たまたま、その日は出かけた際に電車のなかで読む本をもっていなかったのでした。
そして、移動中、本を読むのを我慢するのはいやだったのです。
そして、品川駅構内の本屋で見つけたのがこの一冊。
あまり期待していなかったんですが、読んでみるととても参考になりました。
ずっと疑問に思っていた、
日本人はなぜ家にあがるとき、靴を脱ぐのか?
に対する答えが見つかった気がしたからです。
太陽祭祀と日本の庭
まず、この本は、平安期の天皇の日常のすまいであった清涼殿の東庭からはじまります。清涼殿の庭は東を向いているといいます。
一方で、公式行事が行われる紫宸殿の庭は中国の「天子南面する」の原則を受けて南に庭がある。
清涼殿の庭が東面しているかという理由は、そこで行われた行事である四方拝(しほうはい)をみるとわかるそうです。
その行事は毎年元旦の朝4時頃に行われ、天皇は北斗七星、天地、東西南北、山陵などを順に拝み、国の1年の無事を祈りました。その四方拝が太陽の祭祀であり、天皇は太陽の超自然的な力をうけて先のさまざまなものの安寧をいのるものだったから、それが行われる清涼殿の庭は東に面する必要があったのだと著者である上田さんはいいます。
こうした太陽祭祀はすでに縄文時代からあったそうです。
縄文の集落は住居や墓などを円形に配して真ん中に広場がつくられていました。この広場は祭祀場であると同時に、人びとが仕事や食事や遊びもした基本的な生活空間でした。人びとは生活の大部分をそこで過ごし、狭くて暗い竪穴住居はせいぜいベッドルームか火置き場でしかなかったそうです。
それから、時代がすすむと集落から離れたところにたくさんの石を輪のように並べたストーンサークルがつくられるようになります。このストーンサークルこそが太陽祭祀の場でした。人びとはそこで太陽の生命力をうける勾玉などを製作しました。それらの装身具を身につけることで太陽のタマ(霊力)を授かったのです。これは昨日の「不確実な世界の変化を受け入れる敏感さ」で書いたタマフリの儀礼につながる話です。
またストーンサークルでは神さまをまつるために、人びとは手をふり足を踏みならして歌い、踊ったそうです。それが後の田祭りでの田楽にもつながっていきます。
するとニハは「野の間」であろう。野のなかの「かこわれた場所」だ。原初的にはさきの縄文人の環状集落の広場である。その「かこわれた野」つまりニハのなかに日本人の野にたいする愛好心がよみとれるのだ。上田篤『庭と日本人』
そうした神さまと人、人間同士のコミュニケーションの場が日本の庭の原点にあるのだろうと著者は考えています。
マナイズムと日本の庭
こんな話からマナイズム(著者はタマイズムと名づけています)を、神さまと人間、自然と人間の交流を背景にしながら、著者は京都のさまざまな寺社の庭を紹介していきます。桂離宮は月をみるためにつくられたものだといい、有名な建物以上に各地の名所に見立てた回遊式の庭園こそが重要だと述べていますが、一般的にも有名な庭園が紹介されるのはその章くらい。
あとはどちらかといえば、それほど有名ではない隠れた名園をもつ寺社が紹介されているのが僕にはおもしろかった。
- 東山の山麓にある日向神社にはなぜ白砂が敷かれているのかを、熊野本宮大社が現在の場所に遷る前の大斎原(おおゆのはら)が十津川の中州にあることやアラブの人たちが白い服を着ていることとの関係から解き明かしたり、
- 嵯峨院大覚寺にある大沢池をみながら神と遊ぶ場としての庭の機能を解きながら、平安期の寝殿造りにおいては「泉をようする大きな南庭が寝殿づくりの生命だった」といい、「寝殿などという建物はその庭の一部でしかないのだ」と断言したり、
- 一休さんが晩年を過ごした酬恩庵(俗に一休寺といわれる)の露地の蹲(つくばい)について考えながら、それが夕刻から夜にかけて行われる茶会において、蹲の水面に映った月を手のひらですくって、そのタマを飲み込む行為だったのではないかと考えていたりします。
西洋の幾何学的に自然を封じ込める庭と異なり、日本の庭は借景庭園なども含めて、自然を人間の手でコントロールしようとはしません。
むしろ、昨日紹介した花見・山見の行事で行われていた自然のタマを自分に取り入れるということを、もうすこし身近になった自然である庭で日常的に行おうとしたのかもしれません。
ではなぜ庭か?
人間に生きるエネルギーをあたえる空間は建物ではなく庭、すなわち自然だからだ。庭の木であり、草であり、花であり、苔であり、虫であり、鳥であり、わたる風であり、さしこむ日である。それらは自然であり、一休のいう虚空だ。上田篤『庭と日本人』
それはタマフリの儀式であり、神を招き遊ぶ場所だったのです。
日本の家の2つの出入口
さて、では、なぜこうした話が最初に書いた「日本人はなぜ家にあがるとき、靴を脱ぐのか?」という問いへの回答になるのでしょう。上田篤さんによれば、日本のすまいにおいては、露地口から庭を通って座敷に入るのが正式のルートなのだそうです。ふだん、僕らがそこが入り口だと思っている玄関は「ケの出入口」であって、日常つかわれる簡易的な出入口でしかないそうです。
すまいが「ハレの出入口」と「ケの出入口」というように出入口を2つもつのは、日本の家の大きな特色といっていい。それは日本の家が「人間のすまい」であるとどうじに「神さまのすまい」であることをしめしている。上田篤『庭と日本人』
興味深いのは、正式な出入口が庭を通って座敷にはいるルートだという点です。
神を招くのには、庭から座敷へというルートが想定されたということです。先にも紹介したように、庭は古代においては、神とともにあり、神と遊ぶ場所でした。
上田さんは「縄文時代の竪穴住居がすでにそうだった」といいます。
「竪穴住居は、人間のすまいというより神聖にして威力ある火をたやさないための「火のすまい」だった」と。
すまいは古代の日本人にとって、神を招くための聖なる空間だったのです。だからこそ、その聖なる空間で、日本人は靴を脱いだ。
すまい=住み合い
「すまい」という言葉はもともとは「住み合い」だったといいます。スミアイがつまってスマイになった。神と住み合い、自然と住み合うのが日本人にとってのすまいだったのです。
そのすまいには2つの出入口があった。
神を招く正式なルートは庭をとおるほうだった。そして、縄文時代においては竪穴住居に囲まれた円形の広場こそが生活空間であり竪穴住居はベッドルームか火置き場でしかなかったのですし、平安期の寝殿造りにおいても「泉をようする大きな南庭が寝殿づくりの生命」であり寝殿そのものは庭の一部でしかなかったのです。
大事なのは建物そのものより神が訪れ自然が生命のタマをふりながら日々変化する庭のほうだったのです。「意味を超えたところにある何か」では、表現の固定化と人間を含む生物の変化の対比をみましたが、日本人が従来大事にしていたのは、固定化よりも変化のほうだったのではないかと思います。
ウツ、ウツロフ、ウツツ・・・。
そして、現代のすまいには庭がなくなりつつあります。それと同時に現代のすまいからなくなりつつあるものがもう1つあって、それを上田さんは客間や応接間だと指摘しています。
客間や応接間を失い、スマイは友人や客を迎える機能を失っています。住み合いだったすまいはもはや神どころか、友人や客人さえ呼べなくなっています。もちろん、そうした人や神を招く正式なルートとしての庭も。
あー、なんだか京都に行きたくなりました。
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