ユーザー中心のデザインの最初には明確な哲学・ヴィジョンが必要であるという意味

興味深い疑問なので反応しておきます。

が、ここで分からないのが「豊かさ」ということはどういう基準によって計られるかということだ。もちろん、「楽しい」ということの基準も不確かであるが、直感的には感じ取れる。が、自分が豊かであると感じるのはどういう瞬間であるのだろうか。

まず、ここで書かれている<「豊かさ」ということはどういう基準によって計られるか>という疑問自体が非常に「近代」的だという気がしています。僕が最近使っている言葉でいえば「ユニバーサル」なもの、「普遍的な」規格を想定してしまいすぎる病にかかってしまっているのだと思います。

近代が目指した一元的な規格化

近代の取り組みは良くも悪くも、

ドイツで1920年代に登場した機能主義の建築とデザインは、別名「国際様式(インターナショナル・スタイル)」と呼ばれるように、歴史や文化の違いを超越した客観的「規格」であるところに、その世界的な浸透力があった。
樋田豊郎「第5章 クラフトデザイン」
柏木博編・著『近代デザイン史』

というところに主眼があった。<歴史や文化の違いを超越した客観的「規格」>化を行うところですね。
そして、この背景には「近代デザイン史/柏木博編・著」で挙げたように、<誰もが他からの強制(力)を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができる>ということを実現しようというヴィジョンがありました。それゆえに一元的に規格化された生活の「豊かさ」のようなものも当たり前に想定されるようになっていると思います。

みんなのサービスと国家

とうぜん、この近代デザインの思想は、自由・平等・博愛が目指された近代主義の理念から強く影響を受けています。しかし、それは一方で松岡正剛さんが『誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義』で詳細に紹介してくれているように、近代の帝国主義、植民地主義とも連動しています。

国鉄や電話事業や郵便事業が民営化されても「みんな」は困らないのに(あるいは困らないというふうに見えるのに)、なぜ警察や裁判を民営化すると、困る人が出てくるのでしょうか。
松岡正剛『誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義』

企業のように契約した「みんなの一部」にしかサービス提供できない組織が警察サービス、裁判サービスを担ってしまっては、そのサービスを受けられない人が困ります。だから、警察や裁判などのサービスは等しく「みんな」がサービスを受けられるようにサービスの担い手として「国家」が存在しています。日本人なら日本という「国家」から警察や裁判というサービスが受けられるように。かつては国鉄や電話事業や郵便事業なども「みんな」が受けられるサービスにするには「国家」が必要だったということでしょう。そういうデザインにしてサービスの利用できる範囲を確保して生活の豊かさを確保しようとした。もちろん、その際には国鉄や電話事業や郵便事業、そして、警察や裁判といったサービスを受けられることそのものが生活の豊かさそのものだったのでしょう。すくなくともそういうヴィジョンが働いていたはずです。

しかし、そうした国家を確立するには、同時に帝国主義が必要だった。そのことを歴史を紐解きながら示しているのが松岡正剛さんの『誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義』という本です。ここでは詳しく説明しきれませんので、興味のある方は読んでみてください。

規格化を必要とする気分だけが残った

しかし、そうした流れに待ったがかかったおが1960年代です。それは単に近代デザインに批判が噴き出したというより、近代文化を担っていたアメリカがベトナム戦争を体験したことで近代そのものを批判的にみるカウンター・カルチャーが生まれ、それと連動するように近代デザインへの批判が噴出したという流れを柏木博さんが『20世紀はどのようにデザインされたか』で紹介してくれています。

この戦後モダニズムは、60年代末のカウンター・カルチャー(対抗文化)の運動によって批判にさらされることになる。そして、そのモダニズム批判は、1970年代末には形を変えてポスト・モダンといういささかジャーナリスティックな呼ばれ方をするデザインへとつながっていった。
柏木博『20世紀はどのようにデザインされたか』

このあたりは「ライフスタイルの提案力をなくしたデザイン」や「近代デザイン史/柏木博編・著」でも書いたので割愛するとして、問題はポストモダンによるモダンデザイン批判の結果はただ単純に近代のヴィジョンがすべてを相対化する過剰な情報によって無効化されただけで代わりに別のヴィジョンが提案されないまま、規格化を必要とする気分が蔓延するなか、それを満たす新しい規格化はいつまで経っても生まれないという妙な状況だけが生まれてしまっているということではないかと思います。

ユーザー中心のデザインの最初には明確な哲学・ヴィジョンが必要であるという意味

そういう状況のなか、<「豊かさ」ということはどういう基準によって計られるか>という問いを立ててしまうと近代デザインが犯してしまったのとおなじ過ちをただ繰り返してしまうことにしかならないかなと思っています。

生活文化の豊かさというとき、それは相対化がネガティブに作用しない配慮をしつつ、ユニバーサルに丸めこまれないローカルな豊かさの基準を多神教的に提案していく必要があるのだと思います。

それにはただ生活文化を提案するデザインの側だけでなく、それを利用する生活者の側にもある程度の教養が求められるでしょう。ある豊かさの提案をユニバーサルな論理を必要とせず、かつ相対化の罠にはまってしまうことないようにするには、規格のような客体的な記述で保障される豊かさではなく、自身やその地域・コミュニティの歴史に裏打ちされた主観的な必然性による選択が必要になると思うからです。教養が必要というのはそういう意味でのローカルな、主観的な選択眼を維持するための教養です。

そして、デザインする側もその歴史や地域性・利用者の主観性のコンテキストを理解しつつ具体的なヴィジョンを提案する必要があるのではないか、と。このあたりまで視野に入れて、僕は人間中心設計・ユーザー中心のデザインの最初には明確な哲学・ヴィジョンがなければいけないといっています。だって、そこにヴィジョンがなければ明確な生活スタイルの提案などできるわけないんですからね。

それが「ライフスタイルの提案力をなくしたデザイン」で指摘したかったデザインによる新しい生活スタイルの提案の方法です。

単にデザインの問題ではないのですけど、でもデザイン主導というのはありかな、と

しかし、言葉にすれば簡単ですが、そのためには資本主義のグローバリゼーションにいかに対応するか、図体がでかくなりすぎた組織をいかに適切なサイズにリデザインするか、パーソナライズに偏ったものの提供の仕方をもういちどシェアが可能な単位に戻すため、どのようなコミュニティ(それは家族でもいいのだけれど)に戻すかということも同時に考えていかないと思います。

だから、これは単純にもののデザインの問題を超えています。
でも、ヴィジョンを具体的に見せるという意味ではもののデザインが主導になって進めることもできるのかなという気もしています。
かつてのGMがそれをして見せたように。

  

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