デザインとは、
- 目的性=「構想・提案」する
- 製品化=「制作・生産」する
- 社会的効果=「受容・消費」する
という無限にフィードバックされる流れを前提とする「知的もの作り」である。
単なる「もの作り」ではなく、人と人、人とモノ、モノとモノの関係性を創造的に模索すること、これこそデザインの本質としてよいだろう。橋本優子「第6章 プロダクトデザイン」
柏木博編・著『近代デザイン史』
この定義に関しては、僕としては「まぁ、そうでしょう」と非常に納得したので単なるメモとして紹介。
今日の本題は、じゃあ、現時点でデザインは「人と人、人とモノ、モノとモノの関係性」として何を「創造的に模索」して、「構想・提案」して「制作・生産」して「受容・消費」を促していくことが必要なのかということを考えないといけないかなということです。
うわっつらのエクスペリエンスより、生活文化のアップデートを
というのも「近代デザイン史/柏木博編・著」で紹介したとおり、「誰もが他からの強制(力)を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができるのだという前提を条件のひとつにして」「理想的生活や環境へのプロジェクトとしてあった」近代デザインという大きなプロジェクトは、「今日ではほとんど忘れられている」状況で、もはや何のライフスタイルの提案も生活環境の提案も行われることのない状況になっているわけです。エクスペリエンスだとか経験だとかいいますが、それもほとんどマーケティングのお題目で、そのきめ細かなエクスペリエンスなり経験なりが僕には決して生活を豊かにしてくれたり楽しませてくれたりするようなものには思えません。
『なぜデザインなのか。』で/原研哉さんが言っているように、
原 マーケティングによってニーズを、つまり甘やかされただらしない欲望を掘り起こして、ほしいものを与えていくことによって生まれる文化よりも、デザインによって覚醒されていく生活の方が、確実に社会を豊かにしていく
んじゃないかと思います。それは阿部雅世さんのこんな発言にもつながっていく。
阿部 もちろん企業からの依頼ならば、その企業の利益になるようには、当然デザインします。でもそれによって最終的に自分たちの生活文化のアップデートにならなければ、本当のデザインにはならないのではないか。
いまデザインが「創造的に模索」するべきことは、この「自分たちの生活文化のアップデート」につながるライフスタイルの提案なんじゃないかなと思います。
うわっつらのエクスペリエンスにはあんまり興味がもてません。阿部雅世さんの発言にもありますが、そんなことは「趣味として休日に地下室でやれ、と言いたい(笑)」。いや、でも逆の意味では休日にやる地下室でのものづくりをサポートするデザイン提案があったらそれはそれで生活文化のアップデートかななんて思います。手作業の楽しさ、趣味を増やす提案っていうのはなかなかいいかなと。
50年代のGMによる生活スタイル提案
生活様式の提案ということで、柏木博さんの別の本『20世紀はどのようにデザインされたか』で、興味深い話が紹介されていたのでこれも引用しておきましょう。電子的に制御される全自動キッチンやハイウエイを走る全自動自動車ファイアーバードのイメージを、アメリカのあるべき未来生活として描いた『デザイニング・フォー・ドリーム』というスポンサード・フィルムが会場で流された。このフィルムでは、キッチンでこぎれいなドレスを着た主婦が仕事をしたり、夫婦でファイアーバードに乗ってドライブするシーンなどが描かれている。その生活様式のイメージこそ、50年代半ばから60年代半ばにかけてのテレビに出現してきたホームドラマの原型になっているように思える。柏木博『20世紀はどのようにデザインされたか』
この話は1956年にGMが開催した自動車ショー「モートラマ」について記したものです。GMはこのようなモーターショーを毎年開催し、クルマだけではなく、消費社会の生活スタイルを前述の『デザイニング・フォー・ドリーム』のような形で演出・提案してみせていたそうです。そのショーは「ホームドラマの原型」になるくらい影響力をもち、そして、ホームドラマの影響力をもって、そこで提案された生活スタイルがアメリカの、しいては、世界の近代の生活スタイルの原型をつくりあげていったといえるのではないかと柏木さんは考察しています。
中身はともかくこのライフスタイル提案力はいまのデザインに関わる人々も見習ったほうがいいのではないかと思います。
デザインがもう一度生活スタイルの提案力をもつには?
近代デザインは技術主導で、あまりにユニバーサルなデザインを目指しすぎたゆえに批判を浴び、その効力を60年代以降失っていったわけですが、いまの形骸化したデザインに比べれば、問題はあったとはいえ、はるかに人間、ユーザーの生活を考慮したデザインであったのではないかと感じます。むしろ、人間中心設計、ユーザー中心のデザインなんてことが叫ばれはじめたのは求心力を失い、生活様式の提案力を失ったデザインがうわっつらの使いやすさや効率化を目指さざるをえない状況で注目されたのではないかと疑いたくもなります。
特にこういう世界を実現したいという明確なビジョンもないまま、ただひたらすらテクノロジードリブンで行われるデザインに、形式的にHCDプロセスを取り込んでもあまり意味はないと思うんです。もちろん、ある範囲で使いやすくなったり、ユーザーのニーズを満たしたりということはあるでしょうけど、ただそれだけ。それじゃあ、確かにそんだけのコストと時間をかける必要があるのかと経営陣にしてみればいいたくもなりますよね。やっぱりいまのデザインの問題はライフスタイルの明確なビジョンをデザインに関わる人たちがもちえないことではないでしょうか。
デザインがもう一度生活スタイルの提案力をもつにはいったいどうしたらいいんでしょうね。
人がモノを使うことによって、さらに何かが起こる
ここで再び『近代デザイン史』のなかの橋本優子さんの引用に戻りましょう。デザイン・プロダクトは、冒頭に記した流れ
- 人が何かを実現するために
- モノを作る
- 人がモノを使うことによって、さらに何かが起こる
を踏まえて生み出されるアート(芸術)とテクノロジー(技術)の所産である。橋本優子「第6章 プロダクトデザイン」
柏木博編・著『近代デザイン史』
「人がモノを使うことによって、さらに何かが起こる」ことをいまのデザイン・プロダクトは踏まえているのでしょうか?
商業化に終始しすぎていて、モノを作ることで起こる何かといえば、企業の売上が良かったとか良くなかったとかいうくらい。人々の生活にはちっとも「何かが起こる」ことはなかったりするのでは?
あなたがデザインによって手にしたいのは、会社の利益? それとも、人々の生活を豊かにすること?
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