そして、自然と人工の入り混じった中間形態としての「田んぼ里山」を成立させた思考こそが日本の思想であろうといって、それを「手入れの思想」と呼んでいます。
手入れとは、自然のものに「手を入れて」、できる限り自分の都合のよいほうに導こうとする作業である。そのためには、明瞭な前提が必要である。
それにはまず対象である自然の存在と自律性を認め、それを許容しなければならない。「仕方がない」とは、自然の負の面を認めざるをえないときにいわれることは明らかであろう。養老孟司『人間科学』
『人間科学』という本で、養老孟司さんはモノとエネルギーを対象にしてきた科学に、情報系という新たな視点をもちこんだ人間科学を模索しています。かつてユクスキュルが『生物から見た世界』で描きだした動物によって脳によって構築される世界像の違いなども参照しつつ、脳化・情報化という観点から科学を見つめなおしています。
その観点から「都市社会は、巨大化したヒト脳の機能、とくに意識が中心となっている」と言いつつ、先の引用における日本の近世までの都市の特殊性について述べているわけです。
手入れした自然を取り込む
日本の都市が田んぼ里山を隣接させるという特殊性は、それ以外の都市が「ヒトが意図的に作らなかったものは置かない約束になっているから」で、たんぼ里山のように手入れした自然を取り込むというか、それとともに住まうなどということは、ほかの国の文化には見られなかったことだと指摘しています。もちろん、それには日本という環境の特殊な事情もあります。
まず1つには、何より日本の自然が丈夫であるということ。植物を伐採してもいずれ元に戻ってしまうくらいの復元力をもっています。熱帯雨林ではこうはいかず乾期なら地面がカチカチに固まってしまうし、逆に雨期なら表土が流れ出してしまいます。
もう1つには、日本には大地震、噴火、台風、豪雨があるということ。地崩れやなだれが頻繁に起こり、火山や地震で土地そのものがリセットされます。これは自然にとってはマイナスではなく、養分を多く含んだ土地がリセットされてあらわれるという意味ではむしろプラスです。このあたりはジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』を読むと非常によくわかります。
この2つの性質がともなって、いまも日本の森林被覆率は7割近くと文明国としては異常な高さを誇っているわけです。都市の側からすると都市として使える土地が異常に少ないとみることができます。
そういう自然の強さや都市化可能な土地がそもそもすくなったこともあったのでしょう。日本では自然とともに生き、田んぼ里山に「手入れ」をした自然を取り込む文化がつい最近まで染みついていたのだと思います。
生きるための規矩はなにか?
しかし、そうした文化さえも「ライフスタイルの提案力をなくしたデザイン」や「近代デザイン史/柏木博編・著」で取り上げたような「誰もが他からの強制(力)を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができるのだという前提」として、地域や階級によらないインターナショナルでユニバーサルな生活様式の確立を目指した近代デザインやその背景としてのモダニズムによって、破壊されます。こうして日本社会では、仕事、身体のケア、子育てのすべてが、「手入れ」という1つの原則で行われていたのである。近年の都市化は、それをむしろ徹底的に変更、破壊した。壊したほうはそのつもりはなかったであろう。しかし壊れたことには違いない。生きるための規矩(きく)はなにかという現代日本社会の問題は、おそらくここに発している。養老孟司『人間科学』
近代デザインが力を失ったあと、デザインは新しいライフスタイルの提案をなくしてしまっている点については「ライフスタイルの提案力をなくしたデザイン」で指摘したとおりですが、ことはデザインが単に新しいライフスタイルを提案できないだけが問題なのではなく、むしろ、問題としては「生きるための規矩」が失われていることのほうがより大きいといえるでしょう。
そんなところから、やたらと誰に対してでも「上から目線」でものを言って他人の話が聞けないような「自分は信じない。人を信じる。」や「自分の視野を広げるためにも他人の意見には耳を傾けなきゃで問題にした自信のなさが反転した現象がコミュニケーションの現場で起きていたり、逆に過剰な自信のなさや不安がそのまま露出してしまっているようなことが頻出しているようにも感じます。とにかく短期的な欲望ばかりがあって「生きるための規矩」がない状況というのは、文化・生活の面からみると相当きつい状況じゃないかなという気がするのです。
選択肢は増えてるの?
そんな状況で「選択肢は増え続けて来たし、今後もさらに増え続ける」と手放しに喜んでいられるのでしょうか?人工物のレパートリーは増えるかもしれませんが、逆に手入れが可能な自然のレパートリーは減っているのではないかと感じますし、そもそも手入れの方法を僕らはどんどん忘れていっています。これって本当に選択肢が多いといえるのでしょうか?
それこそユクスキュルがいうようにある動物の脳でみれば選択肢が増え続けているとみえるかもしれませんし、そうじゃない動物には選択肢が減っているようにみえるのではないか、と。
「京都の意匠&京都の意匠Ⅱ/吉岡幸雄+喜多章」でも書きましたが、いまの製品デザインあるいは普通に街を歩いているよりも、京都の一見シンプルに思える侘びた建築の意匠や自然を取り込んだ庭園などを眺めているほうがはるかに情報量の多さに圧倒されます。そして、それは季節によっても変化し、レパートリーの多さをいえばとても人工的な演出などかなわないなと感じます。
こういう状況を思うと、情報化社会だ、情報技術だとかいいますけど、ほんとの意味で情報について考えてますか?って首をひねりたくなる。この感覚はここ3、4年、ずっと持ち続けてる感覚です。もうすこし情報というものをよーく考えることがあってよいかなと。
古典的自然科学の時代には、生物学は古くさい見方を抱え込んだ、「まだ完全に自然科学にはなっていない」分野と見なされてきた。その古くさい見方とは、じつは情報系としての見方だった。養老孟司『人間科学』
このあたりは三中信宏さんの『系統樹思考の世界』あたりとあわせて考えるとよいかなと思います。
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この記事へのコメント
夢蜻蛉
情報は確かに増え、選択肢は増えたかのように思えますが、反面、それを扱う側にあったもの。それが松岡さんの言う「編集」なのか、それともクリステヴァやロラン・バルトなどの言う「間テクスト性」なのか、あるいはまた別のものなのか、とにかく「ああこれだ」と思う心や、「ああすごい」と思う感覚が、供給過多気な情報の群れに削られてなくなっていく。そんな感じです。よくないと思うことが多い。でも完全に否定はできない。情報の多さは創造力の源泉でもありますし、とりあえず、何も生み出さなくても「そこにあるだけで意味のある言葉」というものの存在を認めてほしいなぁ。そういうものでしょ、時代を超えて受け継がれていくものは
tanahashi
よくないところを指摘して、よくないところからの影響が出ないよう、うまくそのへんを排除できれば十分かと。
それは逆に手放しの賞賛にもいえるかもしれませんね。
完全否定と全肯定ってある意味おなじものですね。