玩物草子―スプーンから薪ストーブまで、心地良いデザインに囲まれた暮らし/柏木博

近代のデザインを中心にデザイン史を研究している柏木博さんの『玩物草子―スプーンから薪ストーブまで、心地良いデザインに囲まれた暮らし』を読んでいると、結局、デザインの仕事にかかわっている人というのは、モノが好きな人なんだろうなと感じます。

敬意をふくんだ愛情をモノに対してもてるほど、デザインの仕事が好きになるのではないか、と。

気に入ったものを購入したら、それを手入れすることも楽しいものです。道具は、それを用いたらもとの位置に戻したり手入れしたりすることもふくめて、すべてが使う行為なのです。
柏木博『玩物草子』

「モノが好き」というのは、クルマとかデジタル家電(デジもの)とか、そういう特定のモノが好きというのとはちょっと違う気がしています。

機能主義:ものではなく記号をみる

もしかすると、そういう特定のものが好きなのは、昨日のエントリー「ユニバーサル・デザイン批判」とつなげると、モノの機能が好きということになるのかもしれません。こう書くと、機能だけが好きなわけじゃないと反発されそうですが、それ以外にもこだわりがあってもやっぱり機能があってこそ他の部分も好きになっているんじゃないでしょうか。

だから、そういう人にとってはスーツにケータイが入らないからといって「服の世界にはデザイナーが不在である」という話になったりします。ある意味、モノを機能的にカテゴリー化したうえで、そのカテゴリーに対して好きといっているように感じられるんですね。
そういう人の見方には、ものそのものではなく、ある機能をもったものという記号をみているような印象を僕などはもってしまいます。

生活主義:ものを通じて暮らしを考える

しかし、柏木さんなんかのモノ好き具合をみていると、それとはちょっと違うという気がするのです。実際、柏木さんが好きで大事にしているものは特定のカテゴリーにおさまっていません。

庭の雪桜の鉢、風雨に洗われた寺の鬼板、韓国製の収納家具、ジオ・ポンティのスーパー・レジェーラやバーナード・リーチ、ポール・ケアホルムなどのモダン・デザインの椅子、包丁やナイフの類、薪ストーブとそれに使う薪、文鎮がわりにしている拾ってきた石や木の枝、サンパウロの泥人形、スタッキング可能な銘々膳など。

平地勲さんの写真でみる柏木さんの家のものものは、こうやって言葉にするとバラバラに思えますが、みると非常に統一感があるように感じられ、柏木さんの文章を読みながらみると、とてもそれぞれが大事にされているのだなという印象を受けます。どれもが柏木さんの暮らしに密着しているように感じます。そして、それらのものが柏木さんの暮らしを形作っているのだろうなと思えるのです。

自分で手にしたものには、自分の記憶や家族の記憶が宿ります。そうした記憶をぞんざいに扱うことには、吹きすさぶような空虚感を感じます。暮らしをつくることには、いつもものがともないます。ものは、わたしたちの暮らしをつくり、わたしたちの記憶つまり歴史と深くかかわっています。
柏木博『玩物草子』


薪ストーブ用の薪をつくる

暮らしをつくることには、いつもものがともなう。
ものは、わたしたちの暮らしをつくり、わたしたちの記憶つまり歴史と深くかかわっている。

ものと自分の暮らしの関係性をそのように捉える柏木さんは、生活を心地よくする作業としての家事が好きだといいます。その家事のなかには、家事と呼ぶには大変すぎる作業も含まれています。
17年間、薪ストーブを使っているそうですが、その薪は買うと一把700円から750円で、1日五把から十把もするそうなので、いらなくなった木を薪にするしているそうです。山のなかで最大直径30センチある木をチェーンソーで切り倒し、それを適度な長さに切って、2年ほど庭で乾燥させて使うこともあるそうです。

そうした作業もふくめて、柏木さんは「家事は楽しい」というのです。

部屋の中のものを整理整頓し、埃を払い、汚れたものは洗濯するといった家事は、心地よく暮らそうとする気持ちから出てきます。陽の光を浴びてぱりっと乾いた木綿の衣服の気持ちよさ、冬の陽の光を吸ってふくらんだ布団の心地良さ。自分の生活のそうした心地良さをつくる家事は、またとても楽しい作業でもあります。
柏木博『玩物草子』

大事なことは、自分で家事の一部として薪ストーブを使い続けることで、どの木が薪に向いているか、どの木を切るのにどの道具が適しているかといった、道具・材料・暮らしにおける目的といった関係性が自分のなかに蓄積されてくるということです。それは機械のなかの機能として用途を実現する機能を封じ込めてブラックボックスにしてしまうのとは異なる方法です。
ここに暮らしとデザインの関係性を考え直すヒントがあるように思います。

『茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン』のなかで内田繁さんが「現代は面倒を避けすぎています。面倒なことはまた、それをやると気持ちのいいことでもあります。面倒を避けると、気持ちよさも少し失います」と書いていましたが、まさに柏木さんは、その面倒だが気持のよい作業である家事を楽しんでいます。
そして、僕はそれが自分の好きなものとのかかわりかたとして、正しいありかたなんじゃないかなと感じます。そういう人につかわれるならデザインをした甲斐もあるというものです。

自分の暮らしを組み立てる

誰もが、自分の暮らしを組み立てることができる。柏木さんはそう言っています。
でも、できるという可能性の話と、それが簡単にできることかどうかというのとは別の話です。

整理整頓されている部屋、乱雑な部屋、調和のとれた部屋、質素な部屋、さまざまな部屋がそれぞれの暮らしによってつくられます。そうだとすれば、部屋に置かれた什器や飾られた花などは、そこに暮らす人や家族の姿をそれとなく映しだします。そのことに意識的であろうとなかろうと、部屋に置かれたものは、そこに暮らす人の分身のようなものだとすらいえるでしょう。
柏木博『玩物草子』

これはおそらくそのとおりなんだろうなと思うんです。よく「机のうえを整理できない人は自分の頭のなかも整理できない」みたいなことをいいますが、そんな限られた話じゃないんだと思うのです。

むしろ、自分の暮らしを構成するものを組み立てられない人は、自分の人生も組み立てられないのだというべきではないかと思うのです。

暮らしを支えるものをどう揃え、使い、手入れをし、大事に扱うのかということが、そのまま、自分の人生のデザインにつながるのではないかという気がするのです。極論すれば、自分の部屋のインテリアデザインもできない人は、心地よい人生を送ることはできないのではないか、と。w

暮らしの中のものをみることは、自身を見つめなおすことになる

なので、人生設計とかいって、ライフプランを数字のみで考えたりするじゃないですか。あれだけじゃダメなんじゃないかと思うんです。またキャリア設計みたいなものだけでもダメです。

その前に自分の暮らす部屋を組み立てることからはじめてみるということも必要なんじゃないか、と。それも買ってきて部屋に置いて終わりじゃなくて、ちゃんと整理したり手入れをしたりという家事作業をすること。料理をつくって自分の好みのお皿に飾りつけるなんてことも、自分の生き方をどうつくりあげていくかという点では必要なんじゃないかなって思います。
特に最近はそういう視点がすっぽり抜けてますから。

柏木さんは「あとがき」にこんな風に書いています。

思想家のヴァルター・ベンヤミンは、「室内」や「家具」などが、そこに生活する人々を映しだすことに、早くから注目していました。暮らしの中に集まってきたものをみることは、自身を見つめなおすことになりました。
柏木博『玩物草子』

暮らしの中のものをみることから、自身を見つめなおすという視点をもつことは今だからこそ必要なことなのではないかと思いました。

ところで、デザインにかかわる皆さん。
あなたは何をつくっていますか? 何のためにものをつくっていますか?
それは誰かの暮らしを心地よいものに変える可能性があることを想定してつくっているでしょうか?


デザインする側が自分の暮らしをろくに組み立てる力もないようだと、できたものも大したものにはならないのかもしれませんね。
機能的にはよくても、暮らしを構成する魅力は足りないのかもしれません。

最初に戻りますが、だから、敬意をふくんだ愛情をモノに対してもてるほど、デザインの仕事が好きになるのではないか、と思うんですよねー。



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