京都の意匠&京都の意匠Ⅱ/吉岡幸雄+喜多章

『京都の意匠―伝統のインテリア・デザイン』と『京都の意匠Ⅱ―街と建築の和風デザイン』を読みました。

ここに収められたものは、京都に生まれ育った私の、50年余りにわたる「眼」の記憶である。
京都の街を遊行していて、印象にのこったさまざまな意匠を拾い集めたものである。
著:吉岡幸雄、写真:喜多章『京都の意匠―伝統のインテリア・デザイン』

と語る京都在住の吉岡幸雄さんが「建築空間を写して今や第一人者と信じる写真家、喜多章氏と5年間にわたって京の街を行脚し、カメラに納めてもらったこの写真」とともに、京都の意匠を自身の体験などを交えて紹介する素敵な本です。

そのサブタイトルどおり『京都の意匠―伝統のインテリア・デザイン』では玄関・窓・引手・釘隠し・欄間などの住宅建築の室内の意匠を中心に、『京都の意匠Ⅱ―街と建築の和風デザイン』では門・塀・垣・屋根・看板・暖簾・路地などの外部空間に面した意匠を中心に扱っています。

古い町屋や文人宅、寺社建築などの意匠を紹介した写真や文章は、これまで読んだ『ふすま―文化のランドスケープ』『庭と日本人』『茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン』などで言葉を中心に想像してきた世界が具体的に展開されていて、非常に興味深く写真をのぞきこんだりしてしまいました。

意匠が含む情報量の多さ

喜多章さんによる写真を見ていて、とにかく感じるのは、その意匠が含む情報量の多さです。現代のデザイン・プロダクトを撮影した写真からは決して感じとることのない情報量が、一見シンプルに思える侘びた建築の意匠からもみることができます。

白い和紙の障子に竹に蔓をからませて格子に組んだ視覚や円形の窓、紙に映る陽の光や木の葉の陰影、夏座敷の簾越しにみえる庭の緑、煤で焚口が黒くなった台所のかまど、苔むした坪庭、ずっしりとした動感のある古寺の門柱と礎石、庭とその向こうの山並みの景色をつないだ生垣など。自然の圧倒的な情報量をその意匠に組み入れたデザインがみせる表情はどれも圧倒的に現代の多くの製品デザインがみせる無機質な表情とは、そこから読みとることのできる情報量に圧倒的な差があります。

『デザイン言語2.0 ―インタラクションの思考法』という本のなかで原研哉さんがバリ島の古いホテルに滞在されたとき、敷き詰められていた古い石畳のうえを裸足で歩いた際に感じた、人が歩いて磨り減った石畳のデリケートな感触、そして、そのデリケートさを「すごく情報量が多い」と思うと同時に「もしこの情報をすべて自分のパソコンに取り込んだら、すぐフリーズを起こしてしまうだろう」と感じたという経験をつづっていますが、まさにこの本で紹介される意匠にもおなじことを感じます。

長く使いたいと思わせる意匠の繊細さ

そうした豊かな情報量をもった写真とともに吉岡さんの綴る文章を読んでいると、いまの無機質なデザインがなんともみすぼらしく感じられてきてしまいます。手元にあるどんな製品を手にするよりも、いまは花も散って若葉が芽を出し始めたばかりの小さな梅の盆栽2つの日々の成長を眺めていたほうがよっぽど豊かさが感じられます。

何より梅の木を触るときと携帯電話を触るときでは、まったくものを扱う際のていねいさが違ってきます。それは相手が生きた梅の木だからということだけではなく、たとえば昨日、表参道ヒルズの粋更というお店で買った天然の竹を軸に使い、筆職人による手造り毛筆の穂先がついた筆ペンを使う際の手つきも梅の木に触れるときに近かったりします。
これはもうデザインが感じさせるものの扱い方をアフォードする感覚がまったく違うのだろうと思わざるをえません。壊れやすそうなものは大事に扱おうと思えるのでしょう。また壊れやすく思えるもののほうが大切に扱い、長くそばに置きたいと思わせるのかもしれません。
昔ながらの日本の意匠には情報量の多さと同時に、長く使いたいと思わせる意匠の繊細さがあるのかもしれません。

そうだ 京都、行こう。

さて、この本を買おうと思ったのは、そもそも『庭と日本人』を読んで、「そうだ 京都、行こう。」に行こうと思ったのがきっかけです。すでに4月頭に京都に行く予定を組んでいますが、その前にみたいものを吟味しておこうかなと思ってこの本を買ってみたんです。

『庭と日本人』を読んだ際にも行きたい所がいくつかできてしまったのですが、この本を読んだらさらにその候補が増えました。ちょっとこれはちゃんと計画たててまわるようにしないと、のんびりするひまがなくなっちゃうなと。

ヨーロッパからガラスが導入され、日本の家屋の窓に取り付けられるようになって、窓は大きく変貌した。光は十分に通し、風や雨は完璧なまでに防ぎ、室内の温度の調整もそれまでと比較にならないほど楽になった。(中略)人は自然の厳しさからは完全というほど逃れられて、快適な住まいが保証されるようになった。だがその分、平安朝の人のように季節の移り変わりには敏感になっていないだろう。いとしい人の住まいを訪ねて、そのなりわいを垣間見る楽しさも失い、茶室に招かれて和紙を通して入ってくる柔らかな光と採光の仕組に感心することもなくなってしまったのではないだろうか。
著:吉岡幸雄、写真:喜多章『京都の意匠―伝統のインテリア・デザイン』

せめて束の間でも失われた敏感さを取り戻せたら。そして、それがいまの生活にフィードバックできたら。そんなことを考えつつ、京都旅行の日を楽しみにしています。

 



この記事へのコメント

この記事へのトラックバック