ここに至って、僕としては機能とは単独の存在として切り出して形を有するようなものではないと考えます。すべては関係によって成り立っている。それが凸的とか凹的であるとか、そういうことではなくて総体そのものが関係によって構成されている。
機能と関係性。
ここでの関係性は普遍的なものというよりも、アフォーダンスについて書かれていることからも、環境と生物がその都度織り成すコンテキスチュアルなものと考えてよいのではないかと思います。
一方の機能のほうはといえば、そのコンテキストを無視した形で普遍化を目指した機械的・記号的な動きに無理やり人びとの生活を従わせようとしてしまった感があります。なんであれ標準的な形を生み出して、それを普遍化してしまおうとしたがために、その標準にあわない人を締め出してしまうような傾向が生まれました。
なにか規格化された標準的なモノを物差しにして、「この人にはこれが大きすぎるようだからこの人は標準より小さい」だとか、「このメニューで足りないんだから、この人は大食い」とか。
近代デザインの特徴は、機能主義であると同時に、ユニバーサル・デザインです。
モダン・デザインは人びとを標準的なモデルで量ろうとしただけでなく、それ以前に各地域がそれぞれ育ててきた文化を無理やり埋め立てるようにまっさらにして、そこに画一的なデザインを持ち込みました。ユニバーサル・デザインというと現在違う意味でつかわれていますが、個々人やそれぞれの地域がもつコンテキストとしての歴史を鑑みず、ディテールの違いを捨象して、普遍化に向かった使えるモダン・デザインの理想としてユニバーサル・デザインの歩みを理解せずに、「誰もがデザイン」を目指すのは危険なのではないでしょうか。
今日はそのことについて書いてみましょう。
空間を認識的にとらえる
先のエントリーでyusukeさんは建築家の藤本荘介さんの言葉を引いています。これがまた非常に興味深かった。なにかが単独で取り出せないときには「部屋」という完結したパーツを前提とするよりも、「居場所」という、ある種あいまいで、関係性の中からしか定義できない場所がよりふさわしいのではないかと思えるのだ。
意図のない場所。それはある意味で、機能主義に真っ向から対立する。藤本荘介「Space of no Intention」
これは実際には「意図のない場所」というよりは、「居場所」としての多様性を保持した空間なんでしょうね。何度も紹介しているように、日本の昔の家屋には、現在のようなリヴィング、ダイニング、ベッドルームのような機能的な区別は存在しませんでした。
向井周太郎さんも『ふすま―文化のランドスケープ』のなかで「日本の住居の部屋は、本来機能的に固定されていませんから、可変性や転用性に富み、多くの目的に使用できます」と言っています。
可動式で、取り外しも可能な"家具"としてのふすまで区切られていたため、いつでも空間そのものの定義を変更可能でした。ほかにも屏風や暖簾などを用いて空間を自在に切り取ることもできました。内田繁さんは「日本人は空間を物理的というより認識的にとらえてきました」といっています。柱を注連縄で結ぶだけで、神の場所、神籬ができるような空間感覚です。
だから、明確に部屋自体が物理的に機能別につくられている必要はないわけです。かといって、そこには機能性がないわけではない。むしろ、人の暮らしのコンテキストに応じて、季節や行事に関する
飾りがほどこされたり、屏風やふすまがたてられたりることで、関係性のなかで機能が明示されるわけです。
記号化、一般化
もちろん、そのような認識的な空間が機能的であるためには、そこに集う人びとのあいだにある一定のルールの共有や共通意識が存在している必要があります。かんたんにいえば文化の共有でしょうか。それを研ぎ澄ませていくと、茶の湯における主客がたがいに数寄をこらしあうような一座建立となるのでしょう。ただ、これだと困る。なにが困るかって一般化できないわけです。
また、機能がモノではなく、人に依存するから、どうしてもその機能性の流通範囲が狭くなります。同時に人に依存するから、その機能性も人によって発揮される度合いが異なります。うまくできる人もいればそうでない人もでてきてしまう。仕事で考えれば非効率なわけです。
これが勢いを増していた科学的思考と結びつくわけですね。見えないものなら見えるようにして、かつパターンを抽出して抽象化してしまえ、と。余計なディテールは捨象して、無駄を省いた純度の高い状態にして、誰でもわかるように記号化してしまおう、と。それがかんたんにいってしまうと近代が目指したユニバーサル・デザインです。
家政学とバウハウス
では、それは「どのように」「何を」捨象してしまったんでしょうか?その答えはすでに「「とりあえず感覚」のデザイン」で書いています。バウハウスに見られる機能主義とアメリカの家政学の関係です。
英語では家政学を<ドメスティック・サイエンス>と呼びます。バウハウスをはじめ、同時代のドイツの建築家たちが室内を扱うのに拠り所にしたのがアメリカの家政学だったという興味深い事実があります。柏木博「未来生活を構想した家政学」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』
労働の生産性を向上したテイラー・システムやフォードのシステムを、家庭内にも応用して家事を科学的に考えて生活やその環境のあり方を構想したのがアメリカにおける家政学です。ドイツの建築家たちはそれに影響を受けるのです。
バウハウス初代校長のグロピウスは、車のフォードのシステムから多くの影響を受け、住居の領域のフォードをめざしていたといわれています。グロピウスはアメリカの工業的につくられた建物の写真を収集していました。柏木博「未来生活を構想した家政学」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』
では、その元となったアメリカの家政学においては何が目指されたのか?
1860年代のアメリカの家政学の分野では、ビーチャー姉妹がキッチンの効率化を行っていますが、その背景にはそれまでアウトソーシング(奴隷による労働)していた家事を、内製化しようとしていたという事情もあります。
ビーチャー姉妹は、家事労働を軽減するために、まず具体的な設備に注目します。設備を使いやすくすれば、家事の時間や費用や労力が節約できると考えたからです。家庭内で家族全員が家事に参加することを表明しています。それは当時のアメリカの中産家庭でサーバントを雇うことなしに、つまり家族ではない黒人を使役しないことを意味します。柏木博「未来生活を構想した家政学」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』
ようするに、それまで家事をやったことがないような素人にもその作業ができるようにする必要があったんですね。奴隷が身体知としてもっていた技術やノウハウを明示的に機能化したわけです。家事の素人にあわせるために標準化が行われた。誰でもつかえるようにするユニバーサル・デザインです。しかも、それは効率的につかえる必要があったわけです。
還元主義の罠
この生産性、効率を重視した機能主義的な考え方が、複雑にみえるものから単純なパターンを抽出し数学的に抽象化してみせる科学的な思考に影響を受けているのは明らかです。ただ、悪いことに部品の組み合わせにより全体が構築できると思ってしまったのは、科学における還元主義の罠とおなじです。バラバラに要素分解したのはいいけど、組み立てられなくなってしまった。組み立てたものがどうもうまくいかなくなってしまった。科学においても還元主義に対して複雑系科学などのゆり戻しがあるように、デザインの分野でも機能主義に対して関係性というカウンターが出てくるのはとうぜんの流れのような気がします。
機械化を進めるためには、「誰もが使える」ということ以上に、機械として成り立つための普遍性のある(工業)規格化としてのユニバーサル・デザインが必要だったのでしょう。それが機械同士のインターフェイスを越えて、人間とのインターフェイスの規格化にもおよんでしまったのが問題です。人間には本来可能なことまで機械にあわせる形で捨象されてしまった感はあります。
家事の楽しさ、使いこなしの余地
何よりそこでは苦労するという自由や楽しみが失われてしまいました。最近、僕は梅の世話をする楽しみをおぼえましたが、おそらくデザインというのは本来そこまで含めてデザインだったのではないかという気がしています。
家事を好むということは、生活を「心地良く」する作業です。もちろん、それが義務となり辛いものとなる場合もあるでしょうが、わたしにとっては、「心地良さ」あるいは「居心地」にかかわっています。生活を心地良くしようとするわけですから、それは「我が儘」なことでもあります。柏木博『玩物草子』
家事や仕事にこそ、本来デザインのための知恵があったのではないでしょうか。使う側が素人になればなるほど、人間側の知恵がデザインに必要なくなり、モノと利用者の関係性が記号化されたコミュニケーションばかりになり、機能主義的になってしまうのではないかという気がするのです。
誰もが使えるデザインを否定する気はないのですが、このボタンを押したらこの機能が動くという記号的なつながりではなく、利用者の側が工夫して使えるような余地を残したデザインがあってもいいのではないかと思うのです。
道具の側が利用者のコンテキストにあわせられるような自由度をもったデザインが必要になってくるのかなと思っています。
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