくて、本来、ヒトを人間たらしめる当たり前の行為だと思っています。そして、ヒトという生物は進化の過程で、その「考える」という行為を生来的にできるものとして獲得したのではなく、成長過程での「教育」「学習」によってそれが可能である素質を獲得したんでしょう。言葉だって、ほかの道具だって、生まれつき使えるのではなく、成長過程での学習や教育の成果として身につけることができるものです。そして、それは頭で言葉を使い、手で道具を使いながら、考えることを可能にするための学習・教育なんじゃないかと思います。
その人間らしい行為としての「考える」こと、そして、それと密接に結びついた「感じる」ということを学習すること、教育することを放棄してしまったらいったいどうなるんでしょうか?
なんか世の中にあるデザイン、機能しているのかしていないのかわからないシステムのことを考えると、このへんどうなってるのかなと不安になってしまいます。
と、同時にもっとデザインのおもしろさ、デザインの必要性をわかりやすく伝えていけるようにならなくてはと反省した次第です。
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