客商売でありながら「自分たちがつくりたいものをつくる」というのは、素人が好き勝手に「つくりたいものをつくる」というのとは違います。普通に客商売のなかでデザインしている人はむしろなかなか「自分たちがつくりたいものをつくる」ことができずにもやもやしているほうが多いと思うんです。
客がこうつくってほしいと言ってるのをくつがえして、このほうが最適ですよと説得して、自分たちがつくりたいものをつくるのだから、「無意識にそうなっている」なんてことはほとんどありえません。ありえるとしたら、客の言ってることを理解できずに強引につくってしまう場合くらいでしょうか。
また、そもそも「無意識にそうなっている」という状態では、「自分たちがつくりたいもの」が当の自分自身でわかっていない=意識されていない状態にあるわけです。それじゃあ、とてもじゃないですが本当の意味で「自分たちがつくりたいものをつくっている」とはいえません。無意識にそうなってることを自分の○○したいという意思と混同してしまうのは、素人の考えです。
「自分たちがつくりたいものをつくる」というのは、結果論じゃなくて明確な意思なんですよね。
自分たちが何をつくってるか、そして、つくったものがどう使われるか、どんな結果を生み出すかを明確に理解できていないまま、何かをつくったところで、それが果たしてどれだけ「自分たちがつくりたいもの」だったといえるのでしょうかということです。「無意識にそうなる」なんて状態に、作り手の意思や著作性がどれだけあるのでしょうか?ということです。
客は問題を知っている、作り手は問題の解き方を知っている
「客のつくりたいものじゃなく、自分たちがつくりたいものをつくる」ということが意味しているのは、つくる前に自分が顧客の要望に対してその解決策として何をつくるべきか見えているかどうかということです。それにはクライアントの抱える問題がどういうものかが理解できていなくてはいけない。理解できたうえでその問題の解決策を自分たち自身が意識できていなくてはいけない。「客のつくりたいものじゃなく、自分たちがつくりたいものをつくる」ということは、客の問題・要望を聞かずにつくるなんてことではありません。単に解決策を著作するのはあくまでプロである作り手だろうということです。
つまり、こういうこと。
- クライアント:自分たちのビジネス問題を知っている
- ユーザー:自分たちの生活のなかの問題を知っている
- 作り手:問題を解く方法(デザインの方法)を知っている
客は問題を知っていて、作り手は問題の解き方を知っている。もちろん、作り手が問題の解き方すべてを知っているわけではないように、客の側だって自分たちの問題に完全に気づいているわけではないということはあります。でも、基本的には作り手よりは客は自分たちの問題を知っているはずだし、客よりは作り手の方が解決のための手法を熟知していることが多いと思います。その意味で、客は問題を知っていて、作り手は問題の解き方を知っている、ということができると思います。
このどちらも片方だけじゃ機能しない状況をどう両者(あるいは3者)で足りない部分を補完しあいつつ、解決策を実現するかが問題なんですね。
クライアントの要望を理解する方法が打ち合わせなどでのヒアリングなら、ユーザーの要望を理解するのがユーザー中心のデザインの手法です。いずれにせよ、その双方の要望を理解した上で、それを実現する手段はデザインするプロが具体的なデザイン案として提示することには変わりありません。
自信があれば他人の意見に耳を傾けることもむずかしくないはず
だから「自分たちがつくりたいものをつくる」というのは、客の意見など聞かずに自分たちが勝手につくりたいものをつくるなどという素人考えとは別物です。客の問題がどんなものであろうとそれを受け止めたうえでそれを解決するための提案はプロである自分たちなら余裕でできるという自信の裏返しですらあります。ものづくりに限らず、他人の意見や考えを聞けないのは結局、自分に自信がなかったりするときじゃないですか。「自分の視野を広げるためにも他人の意見には耳を傾けなきゃ」で書いたことにも通じますが、「自分たちがつくりたいもの」の形をより明確に見えるようにするためには、むしろ、積極的にクライアントの抱える問題に耳を傾けたほうがいい。問題が見えれば解き方だってよりはっきりと見えてくるはずです。
その意味でも「自分たちがつくりたいものをつくる」というのは、相手の話をすべて受け止めたうえで「自分たちがつくりたいものをつくれる」という自信がなければできないことだと思います。それは「無意識にそうなる」なんてこととは正反対に、あらゆるディテールまでがつくる前から意識されていて、どのディテールをいじるとどうなるかが見えている状態を指します。
問題さえわかれば、問題の解き方は知っているという自信があればこそ、自分たちに唯一欠けた情報である「問題は何か?」という点について、クライアントの話に耳を傾けることができるのではないでしょうか。それこそがものづくりのプロ、あるいはデザインのプロの仕事でしょう。
無意識でできたものは果たして自分の作品と呼べるのか
結局、無意識なんてしょせん自分のものじゃない。意識できないものは自分のものなんていえないはずです。僕らは残念ながら自分自身の身体すら自分でコントロールできません。風邪をひいたり病気をすれば自分の身体じゃないみたいな状態になります。自分の意識が届かない部分がある。無意識というのはそのひとつです。それを自分のものと言い切るのには無理があります。自分のものといえるものには、せめて自分の意思を込めてもらいたいという気がするのです。
その意味で「無意識にそうなる」なんてことに、僕は作り手の意思を感じません。すくなくともデザインを感じない。
なんだか土をこねくり回してたら作品らしきものができて、それが気に入りましたというのと、デザインすることとは別物でしょう。正確な問題の認識、それに対応した解決策の意図的な選択の両方があってこそ、デザインです。
もちろん、クライアントとのコミュニケーションも必要
もうひとつ。最初にも書いたとおり、クライアントがこうつくりたいという案を提示してきている以上、それを曲げてもらって自分たちがつくりたいものをつくるには、別のものをつくりたいと考えているクライアントを説得する必要があります。自分たちが提案しているものをつくったほうが問題解決につながるのだということを納得してもらうためのコミュニケーションが必要です。ここでは単にいいものをつくるということとはまた別の力が必要になってきます。熱意と論理的な説明の両方が必要です。
デザインする側はプロのはずだから簡単にわかることでも、デザインを依頼する側は必ずしも問題解決のプロではありませんから、その人たちにも納得できるような説明がいります。信頼してもらうためには熱意や実績、人間性を伝えるということもあったほうがいいでしょう。
ここは自分は技術者だから寡黙でいいなんて考えてちゃいけません。わかりやすい説明自体は得意な人にフォローしてもらうにしても、肝心なところでは自分の言葉でしっかりと考えを述べる姿勢が大事です。ここは逃げちゃだめなところ。ここを逃げずに踏ん張れるかどうかで、自分たちがつくりたいものを気持ちよくつくれるかどうかが決まってきますから。
とにかく「自分たちがつくりたいものをつくる」なんてことは口で言うほど、本当は簡単でもなんでもないということです。
よっぽど誰かがこうつくってほしいといったものをつくってるほうがラクなはずです。
だからこそ、「自分たちがつくりたいものをつくる」ことができる人はかっこいいなと感じるわけです。
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