本来、経営学は経営の現場とつながる必然性はない。土着と関係がない、輸入された教養だからです。無駄でした僕がやってきたことは。
経営学という学問に関しては門外漢なので、フィールドワークと経営学の関係がどう捉えられているか正直わかりません。でも、土着うんぬんと輸入された学問だからというのは正直関係ないかと。
そもそもフィールドワークを主に用いる民族学にせよ社会学にせよ「輸入された学問」じゃないと明確にそれを否定することはできないと思いますし、それどころかいまの日本の学問で輸入されてない学問なんてそうないんじゃないかと思うんです。
また、フィールドワークの手法そのものにしても土着を調べるのは民族学・人類学ではそうであっても、社会学となると必ずしも土着のものを調べるわけじゃありません。たとえば病院のフィールドワークなんかだと病気という状況でたまたま集まった人たちの行動や生活などを調べることになると思いますので、それは必ずしも土着にはならないと思います。
その両方の意味で、土着うんぬんと輸入された学問だからというのは関係ないと思うんですね。
だから、むしろ経営学におけるフィールドワークの有効性を問うなら、もうすこし純粋に経営学という学問とフィールドワークという手法の組み合わせそのものを検討すべきではないかと感じます。
理論を前進するためのツールとしてのフィールドワーク
先のエントリーで「輸入学問である経営学は、現実との整合性を必要としない。むしろ整合させようとする努力は不毛である」とか「経営学では現場を観察することはマイナスに評価されます」とか書いていらっしゃいますが、その「現実」とか「現場」というのはどこのことなのかなと。モノの使用の現場の観察&インタビューからデザインを考える仕事をしている僕からするとまずそこに疑問を感じます。果たしてそれは本当にいまやろうとしている経営学にとっての「現場」なのでしょうか?という意味で。
フィールドワークという手法は民俗学や社会学、あるいは僕がやってるユーザー中心のデザインにおいては、学問上やデザイン上の仮説やヴィジョンをもったうえで、その仮説やヴィジョンにとっての現場・現実を対象に調査を行う方法です。
三宅さんが挙げてらっしゃる「見市さんはフィールドで得た知見をイスラーム研究の蓄積の文脈とちゃんと照らし合わせて理論を前進されている」というお話も「研究の蓄積の文脈」があってそのうえでフィールドワークがなされているから意味があるのであって、「ちゃんと照らし合わせて理論を前進されている」というところに感心するのはおかしいんですね。むしろ「ちゃんと照らし合わせて理論を前進」させるという明確な意思がなければ、フィールドワークをやっても無駄なのはとうぜんな気がします。あくまで理論を前進するためのツールとしてフィールドワークはあるはずです。
それは「ただユーザーを観察すればよいってわけじゃない。」にも書いたとおりです。
わかりたいことがなければ現場に行ったって何もみえるわけがない
また、そのことはロバート・エマーソンらによる『方法としてのフィールドノート―現地取材から物語作成まで』にも記されていて、フィールドワークの結果を記述するフィールドノート自体、解釈を含むものであることが主張されています。エスノグラファーは、フィールドノーツを書く作業を通して、単に出来事を文字の形に加工しているのではない。むしろ、その作業は、本質的に解釈的なプロセスを含む。ロバート・エマーソン他『方法としてのフィールドノート―現地取材から物語作成まで』
ここで解釈が可能なのは、はじめに理論の仮説なりをもったうえで、現場に臨んでいるからです。決してフィールドワークという手法は現場にいけば何かわかるというニュートラルな姿勢で臨むわけではないのですね。
何かを知りたい、明確にしたいという意思があってはじめてフィールドワークは可能だし、その結果、現場の行動を解釈することが可能になる。人はわかることしかわからないのだから、わかりたいことがなければ現場に行ったって何もみえるわけがないんです。
あと調査の数をこなすことが評価されるうんぬんの話も書かれていますが、それも別に経営学に限った話ではありません。定性的調査をしているのにそこで定量的な視点を持ち込む人がいるなんてのは、それこそどこにだってある話です。
僕がふだん仕事をしていたってそうですし、社会学でのそうした事例も好井裕明さんが書かれた『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』などを読めばいくつも紹介されています。数字でボリュームさえわかれば正しい判断ができると安易に考える人が多いんですね。ただ、それは数字だとわかった気になりやすいるだけで数字では測れないものがあることを見落としています。
ドラッカーも言っていますが、数字があるのはすべて過去のことです。そういうドラッカー自身、企業組織のフィールドワークをしながらマネジメント論を書いた人ですよね。
フィールドワークする目的は?
とにかく僕がこのエントリーを読んで違和感を感じたのは、大学という場で学問をやってる人がこういうことをブログで書いちゃうと、読んだ人が萎えるよなーと感じたからです。はてブのコメントでも「この人は何のために経営学をやっていたのだろうか。(中略)社会の学者への信頼度がまた下がる。」というものがありましたが、読んだ人がこう感じてしまう感覚は僕にもなんとなくわかります。
僕だってときどき自分のやってきたことっていったい何だったんだろうと愚痴りたくなることはありますが、それをこういう風に学問そのものを否定するような形で書いちゃうと身も蓋もなくなってしまいます。
経営学は素人ながら、フィールドワークという手法から想像するに、おそらく本来的な問題は、
- 経営学における現場・現実はどこなのか?
- どんな仮説・ヴィジョンを明確にするためにフィールドワークという手法を用いるのか?
ということだと思うんです。
確かにこの観点が抜けていると「現場を観察することはマイナスに評価」されるでしょう。ただ、それは経営学に限ったことじゃなくて、そんなフィールドワークならどんな分野でだって「現場を観察することはマイナスに評価」されます。
そんなの当たり前ですよね。目的も不明確なまま、ただ知ってる手法を使って調査しましたなんていっても結果が出るわけないんですから。
経営学にとっての現場はどこか?
このエントリーを読んでいて感じたのは、はたして経営学にとっての現場って、いわゆるビジネスの現場を指すのだろうか?ということです。僕はもしかしたらそこに誤解があるのかなとも思ったりもしました。
ここは素人なので、間違ってるかもしれませんが、ビジネスの現場で行われてることだけが経営の現場ではないんじゃないかと思います。組織の中をマネジメントするのが経営じゃないと思うから。市場における競合関係やら、技術動向や法規制の変化などを含むマクロ環境の動向など、すべて含めて経営にとっては現場のような気がします。だとしたら全体のごく一部にすぎないいわゆる一般的にビジネスで用いられる「現場」をフィールドワークしても確かによほど調査の前にしっかりとした仮説・ヴィジョンをもたなければ調査で得られることは少ないだろうなという気がします。
うまくいかない方法を一万通り発見しただけだ
結局、フィールドワークなんてただの思考のツールにすぎないのですから、馬鹿と鋏は使いようで、正しい使い方をするかどうかで効果があったりなかったりするのは当然かなと。そこであまりにも「無駄だった」という言葉を連呼してしまうのは、いっしょにやってきた人たちや学生などのことを考えると、ちょっとどうかなと思いました。
僕は人がやってきたことで無駄なことなんてないんじゃないかなと思うんですよね。
「失敗ではない。うまくいかない方法を一万通り発見しただけだ」 by エジソン ですよ。
なんか気持ちは非常にわかる気がするだけに、がんばってください!です。
関連エントリー
- ユーザー中心のデザインの最初には明確な哲学・ヴィジョンが必要であるという意味
- 発見のないユーザー調査ってありませんね
- ただユーザーを観察すればよいってわけじゃない。
- なんでもかんでもユーザーに聞けばよいってわけじゃない。
- 「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス/好井裕明
この記事へのコメント
福耳
tanahashi
そう見えたのは、あまりに「無駄」を連呼されていたからです。はじめから「曖昧」だったというよりご自身で「曖昧に感じられたのかな」と傍から見ると思えたのです。
基本的には、僕にとっては、フィールドワークを他人が有効に使うおうとそうでなかろうと関係のない問題です。
ただ、ご自身がいままでなされてきたことを「無駄」と書かれていたことに対して何か書きたいなと思った次第です。
いっしょにやってきたかたもたくさんいらっしゃるでしょうから、ご自身だけが「無駄」といえばいい問題ではないような気もしましたので。
福耳
tanahashi
じゃあ、そうやって大学組織の内部からだけ見ていてください。それとできれば、そういうことは外部に出さないでください。それにここも外部だから何も書かないでください。
外部の僕ももう関わりませんから。
失礼しました。
石橋秀仁
経営企画室や社長室は「現場」ではない?お客様がいるところが現場?だとしたら生産現場の向上なんて「現場」じゃないでしょう、と。つまり「現場」でない場所など、ないのだと。
「おれは現場主義だ」という人は、「見た物しか信じない」という「知的怠慢主義」だと。
これには非常に納得した覚えがあります。
『部下は育てるな!取り替えろ!』より
福耳
tanahashi
>つまり「現場」でない場所など、ないのだと。
確かにそのとおりですが、一方で何かものを考えるという際には、どこかに焦点を定めて、ものを見る必要があるのだと思います。
ある観点(これがヴィジョンだったり仮説だったりするわけですが)で、それに対応した場所にフォーカスしないと何もわかりません。
知るということは、他方で他の事柄を見えなくすることでもありますから、覚悟をきめてフォーカスを絞る必要があるのだと思います。
門外漢ではありますが、そこに経営そのものと経営学の違いがあって、むずかしいところなんだろうと想像します。
これは経営/経営学に限らず、実践と学問のあいだに必ず横たわるものだと思いますから、両者がたがいに配慮しないと前向きな会話が成り立たないところだろうと感じるところです。
はしもと
そう思ってもやっぱり現場に見たいものを見出したときにはうれしいのだと思います。
そこから一歩論を進められそうな気がするというか、そんな感じです。
小生、一応コンサルタントの端くれです。
『現地現物』よりも『原理原則』を大事にしています。
でも、現場にはそれなりに学ぶところが多いと思っています。
ま、私の言う『現場』は『現場マネジャー』どまりですけど。
そこが自分の勝負する場所だと思ってますので。
tanahashi
>「自分は自分の見たいものを見ているにすぎない」という自覚を持って、見たいものを見に現場に行けばいいのではないでしょうか?
はい。そのとおりだと思います。
僕も数日前に「発見のないユーザー調査ってありませんね(http://gitanez.seesaa.net/article/90272970.html)」なんてエントリーを書いてるくらいで、その考えには共感します。
でも、ビジネスでやってる我々と、学問として体系化が求められる場合では事情も違うんだと思われます。
また、そこには別の苦労があるんじゃないかと。