変化と固定化:日本に期待されていること

変化する動きそのものを重視するか、固定化されたモノそのものを重視するか。

ここ最近のエントリー、


で書いてきた日本古来のモノの見方には、そのことが大きく関わっていると思います。

意味を超えたところにある何か」で引用した養老孟司さんの言葉にあるように「生き物は二度と同じ状態にあることはなく、反対に表現は決して変化しない」のであって、このいずれ-同じ状態にあることなく変化し続ける生物・自然か、人間によってコントロール可能な形に固定化された人工物か-に価値をおくか=畏れるかは、人びとの思想を形づくるうえで重要な岐路となりえます。

その岐路で、後者に重きをおいたのが西洋や現代社会のものの見方であり、日本古来のものの見方というのは前者であたるでしょう。

アフォーダンス理論とのかかわり

しかし、どことなく閉塞感の漂う現代社会において、変化に焦点をあてる思考というのも注目される傾向にあるようにみえます。たとえば、いわゆるアフォーダンス理論のものの見方などは意外にも日本古来のものの見方に通じるところがあります。

生態学的認識論における情報と環境」というエントリーで紹介したように、アフォーダンス理論で有名なジェームス・ギブソンが提唱した生態学的心理学(あるいは生態学的認識論)では、「情報は人間の内部にではなく、人間の周囲にある」と考えられ、「知覚は情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的につくり出すことではない」とされます。人間をはじめとする生物は、環境とのインタラクションのなかで、サーフェスのレイアウトの変化そのものを自身の行動をアフォードする情報を読みとっているという見方です。

私たちが認識のためにしていることは、自身を包囲している環境に情報を「探索する」ことなのである。環境は、加工されなければ意味をもたない「刺激」のあるところではなく、それ自体が意味をもつ「持続と変化」という「情報」の存在するところとして書き換えることができる。
佐々木正人『アフォーダンス-新しい認知の理論』

環境とのインタラクションにおいて、サーフェスのなかで持続するものと変化するものを捉えて、それをそのまま情報として読みとる。モノ自体に意味を見出すというより、その動きそのものに意味=情報を見出すのです。

なぜに日本人はこれほどまでにアフォーダンスに興味を示すのでしょうか?

そこが自然の変化そのものに生命力をみて、それを神と感じた古代日本人の感覚と通じるところがあります。その意味でアフォーダンス理論は日本人の感覚からすると、ある意味自然な理論に感じられるのかもしれません。
深澤直人さんも『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』のなかで、日本人がそれが生まれたアメリカ本国以上にアフォーダンス理論に関心を示す傾向があることを指摘しています。

佐々木正人氏は私に何度か同じ質問をしてきた。「なぜに日本人はこれほどまでにアフォーダンスに興味を示すのでしょうか?」と。そしてまた「アメリカ人はこれほどまでには興味を示さないのか・・・?」と。
後藤武、 佐々木正人、深澤直人『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』

もともと色即是空や諸行無常という観念が身近にあり、固定化されたモノそのものよりも変化する生命の力にこそ、価値を認めてきた文化の影響がいまの日本人にも残っているのかもしれません。

自然環境にアフォードされた日本の無常観

だからといって、僕はそれが日本民族に流れる血によるものだとかいう風なオカルト的あるいは選民思想的なことを考えているわけではすこしもありません。
むしろ、日本にあった変化を重んじる感覚は、日本の自然環境がそれを強いたのだと思っています。

まさに、

  • 高温多湿でほっといても草木が育ち、
  • かつ四季の変化が多彩で、酷暑も極寒の日も長くは続かず、
  • 国土のほとんどが山で平地が少ない変化に富んだ地形をもち、
  • 湿度が高いため月の隠れる夜も多く、一方で太陽の位置を示す山や木には困らなかったことから月よりも太陽を重視したりといった、

そうした自然環境にアフォードされる形で、変化に重きをおくような日本のものの見方は培われていったのだろうと考えます。それは砂漠で培われた思想とは異なってとうぜんなんだと思います。それぞれの環境では生きるために必要な知恵、また、利用できる情報がまるで異なるのですから。
それが「「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一」でも紹介したような、無常観やはかなさに包まれた日本の思想をつくりあげていったのではないでしょうか。

「知覚と行為」をつくることにフォーカスしたデザイン

先にも引用した『アフォーダンス-新しい認知の理論』のなかで佐々木正人さんは、こんなことを言っています。

デザイナーは、道具の要素となる「形」の専門家ではなく、まずは道具を介したときに、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはいけない。
佐々木正人『アフォーダンス-新しい認知の理論』

人間中心設計、ユーザー中心のデザインではよく言われることですが、佐々木さんがこの言葉を語るとき、すこし違った響きがあるように僕には感じられます。それはむしろ環境とインタラクションするなかで情報を見出していく人間の知覚と行為そのものをデザインの対象に考えているような印象をもちます。デザインの対象が異なるのです。

「形」をつくることにフォーカスしたデザインではなく、「知覚と行為」をつくることにフォーカスしたデザイン。

それはたとえば情報デザインで考えると、固定化された情報をただ右から左に動かすのでもなく、不確定な世界を情報化して安心するのでもないでしょう。むしろ、古来の日本のように、はかない世界の変化に満ちた自然の生命力をそのまま受け入れる思想や、それに基づき、変わりゆく自然とともに歌い舞うような儀礼的なライフスタイルにつながるような、そんなイベント・経験そのものをデザインする行為なのではないかと思います。

コミュニケーションをリデザインする

モノや記号に固定化することで安心やコントロールの可能性を得ようとするのではなく、コントロール不可能な不確実性を許容し、むしろ、変化そのものに生命力をみて価値を感じることができるライフスタイル。

そうなるときっと、人工物との接し方も変わってきて、昔のように必要なときに取り出して用が済めば仕舞うというモノとの付き合い方もできるのではないかと思うのです。「茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁」や「鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち/長町美和子」で紹介したような暮らしです。

そして、自然の生命力の変化という形で庭を通って訪れる神、訪れる客人にあわせてモノの趣向をこらす。それが神や人とのコミュニケーションになる。
これも昨日の「庭と日本人/上田篤」で紹介したとおりです。行われるコミュニケーションの形は何も昔のままの連歌会や茶会でなくてもいいと思うのです。生命力としての神を招いた客人とともに感じながら、そこにコミュニケーションが生まれる場であれば。

欲望と修学意欲とモノのデザイン

そうなればモノのデザインの仕方も変わってきます。
買ったばかりの新しいときにだけ魅力をはなつデザインではなく、能面のように時と場合によってさまざまな表情をみせるデザインのほうが必要になってくる。子供だましのデザインではなく、歳を重ねるほど、ありがたみがわかるようなデザインに。

それがまた人びとの修学意欲をかきたてるのではないでしょうか。そこには知りたいことがある。単にとっかえひっかえモノを購入することで欲望を満たすのではなく、ひとつのモノと長く付き合いながら自分もモノも変わり続けることで新しい魅力を発見しようという、そういう欲望のあり方を喚起できるのではないか。そんなことも思います。
いまはあまりに知識を得ることと欲望することが切り離されてしまっていて、むしろ、欲望は無知と結びついてしまっているようです。これでは修学意欲なんて起きるわけがないんです。

日本に期待されているもの

そして、そういうライフスタイル、モノとの付き合い方に関するノウハウ・知見をもっているのはなにより日本の文化です。閉塞感の漂う世界がいま日本に期待するものがあれば、そうしたノウハウ・知見の開示なのではないでしょうか。
であれば、僕らはこれから、日本がいままでやってきたことをちゃんとわかるように世界に対して説明する責任があるのではないかと思うのです。言葉で、態度で、そして、実際のライフスタイルとして。

もちろん、それには僕ら自身が忘れてしまった日本という方法を思い出さないといけません。いや、個人としての僕らはそんな昔のことはもはや知らないのですから、思い出すというより学びなおしです。

ただ、それでも僕らには学ぶうえでの有利さはあります。なぜなら学ぶ環境・学ぶための場はすぐそこにあるのですから。どんなに開発が進んでもまだまだ日本の国土には多くの山が残っているのです。

デザインというものをそういう視点でもう一度捉えなおす必要があると僕は感じています。

   

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