DESIGN IT! では「他人に自分の存在を知ってもらうためには日々自分を外部・社会に向かってアピールしていく必要性を書きましたが、そんなしち面倒くさいこと(僕にとってはもはや面倒なことじゃないけど)をし続けなきゃいけないのは、そうする以外に社会に対して自己を固定化する方法がないからです」と書かれてますけど、私にしてみると「社会に対して自己を固定化する必要なんて無いぢゃん」と感じられてしまうわけです。他人が自分の存在を知ろうと知るまいと、自分が自分であることは揺るがないからね。
「他人が自分の存在を知ろうと知るまいと、自分が自分であることは揺るがない」。
残念ながら、そうだとばかりは限らないはずです。状況が変わればそんなもの簡単に揺らぐと思います。
他人の誤解によって自分が揺らいでしまう状況
もし仮にあなたが無実の罪で外部から断罪されたと考えてみてください。あなたはもちろん自分が無実であることは知っている。でも、あなたが無実であることを証明できる可能性があるのはあなただけだとしましょう。しかし、状況証拠的には、あなたに不利な状況がそろっている。あなた以外に事件が起こった現場には誰一人いなかったことになっている。世間は必然的にあなたが犯人だろうと考える。なぜなら、あなた以外に事件を起こす人物が想定できないから。あなた自身もそこで自分以外の人間がいたのを見ていない。あなたが知っているのは自分は無実だということだけ。そういう状況であなたは自分の無実を他人に納得してもらえるよう、どう証明・説明するのでしょう。こういう状況において、あなたは「他人が自分の存在を知ろうと知るまいと、自分が自分であることは揺るがない」といえるだろうか? あなたは他人に自分が無実であることを知ってもらわない限り、無実の罪をかけられ罰せられるかもしれない。それでも、「自分が自分であることは揺るがない」といえるだろうか?
残念ながらこういうことはいまの極端な例のように例外的なことではありません。こうしたことは日常茶飯事で起きていることだと思います。他人が自分のことを誤解することなど、本当によくあることです。そして、その誤解が自分に不利に働くケースも。
もちろん、元から誰からも相手にされていない状況であれば、誤解されることもないかもしれない。しかし、誰かしらほかの人間と日々コミュニケーションをとったり、仕事のつきあいがあったりすれば、誰かが自分を誤解する可能性はつねにある。そして、他人が自分を誤解していることで自分が不利な状況に立たされれば「自分が自分であることは揺るがない」なんて、強気に構えていられないのではないか、と。
自分の仕事に対する他人や会社の評価がどうも自分で想像していたものと違ったり、ふと耳にはいってきた自分に関するうわさが根も葉もないとはいわないまでも大きく事実がねじまげられていると感じたら、揺るがない自分を保っておくことなんてむずかしいんじゃないでしょうか? いや、むしろ、そこは大きく揺らいで自分自身の自分に対する認識を他人に説明する努力をしたほうが賢明でしょう。
ほかにはたとえば、自分(Aさんとしよう)の書いたり言ったりすることを、Aさんはいつも「Aさん節」だで片づけられたり。これも本人してみれば不快かもしれません。
社会においては常に評価するのは他人
そんな風に記号・情報として流通する自分と自分自身が一致しないケースはよくあるでしょう。いや、それどころか自分が(情報として)意識している自分と、実際の自分が一致しているなんて実は自分自身でもわからないはずです。残念ながら昨日の「「自分っていったい何なんだろう?」っていう問いの立て方自体が間違ってる?」というエントリーで書いたのは、そういう意味でいわゆるアイデンティティの問題などではないんです。同一性そのものを疑ってるわけですから、アイデンティティも疑う対象です。
しかも、アイデンティティなんてものはまさに他人にとってはある意味どうでもいいことです。それが揺らごうが揺らぐまいが、他人にとっては自分になんらかのメリット(それはただそばにいてくれるだけでいいというのも含めて)があればどうでもいいわけです。
そこで相手がどう思おうと自分は揺らがないなんて力んでみても仕方ありません。社会においては常に評価するのは他人なのですから。
あとで書きますが、そもそもアイデンティティというもの自体、社会的流通を可能にするツールであって、本来個々人のなかだけでは意味をなさないものです。自分で自分のアイデンティティを評価してもなんにもならないのです。
情報としての自分、捉えどころのない生物としての自分
そもそも、記号・情報としての自分、あるいは、自分が意識している自分と、実際の自分は一致するはずないんです。昨日のエントリーの論点はここです。自分に自信があるかどうかなどはそもそも論点ではありません。
それが一致しないのは、一方の情報・記号・意識は固定点であり、情報・記号に関してはそのまま社会的に流通・交換可能だし、自分の意識も言葉で説明可能という意味では、他者へと流通させることが可能であるのに対して、本来の自分なんてものは実はつねに変化しているわけで、一時たりともその実像を完全に捉えることが不可能、つまり、固定化・情報化ができないものだからです。
固定化され社会的な流通が可能なものと、固定化不可能でそれゆえに情報化されえない生き物というものを一致させようというのがそもそも間違いのもとです。
意識のなかの自分も「農民」「武士」という記号と変わらない
自分が自分だと意識している「自分」は、それが他人に信じてもらえるか、納得してもらえるかは別として、相手に説明することは可能な情報です。その意味では、農民、武士という記号・情報となんら変わりはない固定点です。ただ、その固定点が社会的か、個人的かが違うだけ。前者が社会における交換・流通が成り立つのに対して、後者が常に無条件では社会的な流通が成り立ちえないというだけの違い。いや、後者に関してもその中身を別とすれば、説明としては流通可能です。
ただし、記号・情報がある程度、固定化されることでしか社会的意味(交換価値・流通可能性)をもたないのに対し、一方で自分の側はつねに変化する「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」な存在であるわけで、そこに相容れないものがある以上「自分は自分である」といってる時点で自己認識がはなはだしく間違っているか、自分は自分であるという言葉自体がただの意味のない同語反復であるかのいずれかということになります。
そもそも自分を規定する意味は社会的な理由以外にありえない
自分の側からすると自分をなにかしら規定する意味って実はそもそもないんです。その意味では「他人が自分の存在を知ろうと知るまいと、自分が自分であることは揺るがない」というのは正しい。揺るがないというのはつねに自分を規定する意味なんてないし、できるはずもないという意味で。ただし、社会と何かしら関わりをもとうとすれば、どうしても自己を規定せざるをえなくなる。そうしないと流通可能な共通認識を社会とのあいだにもてないからです。とうぜん、それがなければコミュニケーションが成り立たない。あらゆる交換、あらゆる流通が成り立ちません。それにはあらかじめ共通認識となっている言語などを使って、自己をとりあえずでも規定するしかないわけです。
それが昨日のエントリーで書いた「他人に自分の存在を知ってもらうためには日々自分を外部・社会に向かってアピールしていく必要性を書きましたが、そんなしち面倒くさいこと(僕にとってはもはや面倒なことじゃないけど)をし続けなきゃいけないのは、そうする以外に社会に対して自己を固定化する方法がないからです」という言葉の意味。
アイデンティティなんてものは社会において自分自身を誰かとの交換・流通の対象にする場合にのみ役に立つわけで、自分自身のなかでアイデンティティをもっていても何の意味もなさないという点を、みんな勘違いしています。
「自分探し」のどこに疑問を感じるのかというと
「自分探し」がどうも違うなと感じるのは、そもそも自己規定が必要なのは社会に対してなのに、それが自分自身の必要にすり替わってしまっていると感じるからです。本来、社会とかかわるつもりがなければ「自分探し」なんてする必要なんてまったくないんです。あるいは、必要があるとすれば自分自身の閉じた世界がその人にとっての社会になってしまっている場合なのかもしれません。ようは自己規定が自分の殻になっちゃってたり、自分で自己規定がうまくできないのを悩んだりするのは良くないなーって思うんです。だって、そもそもそんなことに悩んだり、それが原因で自由に行動できないのは損だもん。
むしろ、自己規定・アイデンティティなんてものは直接自分用に使うものっていうよりは、あくまで自分を他人・社会に対してPRするためのものというくらいに割り切ってしまったほうがいいと思います。
そして、自分に対してはもっと気楽に、型にはまらない、無駄もどんどん受け入れる生き方をしたほうがいいんじゃないかと。
まぁ、自分自身にとってもアイデンティティというのは支えになったりもしますから、そんなのいらないよとは言いませんけどね。
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